前方後円墳と古墳時代の始まり

蒲生君平(がもうくんぺい;1768年から1813年)は、『山陵志(さんりょうし)』で、全国の地名を念入りに調査して、車塚の地名と古代中国の歴史書の柩車(きゅうしゃ;柩(ひつぎ)を乗せる車)である銅馬車(どうばしゃ)を結び付けて、前方後円墳の名前を名付けたと記す。

前方後円墳の形の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)は、最古が香川県高松市の高松空港跡地(あとち)遺跡で、築造年代が紀元前3世紀頃(約2200年前)で、兵庫県赤穂(あこう)市の有年原田中(うねはらたなか)遺跡が2世紀後半頃で、大阪市の長原(ながはら)遺跡と滋賀県長浜(ながはま)市の五村(ごむら)遺跡が3世紀初頭頃で、前方後円墳の原形の墳丘墓である。
大阪市の長原(ながはら)遺跡と滋賀県長浜(ながはま)市の五村(ごむら)遺跡は、3世紀初頭頃の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)で、垂仁(すいにん)天皇39年7月1日(西暦190年8月上旬頃)に葬礼の垂仁(すいにん)天皇陵が最古の前方後円墳の纏向(まきむく)石塚古墳で、以降の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)を前方後円墳と訂正するか、考古学(遺跡・遺物)の議論が必要である。
前方後円墳の形の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)は、築造年代が紀元前3世紀頃の香川県高松市の高松空港跡地(あとち)遺跡が最古で、前方後円墳の形が天皇家誕生より前の時代で、天皇家と無関係である。

崇神(すじん)天皇元年(西暦84年)は、日本の建国(天皇家誕生)で、崇神(すじん)天皇12年(西暦95年)が出雲王国(物部(もののべ)氏)の建国の報告をして、『日本書紀』崇神(すじん)天皇17年10月(西暦100年11月頃)に初めて船舶(せんぱく;大型の船)を作って、四国に向かう船と考えられて、香川県高松市で、前方後円墳の形の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)が確認された可能性がある。
西暦100年に古代天皇家は、四国に向かう船舶(せんぱく;大型の船)を作って、四国で前方後円墳の形の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)を確認して、垂仁(すいにん)天皇元年10月11日(西暦152年11月中旬頃)に前方後円墳の形の崇神(すじん)天皇陵を築造して、奈良県橿原市の瀬田(せた)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)と考えられて、2世紀中頃の築造が合致した。
崇神(すじん)天皇12年(西暦95年)は、出雲王国(物部(もののべ)氏)ができて、垂仁(すいにん)天皇元年(西暦152年)に崇神(すじん)天皇陵の最有力候補である瀬田(せた)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)ができたと考えられて、前方後円墳の誕生年(西暦190年年末から191年年始頃)まで時間があって、出雲から前方後円墳の形の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)が見つかる可能性がある。

崇神(すじん)天皇68年12月5日(西暦152年1月上旬頃)に崇神(すじん)天皇は、102才で崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、垂仁(すいにん)天皇元年10月11日(西暦152年11月中旬頃)に崇神(すじん)天皇の亡骸(なきがら)を山辺(やまのべ)に葬礼して、従者5人を殉死(じゅんし;主人の後を追って従者が死ぬこと)した。
『日本書紀』の崇神(すじん)天皇陵の名称は、山辺道上陵(やまのべみちうえのみささぎ)で、『古事記』の名称が山辺道勾岡上陵(やまのべみちまがりおかうえのみささぎ)で、「記紀」が適当に名前を増やして、考古学(遺跡・遺物)の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)の名前がなく、『ホツマツタエ』から山辺陵(やまのべのみささぎ)と僕が自称して、後世に呼ぶと考えられる。

