前方後円墳と古墳時代の始まり
蒲生君平(がもうくんぺい;1768年から1813年)は、『山陵志(さんりょうし)』で、全国の地名を念入りに調査して、車塚の地名と古代中国の歴史書の柩車(きゅうしゃ;柩(ひつぎ)を乗せる車)である銅馬車(どうばしゃ)を結び付けて、前方後円墳の名前を名付けたと記す。
前方後円墳は、鍵形(かぎがた)のような形の古墳で、丸い形の丘と四角い形の丘が繋(つな)がるような形で、前の方が四角で、後ろの方が丸いと考えて、蒲生君平(がもうくんぺい)が名付けて、古墳時代の前方後円墳の呼び名が分からないが、正統『竹内文書(たけのうちもんじょ)』が古墳時代の呼び名を伝える可能性がある。
前方後円墳の形の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)は、最古が香川県高松市の高松空港跡地(あとち)遺跡で、築造年代が紀元前3世紀頃(約2200年前)で、兵庫県赤穂(あこう)市の有年原田中(うねはらたなか)遺跡が2世紀後半頃で、大阪市の長原(ながはら)遺跡と滋賀県長浜(ながはま)市の五村(ごむら)遺跡が3世紀初頭頃で、前方後円墳の原形の墳丘墓である。
紀元前3世紀頃(約2200年前)の高松空港跡地(あとち)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)は、初代・崇神(すじん)天皇陵の瀬田(せた)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)が前方後円墳の形を受け継いで、2代目・垂仁(すいにん)天皇陵の纏向(まきむく)石塚古墳と3代目・景行(けいこう)天皇陵の箸墓(はしはか)古墳の2つが前方後円墳の始まりと多く議論される。
しかし僕は、高松空港跡地(あとち)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)を前方後円墳の始まりで、初代・崇神(すじん)天皇陵の瀬田(せた)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)を古墳時代の始まりと定義付けて、円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)の呼び名を消して、前方後円墳の呼び名に統一するのを専門家(考古学会と歴史学会)に進言して、日本国政府が主導で、前方後円墳や古墳時代の定義付けを根本的に変えたいと思う。
崇神(すじん)天皇元年(西暦84年)は、日本の建国(天皇家誕生)で、崇神(すじん)天皇12年(西暦95年)が出雲王国(物部(もののべ)氏)の建国を報告して、崇神(すじん)天皇17年10月(西暦100年11月頃)に四国に向かう船舶(せんぱく;大型の船)を作って、高松空港跡地(あとち)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)を確認したと考えられる。
古代天皇家は、四国を平定して、高松空港跡地(あとち)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)を確認して、垂仁(すいにん)天皇元年10月11日(西暦152年11月中旬頃)に初代・崇神(すじん)天皇陵の瀬田(せた)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)に葬礼して、前方後円墳の形を採用したと考えられる。
香川県高松市の高松空港跡地(あとち)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)は、紀元前3世紀頃(約2200年前)の築造で、崇神(すじん)天皇17年10月(西暦100年11月頃)に香川県が古代天皇家の領土で、垂仁(すいにん)天皇元年10月11日(西暦152年11月中旬頃)に初代・崇神(すじん)天皇陵の瀬田(せた)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)に葬礼して、前方後円墳の形を理論的に説明できる。
