前方後円墳と古墳時代の始まり


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蒲生君平(がもうくんぺい;1768年から1813年)は、『山陵志(さんりょうし)』で前方後円墳と名付けて、前方後円墳の形を車塚の地名と古代中国の歴史書の柩車(きゅうしゃ;柩(ひつぎ)を乗せる車)である銅馬車(どうばしゃ)と結び付けたと記す。
前方後円墳の形の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)は、最古が香川県高松市の高松空港跡地(たかまつくうこうあとち)遺跡で、築造年代が紀元前3世紀頃で、兵庫県赤穂(あこう)市の有年原田中(うねはらたなか)遺跡が2世紀後半頃で、大阪市の長原(ながはら)遺跡と滋賀県長浜(ながはま)市の五村(ごむら)遺跡が3世紀初頭頃で、前方後円墳の原形の墳丘墓と考えられる。

崇神(すじん)天皇68年12月5日(西暦152年1月上旬頃)に崇神(すじん)天皇は、102才で崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、垂仁(すいにん)天皇元年10月11日(西暦152年11月中旬頃)に崇神(すじん)天皇の亡骸(なきがら)を山辺(やまのべ)に葬礼して、従者5人を殉死(じゅんし;主人の後を追って従者が死ぬこと)した。
『日本書紀』の崇神(すじん)天皇陵の名称は、山辺道上陵(やまのべみちうえのみささぎ)で、『古事記』の名称が山辺道勾岡上陵(やまのべみちまがりおかうえのみささぎ)で、「記紀」が適当に名前を増やして、考古学の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)の名前がなく、『ホツマツタエ』から山辺陵(やまのべのみささぎ)と僕が自称して、後世に呼ぶと考えられる。

崇神(すじん)天皇陵の最有力候補は、奈良県橿原市の瀬田(せた)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)で、2016年に発見して、前方後円墳の形で、埋葬者が見つからず、2世紀中頃から後半頃の築造年代で、前方後円墳をネット検索して、2022年10月18日に求めた。
竹内(たけうち)氏の口伝(くでん;言葉で伝えること)の正統『竹内文書(たけのうちもんじょ)』は、前方後円墳の形の不明な伝承を残して、歴代天皇陵が全て前方後円墳の形で、西暦152年に葬礼した崇神(すじん)天皇陵が確定して、1900年以上の伝承が『ホツマツタエ』の完成より古くて、古墳時代の前方後円墳の呼び名を残す可能性も考えられる。
垂仁(すいにん)天皇陵は、最古の前方後円墳の纏向(まきむく)石塚古墳で、奈良県から大阪府の前方後円墳の衰退が6世紀後半から末頃で、衰退時期が欽明(きんめい)天皇から崇峻(すしゅん)天皇の辺りで、全ての歴代天皇陵に前方後円墳の形を採用したと考えられる。

垂仁(すいにん)天皇39年7月1日(西暦190年8月上旬頃)に垂仁(すいにん)天皇は、崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、48日間の喪祭(もまつ)りをした8月16日(西暦190年9月中旬頃)の夜にお墓へ埴輪(はにわ)を立てて、12月10日(西暦191年1月上旬頃)に亡骸(なきがら)を菅原伏見(すがわらふしみ)の纏向(まきむく)石塚古墳に葬礼して、夜半に松明(たいまつ)で照らされて、厳(おごそ)かに神霊の成仏(じょうぶつ)となった。
『ホツマツタエ』と『日本書紀』の合致した垂仁(すいにん)天皇陵の名称は、菅原伏見陵(すがわらふしみのみささぎ)で、考古学の陵墓名が纏向(まきむく)石塚古墳で、後世に呼ぶと考えられる。

古墳時代の始まりは、垂仁(すいにん)天皇の葬礼日が不動の事実で、纏向(まきむく)石塚古墳(垂仁(すいにん)天皇陵)が最古の古墳と定義付けて、埋葬者が見つからず、古墳と墳丘墓などの区別を考古学会で徹底して、超天才の僕が求めた事実が正しい。

全長280メートルの前方後円墳の箸墓(はしはか)古墳は、埋葬者が見つからず、仲哀(ちゅうあい)天皇元年11月10日(西暦252年12月上旬頃)に景行(けいこう)天皇を葬礼して、垂仁(すいにん)天皇と景行(けいこう)天皇の親子だけが古墳の天皇陵として判明した。
『日本書紀』の景行(けいこう)天皇陵の名称は、山辺道上陵(やまのべみちうえのみささぎ)で、祖父の崇神(すじん)天皇陵と同名で、考古学の陵墓名が箸墓(はしはか)古墳で、正式名が『ホツマツタエ』の箸塚(はしづか)で、後世に呼ぶと考えられる。