崇神(すじん)天皇陵の最有力候補は、奈良県橿原市の瀬田(せた)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)で、全長が約26メートルで、2016年に発掘結果を発表して、天皇陵だから前方後円墳の形と考えられて、埋葬者が見つからず、2世紀中頃から後半頃の築造年代で、前方後円墳をネット検索して、2022年10月18日に求めた。
崇神(すじん)天皇陵は、垂仁(すいにん)天皇元年10月11日(西暦152年11月中旬頃)に崇神(すじん)天皇を葬礼して、垂仁(すいにん)天皇5年6月1日(西暦156年7月上旬頃)に2代目出雲国王の狭穂彦王(さほひこのみこ)が起こした皇位継承権争い(倭国大乱;わこくたいらん)より前で、邪馬台国(大和国;やまとこく)時代より以前の王墓(おうぼ;天皇陵)である。
正統『竹内文書(たけのうちもんじょ)』は、前方後円墳の形の不明な伝承を伝えて、歴代天皇陵が全て前方後円墳の形と伝えるなら、西暦152年葬礼の崇神(すじん)天皇陵が瀬田(せた)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)と確定して、正統『竹内文書(たけのうちもんじょ)』が古墳時代の前方後円墳の呼び名を伝える可能性も考えられる。

垂仁(すいにん)天皇39年7月1日(西暦190年8月上旬頃)に垂仁(すいにん)天皇は、崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、48日間の喪祭(もまつ)りをした8月16日(西暦190年9月中旬頃)の夜にお墓へ埴輪(はにわ)を立てて、12月10日(西暦191年1月上旬頃)に亡骸(なきがら)を菅原伏見(すがわらふしみ)の纏向(まきむく)石塚古墳に葬礼して、夜半に松明(たいまつ)で照らされて、厳(おごそ)かに神霊の成仏(じょうぶつ)となった。
『ホツマツタエ』と『日本書紀』の合致した垂仁(すいにん)天皇陵の名称は、菅原伏見陵(すがわらふしみのみささぎ)で、考古学(遺跡・遺物)の陵墓名が纏向(まきむく)石塚古墳で、後世に呼ぶと考えられる。

垂仁(すいにん)天皇陵の纏向(まきむく)石塚古墳は、垂仁(すいにん)天皇の葬礼日が古墳時代の始まりで、最古の古墳と定義付けて、全長96メートルで、埋葬者が見つからず、古墳と墳丘墓などの区別を考古学会で徹底して、超天才の僕が求めた事実が正しい。
垂仁(すいにん)天皇陵の纏向(まきむく)石塚古墳は、垂仁(すいにん)天皇の葬礼日が西暦190年年末か191年年始頃で、大晦日(おおみそか)か元旦(がんたん)に当たる可能性があって、古墳時代の始まりを歴史学者が正しく求めるのが急務である。
垂仁(すいにん)天皇陵は、最古の前方後円墳の纏向(まきむく)石塚古墳で、奈良県から大阪府の前方後円墳の衰退が6世紀後半から末頃で、衰退時期が欽明(きんめい)天皇から崇峻(すしゅん)天皇の辺りで、全ての歴代天皇陵に前方後円墳の形を採用したと考えられる。

全長280メートルの前方後円墳の箸墓(はしはか)古墳は、埋葬者が見つからず、仲哀(ちゅうあい)天皇元年11月10日(西暦252年12月上旬頃)か仲哀(ちゅうあい)天皇2年11月10日(西暦253年12月上旬頃)に景行(けいこう)天皇を葬礼して、垂仁(すいにん)天皇と景行(けいこう)天皇の親子だけが古墳の天皇陵として判明した。
『日本書紀』の景行(けいこう)天皇陵の名称は、山辺道上陵(やまのべみちうえのみささぎ)で、祖父の崇神(すじん)天皇陵と同名で、考古学(遺跡・遺物)の陵墓名が箸墓(はしはか)古墳で、正式名が『ホツマツタエ』の箸塚(はしづか)で、後世に呼ぶと考えられる。