弥生時代の墓(はか)は、墳丘墓(ふんきゅうぼ)と呼んで、古墳時代の墓(はか)を古墳と呼んで、弥生時代と古墳時代の境目(さかいめ)を2代目・垂仁(すいにん)天皇陵の纏向(まきむく)石塚古墳か3代目・景行(けいこう)天皇陵の箸墓(はしはか)古墳として、専門家(考古学会と歴史学会)が曖昧(あいまい)に認識して、一般に公表した結果である。
前方後円墳の形の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)は、弥生時代の墓(はか)と定義して、古墳時代の墓(はか)の前方後円墳とするが、そもそも同じ形で曖昧(あいまい)に区別して、弥生時代と古墳時代の時代区分も曖昧(あいまい)で、意見の統一を日本国政府の主導で、専門家(考古学会と歴史学会)が議論すべきと僕は思う。
弥生時代と古墳時代の時代区分や円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)と前方後円墳の名前の統一などは、学問の考古学会や学校教育の歴史教科書の修正など、国家規模の大変革を日本国政府が主導して、考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)の知識を書き換える一大事業で、根本的な考え方を変える必要がある。
超天才の僕の自論は、歴史研究の大革命で、専門家(考古学会と歴史学会)や神道界や歴史教科書など、根本的な影響力が大きすぎて、自分でもどれほど影響するか想像できず、僕一人で抱(かか)え込めなくて、このような僕の指摘が単なる序章で、天皇家(皇室)も日本国政府も専門家(考古学会と歴史学会)なども、覚悟しなければならない。
『ホツマツタエ』崇神(すじん)天皇68年12月5日(西暦152年1月上旬頃)に崇神(すじん)天皇は、102才で崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、垂仁(すいにん)天皇元年10月11日(西暦152年11月中旬頃)に崇神(すじん)天皇の亡骸(なきがら)を山辺(やまのべ)に葬礼して、従者5人を殉死(じゅんし;主人の後を追って従者が死ぬこと)した。
『日本書紀』の崇神(すじん)天皇陵の名称は、山辺道上陵(やまのべみちうえのみささぎ)で、『古事記』の名称が山辺道勾岡上陵(やまのべみちまがりおかうえのみささぎ)で、「記紀」が適当に名前を増やして、考古学(遺跡・遺物)の瀬田(せた)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)に名前がなく、『ホツマツタエ』から僕が山辺陵(やまのべのみささぎ)と呼ぶ。
瀬田(せた)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)は、垂仁(すいにん)天皇元年10月11日(西暦152年11月中旬頃)に崇神(すじん)天皇を葬礼して、垂仁(すいにん)天皇5年6月1日(西暦156年7月上旬頃)に起きた2代目出雲国王の狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱(倭国大乱;わこくたいらん)より前の出来事で、邪馬台国(大和国;やまとこく)時代より以前の天皇陵である。
崇神(すじん)天皇陵は、奈良県橿原市城殿町(しきどのちょう)の瀬田(せた)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)で、全長が約26メートルで、2016年に発掘結果を発表して、埋葬者が見つからず、2世紀中頃から後半頃の築造年代で、天皇陵だから前方後円墳の形で、前方後円墳をネット検索して、2022年10月18日に求めた。
崇神(すじん)天皇陵の瀬田(せた)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)は、西暦694年に持統(じとう)天皇が作った藤原京の一画にあって、畝傍山(うねびやま)の東南東にあって、皇統譜(こうとうふ;皇室の戸籍簿)で、初代の神武(じんむ)天皇陵が畝傍山(うねびやま)の北北東の奈良県橿原市大久保町(おおくぼちょう)にある四条ミサンザイ古墳で、初代天皇陵が畝傍山(うねびやま)の近くにあると証明した。