日本武尊(やまとたけのみこと)は、滋賀県の伊吹山(いぶきやま)で毒蛇に咬(か)まれて、三重県の能褒野(のぼの)で死んで、能褒野(のぼの)の古墳に葬礼して、死後に白鳥になって、仲哀(ちゅうあい)天皇元年11月4日に白鳥が黒鳥になって、2つの白鳥陵(しらとりのみささぎ)の古墳を否定して、全て間違いである。
日本武尊(やまとたけのみこと)は、仲哀(ちゅうあい)天皇9年10月17日(西暦260年11月中旬頃)に戦死して、同一人物の成務(せいむ)天皇が成務(せいむ)天皇60年に亡くなって、翌年9月6日(西暦261年10月上旬頃)に倭(大和;やまと)の狭城盾列陵(さきたたなみのみささぎ)に葬礼したが、大和(おおやまと)古墳群の前方後円墳に葬礼したと考えられる。
日本武尊(やまとたけのみこと)陵は、佐紀盾列(さきたたなみ)古墳群の狭城盾列陵(さきたたなみのみささぎ)も能褒野(のぼの)の古墳も2つの白鳥陵(しらとりのみささぎ)の古墳も否定して、正しい陵墓名が分からないと考えられる。

摂政(せっしょう)2年11月8日(西暦262年12月上旬頃)に葬礼の仲哀(ちゅうあい)天皇陵は、河内国(かわち;大阪府東部)の長野陵(ながののみささぎ)に葬礼したと記すが、時期的に考えて明らかな間違いで、奈良県の大和(おおやまと)古墳群の前方後円墳と考えられる。

応神(おうじん)天皇元年(西暦年270年)は、庚寅(かのえとら)で計算して、応神(おうじん)天皇時代を摂政(せっしょう)年間で記さない。
応神(おうじん)天皇41年2月15日(西暦年310年3月中旬頃)に誉田別尊(ほむだわけのみこと)は亡くなって、天皇でないため崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)と呼ばなくて、『日本書紀』に葬礼日も陵墓名も記さない。
宮崎市の前方後円墳の生目(いきめ)1号墳は、3世紀末から4世紀前半の築造で、箸墓(はしはか)古墳(景行(けいこう)天皇陵)の相似形で、誉田別尊(ほむだわけのみこと)陵の有力候補である。

神功(じんぐう)皇后は、摂政(せっしょう)69年10月15日(西暦329年11月中旬頃)に佐紀盾列(さきたたなみ)古墳群の狭城盾列陵(さきのたたなみのみささぎ)に葬礼したが、奈良県の大和(おおやまと)古墳群の前方後円墳と考えられる。

四国の最古の前方後円墳は、徳島県鳴門(なると)市の荻原(おぎわら)2号墳で、築造が2世紀末から3世紀初頭で、纏向(まきむく)石塚古墳の築造年代を上回らなくて、歴史書に四国の平定の年代がない。
中国地方の最古の前方後円墳は、鳥取県西伯(さいはく)郡南部(なんぶ)町の浅井11号墳で、3世紀末から4世紀初頭の築造で、西暦95年に出雲王国(物部(もののべ)氏)を建国した。
九州の最古の前方後円墳は、福岡市の那珂八幡(なかはちまん)古墳で、3世紀中頃の築造で、九州の平定が西暦202年から209年の3世紀初頭である。
関東地方の最古の前方後円墳は、千葉県市原市の神門(ごうど)3・4・5号墳で、3世紀後半の築造で、菊麻国造(きくまくにみやつこ)の大鹿国直(おおかくにのあたい)か上海上国造(かみうなかみくにみやつこ)の忍立化多比命(おしたちかたひのみこと)が古墳埋葬者と考えられる。
東北地方の最古の前方後円墳は、福島県河沼(かわぬま)郡会津坂下町の杵ヶ森(きねがもり)古墳で、3世紀末から4世紀初頭の築造で、石背国造(いわせくにみやつこ)の建彌依米命(たけみよりまいのみこと)か阿尺国造(あさかくにみやつこ)の比止彌命(ひとみのみこと)が古墳埋葬者と考えられる。
岐阜県揖斐(いび)郡大野町の笹山(ささやま)古墳は、西暦200年頃の築造で、東日本の最古の前方後円墳で、彦坐王(ひこいますのみこ)の息子の神大根王(かみおおねのみこ)と崇神(すじん)天皇の息子の八坂入彦命(やさかいりひこのみこと)が古墳埋葬者の可能性があって、長野県中野市の高遠山(たかとおやま)古墳が4世紀前半の前方後円墳で、埋葬者が特定できない。
僕の記した前方後円墳の知識は、インターネット検索の情報と僕の超知識の結晶で、間違いなどあり得ない絶対条件である。