箸墓(はしはか)古墳は、宮内庁指定陵の倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと;倭姫命(やまとひめのみこと)を祖先化)の墓(はか)でなく、卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)の男弟(だんてい;異母弟)である景行(けいこう)天皇陵が正しい。
『三国志・魏志倭人伝』は、卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)が女王国(伊勢国;三重県中部)の皇女で、男弟(だんてい;異母弟)の景行(けいこう)天皇が邪馬台国(大和国;やまとこく)を実質的に統治する男性王で、卑弥呼(ひみこ)と男弟(だんてい)の正体が鍵(かぎ)である。

初代の崇神(すじん)天皇陵の最有力候補は、瀬田(せた)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)の全長が約26メートルで、2代目の垂仁(すいにん)天皇陵の纏向(まきむく)石塚古墳が全長96メートルで、3代目の景行(けいこう)天皇陵の箸墓(はしはか)古墳が全長280メートルで、3つ共に前方後円墳の形で、どんどん巨大化して、古代天皇家の勢力の拡大を証明した。
邪馬台国(大和国;やまとこく)時代の王墓(おうぼ;天皇陵)は、垂仁(すいにん)天皇陵の纏向(まきむく)石塚古墳と景行(けいこう)天皇陵の箸墓(はしはか)古墳だけが判明して、それ以前の崇神(すじん)天皇陵の最有力候補が瀬田(せた)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)で、僕が特定した天皇陵が3つで、凡人(僕以外の人間)が絶対に特定できない神技(かみわざ)である。

日本武尊(やまとたけのみこと)は、滋賀県の伊吹山(いぶきやま)で毒蛇に咬(か)まれて、三重県の能褒野(のぼの)で死んで、能褒野(のぼの)の古墳に葬礼して、死後に白鳥になって、仲哀(ちゅうあい)天皇元年11月4日に白鳥が黒鳥になって、2つの白鳥陵(しらとりのみささぎ)の古墳を否定して、全て間違いである。
日本武尊(やまとたけのみこと)は、仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月17日(西暦260年11月中旬頃)に出雲で戦死して、同一人物の成務(せいむ)天皇が成務(せいむ)天皇60年に亡くなって、翌年9月6日(西暦261年10月上旬頃)に倭(大和;やまと)の狭城盾列陵(さきたたなみのみささぎ)に葬礼したが、出雲の古墳と大和(おおやまと)古墳群の前方後円墳に分骨したと考えられる。
日本武尊(やまとたけのみこと)陵は、佐紀盾列(さきたたなみ)古墳群の狭城盾列陵(さきたたなみのみささぎ)も能褒野(のぼの)の古墳も2つの白鳥陵(しらとりのみささぎ)の古墳も否定して、正しい陵墓名が分からないと考えられる。

摂政(せっしょう)2年11月8日(西暦262年12月上旬頃)に葬礼の仲哀(ちゅうあい)天皇陵は、河内国(かわち;大阪府東部)の長野陵(ながののみささぎ)に葬礼したと記すが、時期的に考えて明らかな間違いで、奈良県の大和(おおやまと)古墳群の前方後円墳と考えられる。

応神(おうじん)天皇41年2月15日(正しくは摂政(せっしょう)50年2月15日;西暦年310年3月中旬頃)に誉田別尊(ほむだわけのみこと)は亡くなって、天皇でないため崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)と呼ばなくて、『日本書紀』に葬礼日も陵墓名も記さない。
宮崎市の前方後円墳の生目(いきめ)1号墳は、3世紀末から4世紀前半の築造で、箸墓(はしはか)古墳(景行(けいこう)天皇陵)の相似形で、誉田別尊(ほむだわけのみこと)陵の有力候補である。

神功(じんぐう)皇后は、摂政(せっしょう)69年10月15日(西暦329年11月中旬頃)に佐紀盾列(さきたたなみ)古墳群の狭城盾列陵(さきのたたなみのみささぎ)に葬礼したが、奈良県の大和(おおやまと)古墳群か柳本(やなぎもと)古墳群の前方後円墳と考えられる。