初代天皇の崇神(すじん)天皇陵は、100%正しいと確信して、最初から前方後円墳の形で、後世まで前方後円墳の形が基礎になって、畝傍山(うねびやま)の近くを2025年5月20日の午前7時頃に求めて、考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)が合致した。
出雲王国(物部(もののべ)氏)は、崇神(すじん)天皇12年(西暦95年)に建国して、垂仁(すいにん)天皇元年10月11日(西暦152年11月中旬頃)に初代・崇神(すじん)天皇陵の瀬田(せた)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)に葬礼して、垂仁(すいにん)天皇39年12月10日(西暦191年1月上旬頃)に2代目・垂仁(すいにん)天皇陵の前方後円墳の纏向(まきむく)石塚古墳に葬礼した。
古代天皇家は、垂仁(すいにん)天皇元年10月11日(西暦152年11月中旬頃)に円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)から、前方後円墳の形を採用して、中部地方に出雲王国(物部(もののべ)氏)が存在して、垂仁(すいにん)天皇39年12月10日(西暦191年1月上旬頃)までに出雲で、円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)が見つかる可能性があるが、円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)と前方後円墳の呼び名を統一すべきと提案する。
『ホツマツタエ』垂仁(すいにん)天皇39年7月1日(西暦190年8月上旬頃)に垂仁(すいにん)天皇は、崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、48日間の喪祭(もまつ)りをした8月16日(西暦190年9月中旬頃)の夜にお墓へ埴輪(はにわ)を立てて、12月10日(西暦191年1月上旬頃)に亡骸(なきがら)を菅原伏見(すがわらふしみ)の纏向(まきむく)石塚古墳に葬礼して、夜半に松明(たいまつ)で照らされて、厳(おごそ)かに神霊の成仏(じょうぶつ)となった。
『ホツマツタエ』と『日本書紀』の合致した垂仁(すいにん)天皇陵の名称は、菅原伏見陵(すがわらふしみのみささぎ)で、考古学(遺跡・遺物)の陵墓名が纏向(まきむく)石塚古墳で、後世に呼ぶことになる。
纏向(まきむく)石塚古墳の現状は、前方部が削(けず)って平(たいら)になって、後円部も戦時中に高射砲の陣地設営で、削(けず)って平(たいら)になって、埋葬施設が破壊された可能性があって、垂仁(すいにん)天皇の葬礼日を西暦年月に正しく直すと西暦190年年末から191年年始頃で、古墳時代の始まりの西暦年月日を歴史学者が正しく求める必要がある。
纏向(まきむく)石塚古墳の調査結果は、全長96メートルで、小さな前方部が32メートルで撥型(ばちがた)に広がって、後円部が直径64メートルの楕円形(だえんけい)で、墳丘を囲(かこ)む馬蹄型(ばていがた)の周濠(しゅうごう;堀:ほり)をめぐらして、周濠(しゅうごう)が幅(はば)20メートルと確認された。
周濠(しゅうごう)の中からは、鶏型木製品、孤文円板(こもんえんばん)、大量の鋤(すき)と鍬(くわ)、纏向(まきむく)1式の完全な形の土器、建築部材や祭祀的(さいしてき)な意味合いが強い朱塗(しゅぬ)りの棒などが出土して、鶏型木製品が朱塗(しゅぬ)りで、何らかの祭りに使ったと考えられる。
孤文円板(こもんえんばん)は、直系56センチメートルの円板の一部と考えられて、岡山県の特殊器台(きだい)土器の文様や岡山県倉敷市の楯築(たてつき)墳丘墓の神石(亀石)に刻まれた孤帯紋様(こたいもんよう)と合致して、考古学的に証明できる。岡山県倉敷市の楯築(たてつき)墳丘墓は、大正初期まであった楯築(たてつき)神社に御神体として神石(亀石)が安置されて、現在その神石が楯築(たてつき)墳丘墓近くの収蔵庫に祭られて、その神石全体に孤帯紋様が刻まれると言う。