現在の考古学会は、纏向(まきむく)石塚古墳(垂仁(すいにん)天皇陵)から始まる纏向(まきむく)古墳群を3世紀前半から後半で、纏向(まきむく)古墳群の箸墓(はしはか)古墳(景行(けいこう)天皇陵)が3世紀中頃から4世紀前半とする考え方が多い。
現在の考古学会は、最古の古墳が纏向(まきむく)石塚古墳か疑問視して、色々な説を出して、考古学的証拠で年代を分析して、歴史書解釈を馬鹿にして、考古学会そのものが井の中の蛙(かわず)である。
考古学会と歴史学会は、僕からすれば知識をかじっただけのシロウト集団で、超天才の僕に敵(かな)うはずもないが、奈良県と大阪府の大型の前方後円墳が大王クラス(天皇陵)の考え方が正しい。

前方後円墳は、全国で4800基から5200基ほどあって、離島の対馬や壱岐島(いきしま)や隠岐(おき)諸島などにもあって、千葉県が最多の720基ほどで、北海道と青森県と秋田県と沖縄県の4道県で発見されず、淡路島でも発見されなくて、韓国の南西部に5世紀後半から6世紀前半の十数基が存在して、他に前方後円墳が確認されていない。
大阪府の4世紀後半から5世紀後半頃の前方後円墳は、全国的にも大きい最盛期で、最大の前方後円墳が宮内庁指定の仁徳(にんとく)天皇陵の大仙(だいせん)古墳で、5世紀前半から中頃の築造で、埋葬者が見つからず、始皇帝陵やクフ王のピラミッドよりも面積の大きい最大の墳墓で、仁徳(にんとく)天皇が4世紀前半の西暦334年に即位して、安康(あんこう)天皇から顕宗(けんそう)天皇の辺りが埋葬者と考えられる。
全国に広がった前方後円墳は、埋葬者が地元の権力者(古代天皇家が任命した者)が大半で、最初から古代天皇家の威光や権力の象徴などと考えて、前方後円墳の形をまねて築造したと考えられる。
前方後円墳の衰退は、5世紀以降に築造されない徳島県などが珍しい例外で、全国的に6世紀後半から末頃に作られなくなって、関東地方や周防(すおう;山口県南東部)など一部の地域で7世紀初頭から前半頃まで作られて、これが前方後円墳の終わりである。
古墳時代は、垂仁(すいにん)天皇の葬礼日の2世紀末から始まって、大化(たいか)2年3月(西暦646年4月頃;7世紀中頃)に薄葬例(はくそうれい;古墳のような葬礼の否定)が出されて、古墳時代が7世紀末から8世紀初頭頃に終わって、この頃の古墳が高松塚古墳やキトラ古墳(総合して終末期古墳と呼ぶ)である。
古墳の例外は、7世紀から10世紀に北海道と東北地方北部で末期古墳(北海道式古墳;蝦夷(えみし)系墳墓)が作られたが、西暦254年に東日本を古代天皇家が統治して、蝦夷(えみし)が石川県と長野県と神奈川県より以東の民族を指して、蝦夷(えみし)でなく、アイヌ系の民族を葬礼した可能性が高いと考えられる。

超天才の僕は、考古学(古墳)と歴史学(歴史書解釈)を合致させて、古代地名と古墳埋葬者の特定で、現代人(僕以外の人間)が幾ら研究しても、決して勝てない永遠の歴史研究の実績がある。
自分たちがちっぽけで世間知らずな専門家(考古学界と歴史学界)は、人類史上最高最大最強の超天才の僕に勝てなくて、悔(く)い改めることが神様の前で懺悔(ざんげ)することと同様で、題名を変えて2023年6月3日に修正した。

<参考文献>
『正統『竹内文書』の謎』
竹内睦泰・著者 株式会社学研パブリッシング・発行
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『邪馬台国の考古学』
石野博信・著者 株式会社吉川弘文館・発行
『先代旧事本紀 訓註』
大野七三・校訂編者 批評社・発行
『日本古代地名事典』
吉田茂樹・著者 新人物往来社・発行
岐阜新聞の笹山(ささやま)古墳のネット記事
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