大阪府の4世紀後半から5世紀後半頃の前方後円墳は、全国的にも大きい最盛期で、最大の前方後円墳が宮内庁指定の仁徳(にんとく)天皇陵の大仙(だいせん)古墳で、5世紀前半から中頃の築造で、埋葬者が見つからず、始皇帝陵やクフ王のピラミッドよりも面積の大きい最大の墳墓で、ギネス記録になってない。
仁徳(にんとく)天皇は、嘘(うそ)の年代が4世紀末の399年に亡くなって、5世紀前半から中頃に築造した大仙(だいせん)古墳の埋葬者だが、正しい年代が仁徳(にんとく)天皇34年1月16日(西暦367年2月中旬頃)に亡くなって、孫の安康(あんこう)天皇が正しい年代で、60年後の安康(あんこう)天皇33年8月9日(427年9月上旬頃)に亡くなって、歴史学(歴史書解釈)で、大仙(だいせん)古墳が安康(あんこう)天皇陵の可能性が一番高い。
歴史学で安康(あんこう)天皇陵は、大仙(だいせん)古墳の可能性が一番高くて、考古学(遺跡・遺物)で、大仙(だいせん)古墳の埋葬者の候補が仁徳(にんとく)天皇の孫の安康(あんこう)天皇と雄略(ゆうりゃく)天皇と曾孫の清寧(せいねい)天皇と顕宗(けんそう)天皇で、総合的に安康(あんこう)天皇陵が最有力候補である。

関東地方の最古の前方後円墳は、千葉県市原市の神門(ごうど)3・4・5号墳で、3世紀後半の築造で、菊麻国造(きくまくにみやつこ)の大鹿国直(おおかくにのあたい)か上海上国造(かみうなかみくにみやつこ)の忍立化多比命(おしたちかたひのみこと)の一族が古墳埋葬者と考えられる。
東北地方の最古の前方後円墳は、福島県河沼(かわぬま)郡会津坂下町の杵ヶ森(きねがもり)古墳で、3世紀末から4世紀初頭の築造で、石背国造(いわせくにみやつこ)の建彌依米命(たけみよりまいのみこと)か阿尺国造(あさかくにみやつこ)の比止彌命(ひとねのみこと)が古墳埋葬者と考えられる。
岐阜県揖斐(いび)郡大野町の笹山(ささやま)古墳は、西暦200年頃の築造で、東日本の最古の前方後円墳で、崇神(すじん)天皇の息子の八坂入彦命(やさかいりひこのみこと)が古墳埋葬者の可能性がある。
長野県中野市の高遠山(たかとおやま)古墳は、4世紀前半の前方後円墳で、三野後国造(みののみちのしりくにみやつこ)の臣賀夫良命(おみかぶらのみこと)が古墳埋葬者の可能性が高いと考えられて、三野後(みののみちのしり)が長野県東部に当たって、長野県中野市も長野県東部で、2023年12月20日に求めた。
四国の最古の前方後円墳は、徳島県鳴門(なると)市の荻原(おぎわら)2号墳で、築造が2世紀末から3世紀初頭で、纏向(まきむく)石塚古墳の築造年代を上回らなくて、『日本書紀』の崇神(すじん)天皇17年(西暦100年)に四国の平定を記した。中国地方の最古の前方後円墳は、鳥取県西伯(さいはく)郡南部(なんぶ)町の浅井11号墳で、3世紀末から4世紀初頭の築造で、西暦95年に出雲王国(物部(もののべ)氏)を建国して、2世紀末から3世紀初頭の前方後円墳が出雲の辺りで発見される可能性がある。
九州の最古の前方後円墳は、福岡市の那珂八幡(なかはちまん)古墳で、3世紀中頃の築造で、九州の平定が西暦202年から209年の3世紀初頭である。
僕の記した前方後円墳の知識は、ネット検索の情報と僕の超知識の結晶で、間違いなどあり得ない絶対条件である。