楯築(たてつき)墳丘墓の神石(亀石)の孤帯紋様(こたいもんよう)は、垂仁(すいにん)天皇29年(西暦180年)に吉備(きび;岡山県と広島県東部)を平定して、楯築(たてつき)墳丘墓が吉備(きび)国王の温羅(うら)の墓(はか)と考えられて、垂仁(すいにん)天皇39年(西暦190年)築造の垂仁(すいにん)天皇陵である纏向(まきむく)石塚古墳の孤文円板(こもんえんばん)に刻まれる孤帯紋様(こたいもんよう)につながる。
『日本書紀』景行(けいこう)天皇60年11月7日(西暦250年12月上旬頃)に景行(けいこう)天皇は、滋賀県の皇居の志賀高穴穂宮(しがたかあなほのみや)で、崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、先月に東海平定に出陣した皇太子の日本武尊(やまとたけのみこと)が不在で、天皇不在の年(西暦251年)の反乱(皇位継承権争い)が起きた。
成務(せいむ)天皇2年11月10日は、仲哀(ちゅうあい)天皇元年11月10日(西暦252年12月上旬頃)か仲哀(ちゅうあい)天皇2年11月10日(西暦253年12月上旬頃)で、景行(けいこう)天皇の亡骸(なきがら)を倭国(やまとのくに;奈良県)の山辺道上陵(やまのべのみちうえのみささぎ)の箸墓(はしはか)古墳に葬礼した。
『日本書紀』の景行(けいこう)天皇陵の名称は、山辺道上陵(やまのべみちうえのみささぎ)で、祖父の崇神(すじん)天皇陵と同名で、考古学(遺跡・遺物)の陵墓名が箸墓(はしはか)古墳や箸中山(はしなかやま)古墳で、正式名が『ホツマツタエ』の箸塚(はしづか)で、後世に呼ぶことになる。
成務(せいむ)天皇2年11月10日は、仲哀(ちゅうあい)天皇2年11月10日(西暦253年12月上旬頃)で、成務(せいむ)天皇3年1月7日が仲哀(ちゅうあい)天皇3年1月7日(西暦254年2月上旬頃)だから、箸墓(はしはか)古墳の葬礼が仲哀(ちゅうあい)天皇元年(西暦252年)でなく、仲哀(ちゅうあい)天皇2年(西暦253年)の可能性を2024年6月15日の午前9時頃に求めた。
宮内庁指定の倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと;倭姫命(やまとひめのみこと)を祖先化)陵の箸墓(はしはか)古墳は、『三国志・魏志倭人伝』の卑弥呼(ひみこ)と男弟(だんてい)の記述が重要で、卑弥呼(ひみこ)である倭姫命(やまとひめのみこと)の男弟(だんてい;異母弟)の墓(はか;景行(けいこう)天皇陵)である。
『ホツマツタエ』と『日本書紀』の箸墓(はしはか)古墳の記述は、ややこしくなるため省略して、前方後円墳の纏向(まきむく)石塚古墳と箸墓(はしはか)古墳と大仙(だいせん)古墳の3つを超天才の僕が天皇陵と特定した。
箸墓(はしはか)古墳は、全長280メートルで、後円部160メートルで、前方部が120メートルで、墳丘に葺石(ふきいし)があって、幅10メートルほどの周濠(しゅうごう;堀:ほり)があって、埋葬施設が発掘されてなくて、手つかずと考えられる。箸
墓(はしはか)古墳は、出土した土器に付着した穀物などの炭化物を用いて、全国の3千点を超す土器と対比して、放射性炭素年代測定で、西暦250年代の築造の可能性が高まった。
箸墓(はしはか)古墳の周濠(しゅうごう)は、古墳を作った作業員が捨てたと考えられる木製品の鋤(すき)と大量の土器が出土して、古墳の築造時期が3世紀中頃と考えられて、古墳が2世紀末から4世紀前半の纏向(まきむく)遺跡の一画にあることから、西暦250年代の築造の可能性が高まる。
箸墓(はしはか)古墳で出土した布留(ふる)0式の土器は、付着した穀物の放射性炭素年代測定で、西暦250年代の築造の可能性が高まって、景行(けいこう)天皇陵の公算が高まった。
『三国志・魏志倭人伝』の牛馬は、3世紀中頃の北九州で、奈良県に馬がいた可能性を否定できなくて、箸墓(はしはか)古墳の周濠(しゅうごう)から出土した輪鐙(わあぶみ)と言う馬具を証明して、布留(ふる)1式の土器の推定年代に疑問が生まれた。
箸墓(はしはか)古墳は、古墳全体を発掘調査してなくて、大坂山(二上山;にじょうさん)の石を使用したと証明されなくて、いずれ『ホツマツタエ』の記述を証明できるだろう。
初代の崇神(すじん)天皇陵は、瀬田(せた)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)の全長が約26メートルで、2代目の垂仁(すいにん)天皇陵の纏向(まきむく)石塚古墳が全長96メートルで、3代目の景行(けいこう)天皇陵の箸墓(はしはか)古墳が全長280メートルで、3つ共に前方後円墳の形で、どんどん巨大化して、古代天皇家の勢力の拡大を証明した。
邪馬台国(大和国;やまとこく)時代の王墓(おうぼ;天皇陵)は、2代目・垂仁(すいにん)天皇陵の纏向(まきむく)石塚古墳と3代目・景行(けいこう)天皇陵の箸墓(はしはか)古墳の2つが判明して、初代・崇神(すじん)天皇陵が邪馬台国(大和国;やまとこく)時代より前で、邪馬台国(大和国;やまとこく)時代の日本武尊(やまとたけのみこと)陵と仲哀(ちゅうあい)天皇陵が分からない。
専門家(考古学会と歴史学会)は、2代目・垂仁(すいにん)天皇陵の纏向(まきむく)石塚古墳から始まる纏向(まきむく)古墳群を3世紀前半から後半で、纏向(まきむく)古墳群の3代目・景行(けいこう)天皇陵の箸墓(はしはか)古墳が3世紀中頃から4世紀前半とする考え方が多いが、超天才の僕が再定義して、結論を書き換えて、専門家をただのドシロウト集団と認識する。
専門家(考古学会と歴史学会)は、最古の前方後円墳を最古の古墳と同義とするが、2代目・垂仁(すいにん)天皇陵の纏向(まきむく)石塚古墳か3代目・景行(けいこう)天皇陵の箸墓(はしはか)古墳でなく、初代・崇神(すじん)天皇陵の瀬田(せた)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)を古墳時代の始まりと再定義して、新しい認識を日本国政府の名の下に公表すべきと僕は思う。
日本武尊(やまとたけのみこと)は、滋賀県の伊吹山(いぶきやま)で、毒蛇に咬(か)まれて、三重県の能褒野(のぼの)で死んで、能褒野(のぼの)の古墳に葬礼して、死後に白鳥になって、仲哀(ちゅうあい)天皇元年11月4日に白鳥が黒鳥になって、白鳥と黒鳥が日本武尊(やまとたけのみこと)で、2つの白鳥陵(しらとりのみささぎ)の古墳を否定した。
日本武尊(やまとたけのみこと)は、皇族に認められない日本武(やまとたけ)天皇に強行即位して、内乱(皇位継承権争い)を起こして、仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月17日(西暦260年11月中旬頃)に出雲(島根県東部)で戦死して、白鳥陵(しらとりのみささぎ)の記述から、奈良県と島根県に分骨した可能性があって、3代目出雲国王の野見宿禰(のみのすくね)の分骨がもっと古い。
成務(せいむ)天皇60年6月11日に成務(せいむ)天皇(日本武(やまとたけ)天皇と同一人物)は、崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、成務(せいむ)天皇60年6月11日が出雲大社の神有祭(かみありさい)の期間(旧暦の神無月11日から17日)と合致して、仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月17日(西暦260年11月中旬頃)に日本武(やまとたけ)天皇の戦死日になる。
成務(せいむ)天皇60年6月11日に成務(せいむ)天皇(日本武(やまとたけ)天皇と同一人物)は、崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、成務(せいむ)天皇60年6月11日が出雲大社の神有祭(かみありさい)の期間(旧暦の神無月11日から17日)と合致して、仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月17日(西暦260年11月中旬頃)が日本武(やまとたけ)天皇の戦死日になる。
成務(せいむ)天皇60年6月11日の翌年は、仲哀(ちゅうあい)天皇元年9月6日に倭(大和;やまと)の狭城盾列陵(さきたたなみのみささぎ)に成務(せいむ)天皇を葬礼したが、仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月17日(西暦260年11月中旬頃)の翌年の摂政(せっしょう)元年9月6日(西暦261年10月上旬頃)に日本武(やまとたけ)天皇を奈良県桜井市の大和(おおやまと)古墳群にある前方後円墳のどれかに葬礼したと考えられる