現在の考古学会は、纏向(まきむく)石塚古墳(垂仁(すいにん)天皇陵)から始まる纏向(まきむく)古墳群を3世紀前半から後半で、纏向(まきむく)古墳群の箸墓(はしはか)古墳(景行(けいこう)天皇陵)が3世紀中頃から4世紀前半とする考え方が多い。
現在の考古学会は、最古の古墳が纏向(まきむく)石塚古墳か疑問視して、色々な説を出して、考古学的証拠で年代を分析して、歴史書解釈を馬鹿にして、考古学会そのものが井の中の蛙(かわず)である。考古学会と歴史学会は、僕からすれば知識をかじっただけのシロウト集団で、超天才の僕に敵(かな)うはずもないが、奈良県と大阪府の大型の前方後円墳が大王クラス(天皇陵)の考え方が正しい。

前方後円墳は、全国で4800基から5200基ほどあって、離島の対馬や壱岐島(いきしま)や隠岐(おき)諸島などにもあって、千葉県が最多の720基ほどで、北海道と青森県と秋田県と沖縄県の4道県で発見されず、淡路島でも発見されなくて、韓国の南西部に5世紀後半から6世紀前半の十数基が存在して、他に前方後円墳が確認されていない。
全国に広がった前方後円墳は、埋葬者が地元の権力者(古代天皇家が任命した者)が大半で、最初から古代天皇家の威光や権力の象徴などと考えて、前方後円墳の形をまねて築造したと考えられる。
前方後円墳の衰退は、5世紀以降に築造されない徳島県などが珍しい例外で、全国的に6世紀後半から末頃に作られなくなって、関東地方や周防(すおう;山口県南東部)など一部の地域で7世紀初頭から前半頃まで作られて、これが前方後円墳の終わりである。
奈良県から大阪府の前方後円墳の衰退は、6世紀後半から末頃で、衰退時期が欽明(きんめい)天皇から崇峻(すしゅん)天皇の辺りと考えられる。

古墳時代は、垂仁(すいにん)天皇の葬礼日の2世紀末から始まって、大化(たいか)2年3月(西暦646年4月頃;7世紀中頃)に薄葬例(はくそうれい;古墳のような葬礼の否定)が出されて、古墳時代が7世紀末から8世紀初頭頃に終わって、この頃の古墳が高松塚古墳やキトラ古墳(総合して終末期古墳と呼ぶ)である。
古墳の例外は、7世紀から10世紀に北海道と東北地方北部で末期古墳(北海道式古墳;蝦夷(えみし)系墳墓)が作られたが、西暦254年に東日本を古代天皇家が統治して、蝦夷(えみし)が福井県東部と岐阜県北部と長野県と静岡県中部より以東の民族を指して、蝦夷(えみし)でなく、アイヌ系の民族を葬礼した可能性が高いと考えられる。

超天才の僕は、考古学(古墳)と歴史学(歴史書解釈)を合致させて、古代地名と古墳埋葬者の特定で、現代人(僕以外の人間)が幾ら研究しても、決して勝てない永遠の歴史研究の実績がある。
自分たちがちっぽけで世間知らずな専門家(考古学界と歴史学界)は、人類史上最高最大最強の超天才の僕に勝てなくて、悔(く)い改めることが神様の前で懺悔(ざんげ)することと同様で、2024年7月6日の午前9時半頃に修正した。

<参考文献>
『正統『竹内文書』の謎』
竹内睦泰・著者 株式会社学研パブリッシング・発行
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『邪馬台国の考古学』
石野博信・著者 株式会社吉川弘文館・発行
『先代旧事本紀 訓註』
大野七三・校訂編者 批評社・発行
『日本古代地名事典』
吉田茂樹・著者 新人物往来社・発行
岐阜新聞の笹山(ささやま)古墳のネット記事
インターネットの不明サイトから少々拝借

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