『日本書紀』仲哀(ちゅうあい)天皇9年2月22日(西暦260年3月下旬頃)に神功(じんぐう)皇后と初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)は、京都府宮津市の皇居の丹波由良宮(たにはゆらのみや)に帰還して、こっそり仲哀(ちゅうあい)天皇を仮葬した。
摂政(せっしょう)2年11月8日(西暦262年12月上旬頃)に仲哀(ちゅうあい)天皇は、河内国(かわちのくに;大阪府東部)の長野陵(ながののみささぎ)に葬礼したが、時期的に考えて明らかに間違いで、奈良県の大和(おおやまと)古墳群の前方後円墳と考えられる。
『日本書紀』応神(おうじん)天皇41年2月15日(正しくは摂政(せっしょう)50年2月15日;西暦年310年3月中旬頃)は、皇太子の誉田別尊(ほむだわけのみこと;即位しない応神(おうじん)天皇)が亡くなって、天皇でないため崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)と記さず、『日本書紀』に葬礼日も陵墓名も記さない。
宮崎市の前方後円墳の生目(いきめ)1号墳は、3世紀末から4世紀前半の築造で、3代目・景行(けいこう)天皇陵の箸墓(はしはか)古墳の相似形で、誉田別尊(ほむだわけのみこと)陵の有力候補である。
『日本書紀』摂政(せっしょう)69年4月17日(西暦329年5月中旬頃)に神功(じんぐう)皇后は、奈良県の皇居の磐余若桜宮(いわれわかざくらのみや)で、99才で崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、『日本書紀』に皇居と崩御(ほうぎょ)と記して、女系天皇と女性天皇の根拠で、今の皇室の女系男子天皇を支持する理由でもある。
摂政(せっしょう)69年10月15日(西暦329年11月中旬頃)に神功(じんぐう)皇后は、死後の諡(おくりな)が息長足姫尊(いきながたりひめのみこと)で、佐紀盾列(さきたたなみ)古墳群の狭城盾列陵(さきのたたなみのみささぎ)に葬礼したが、大和(おおやまと)古墳群か柳本(やなぎもと)古墳群などの前方後円墳に葬礼したと考えられて、以降の天皇陵を省略する。
安康(あんこう)天皇16年10月5日(西暦410年11月上旬頃)に大仙(だいせん)古墳は、土地を定めて、10月18日(西暦410年11月中旬頃)に大仙(だいせん)古墳の築造が始まって、安康(あんこう)天皇34年8月9日(西暦427年9月上旬頃)に安康(あんこう)天皇が眉輪王(まゆわのおおきみ)に殺されて、清寧(せいねい)天皇元年(西暦430年)に大仙(だいせん)古墳に安康(あんこう)天皇を葬礼した。
仁徳(にんとく)天皇陵の大仙(だいせん)古墳は、大山(だいせん)古墳や大仙陵(だいせんりょう)古墳などとも呼ばれて、大阪府堺市(さかいし)にあって、百舌鳥(もず)古墳群に属して、5世紀前半から中頃の築造の前方後円墳で、日本一大きい古墳と前方後円墳で、ギネス記録でない始皇帝陵やクフ王のピラミッドよりも、面積の大きい世界最大の墳墓である。
大仙(だいせん)古墳の本当の埋葬者は、間違いなく仁徳(にんとく)天皇でなく、仁徳(にんとく)天皇の孫の安康(あんこう)天皇が100%正しくて、『古事記』の干支年(かんしねん)の崩年干支(ほうねんかんし)などで確信して、説明を『仁徳(にんとく)天皇陵は本物か?』の章に任(まか)せる。
関東地方の最古の前方後円墳は、千葉県市原市の神門(ごうど)3・4・5号墳で、3世紀後半の築造で、菊麻国造(きくまくにみやつこ)の大鹿国直(おおかくにのあたい)か上海上国造(かみうなかみくにみやつこ)の忍立化多比命(おしたちかたひのみこと)の一族が古墳埋葬者と考えられる。
東北地方の最古の前方後円墳は、福島県河沼(かわぬま)郡会津坂下町の杵ヶ森(きねがもり)古墳で、3世紀末から4世紀初頭の築造で、石背国造(いわせくにみやつこ)の建彌依米命(たけみよりまいのみこと)か阿尺国造(あさかくにみやつこ)の比止彌命(ひとねのみこと)が古墳埋葬者と考えられる。
岐阜県揖斐(いび)郡大野町の笹山(ささやま)古墳は、西暦200年頃の築造で、東日本の最古の前方後円墳で、崇神(すじん)天皇の息子の八坂入彦命(やさかいりひこのみこと)が古墳埋葬者の可能性がある。
長野県中野市の高遠山(たかとおやま)古墳は、4世紀前半の前方後円墳で、三野後国造(みののみちのしりくにみやつこ)の臣賀夫良命(おみかぶらのみこと)が古墳埋葬者の可能性が高いと考えられて、三野後(みののみちのしり)が長野県東部に当たって、長野県中野市も長野県東部で、2023年12月20日に求めた。
四国の最古の前方後円墳は、徳島県鳴門(なると)市の荻原(おぎわら)2号墳で、築造が2世紀末から3世紀初頭で、纏向(まきむく)石塚古墳の築造年代を上回らなくて、『日本書紀』の崇神(すじん)天皇17年(西暦100年)に四国の平定を記した。中国地方の最古の前方後円墳は、鳥取県西伯(さいはく)郡南部(なんぶ)町の浅井11号墳で、3世紀末から4世紀初頭の築造で、西暦95年に出雲王国(物部(もののべ)氏)を建国して、2世紀末から3世紀初頭の前方後円墳が出雲の辺りで発見される可能性がある。
九州の最古の前方後円墳は、福岡市の那珂八幡(なかはちまん)古墳で、3世紀中頃の築造で、九州の平定が西暦202年から209年の3世紀初頭である。
僕の記した前方後円墳の知識は、ネット検索の情報と僕の超知識の結晶で、間違いなどあり得ない絶対条件である。
前方後円墳は、全国で4800基から5200基ほどあって、離島の対馬や壱岐島(いきしま)や隠岐(おき)諸島などにもあって、千葉県が最多の720基ほどで、北海道と青森県と秋田県と沖縄県の4道県で発見されず、淡路島でも発見されなくて、韓国の南西部に5世紀後半から6世紀前半の十数基が存在して、他に前方後円墳が確認されていない。
全国に広がった前方後円墳は、埋葬者が地元の権力者(古代天皇家が任命した者)が大半で、最初から古代天皇家の威光や権力の象徴などと考えて、前方後円墳の形をまねて築造したと考えられる。
前方後円墳の衰退は、5世紀以降に築造されない徳島県などが珍しい例外で、全国的に6世紀後半から末頃に作られなくなって、関東地方や周防(すおう;山口県南東部)など一部の地域で7世紀初頭から前半頃まで作られて、これが前方後円墳の終わりである。
奈良県から大阪府の前方後円墳の衰退は、6世紀後半から末頃で、聖徳太子の祖父の欽明(きんめい)天皇か伯父(おじ;父の兄)の敏達(びだつ)天皇か父の用明(ようめい)天皇か叔父(おじ;父の弟)の崇峻(すしゅん)天皇を葬礼した時期で、欽明(きんめい)天皇が571年10月頃に葬礼して、敏達(びだつ)天皇が591年5月頃に追葬して、用明(ようめい)天皇が587年8月頃に葬礼して、崇峻(すしゅん)天皇が592年12月頃に暗殺された日に葬礼した。
古墳時代は、垂仁(すいにん)天皇の葬礼日の2世紀末から始まって、大化(たいか)2年3月(西暦646年4月頃;7世紀中頃)に薄葬例(はくそうれい;古墳のような葬礼の否定)が出されて、古墳時代が7世紀末から8世紀初頭頃に終わって、この頃の古墳が高松塚古墳やキトラ古墳や八角形墳など(総合して終末期古墳と呼ぶ)である。
古墳の例外は、7世紀から10世紀に北海道と東北地方北部で末期古墳(北海道式古墳;蝦夷(えみし)系墳墓)が作られたが、西暦254年に東日本を古代天皇家が統治して、蝦夷(えみし)が福井県東部と岐阜県北部と長野県と静岡県中部より以東の民族を指して、蝦夷(えみし)でなく、アイヌ系の民族を葬礼した可能性が高いと考えられる。
自分たちがちっぽけで、世間知らずな現代人(僕以外の人間)は、幾ら頑張っても、超天才の僕に絶対に勝てなくて、2025年6月14日の午後6時20分頃に修正した。
<参考文献>
『正統『竹内文書』の謎』
竹内睦泰・著者 株式会社学研パブリッシング・発行
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『邪馬台国の考古学』
石野博信・著者 株式会社吉川弘文館・発行
『先代旧事本紀 訓註』
大野七三・校訂編者 批評社・発行
『日本古代地名事典』
吉田茂樹・著者 新人物往来社・発行
岐阜新聞の笹山(ささやま)古墳のネット記事
インターネットの不明サイトから少々拝借
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