三種の神器


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

三種の神器は、古代から天皇即位に使う皇位継承の証(あかし)で、八咫鏡(やたのかがみ)と草薙剣(くさなぎのつるぎ;別名を天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)の3つで、国事行為「剣璽等承継(けんじとうしょうけい)の儀(ぎ)」の天皇即位に使われて、「剣(草薙剣;くさなぎのつるぎ)と璽(八坂瓊曲玉;やさかにのまがたま)を等しく継承する儀」と書き換えられる。
八咫鏡(やたのかがみ)は、伊勢神宮内宮の御神体で、草薙剣(くさなぎのつるぎ)が熱田(あつた)神宮の御神体で、八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)が皇居に納(おさ)めて、あくまで伝え聞くだけで、三種の神器の色々な物を分析して、2022年11月1日に修正した。

古代文明と三種の神器

メソポタミア文明の最初にいたシュメール人は、5500年前頃に現れて4千年前頃に突然姿を消して、シュメールや古代バビロニアの三種の神器が日像鏡と月像の首飾りと武神の剣で、三種の神器が鏡と玉と剣で、八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)が首飾りなら、合致するのを偶然で片付けられない。
武神の素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)は、8つの首と尾の八岐大蛇(やまたのおろち)を退治して、三種の神器の草薙剣(くさなぎのつるぎ)を入手して、シュメールでも7つの首の竜を倒して、三種の神器である武神の剣を入手して、伝承が確実に合致する。
『ホツマツタエ』は、三種の神器の八重垣剣(やえがきのつるぎ)が偽物で、後世に草薙剣(くさなぎのつるぎ)の入手がおかしくて、シュメールや古代バビロニアの伝承と矛盾して、八重垣剣(やえがきのつるぎ)の実在が否定される。
正統『竹内文書』は、古代天皇家の先祖がエジプト文明やメソポタミア文明などを起こして、そこから再び日本に戻って来て、メソポタミア文明と皇室が無関係と考えられない。
シュメールや古代バビロニアの武神の剣は、草薙剣(くさなぎのつるぎ)の伝承とそっくりで、八重垣剣(やえがきのつるぎ)が八岐大蛇(やまたのおろち)退治神話と関係して、八重垣剣(やえがきのつるぎ)を入手したのが草薙剣(くさなぎのつるぎ)と入れ替わったと考えられる。

古代イスラエルの三種の神器は、日本の三種の神器と合致しないが、三種の神器の存在が偶然でなく、日ユ同祖論(日本人とユダヤ人が共通の先祖とする説)が正しくて、古代天皇家の歴史と考えられる。
朝鮮の檀君(だんくん)神話は、天符印(てんぷいん)と言う三種の神器の剣と鏡と鈴が登場して、檀君(だんくん)神話が日本神話と共通して、古代朝鮮国家の新羅(しらぎ)や百済(くだら)が古代天皇家と先祖が同じとする伝承があって、否定する方がおかしい。
古代文明と三種の神器は、何百年何千年も前の伝承が合致して、古代天皇家の奥深い秘密を隠して、現代人(僕以外の人間)でも気付く共通性で、僕が可能性を示した。

メソポタミア文明や古代バビロニアの三種の神器は、檀君(だんくん)神話の天符印(てんぷいん)と言う三種の神器とも合致して、皇室の三種の神器とも合致して、数千年間を皇位継承物か分からないが、古代天皇家の先祖がずっと世界中を旅し続けて、世界中の神話や伝承が皇室と合致する証拠である。
ギリシア神話と日本神話は、明らかな共通性を僕が実証して、いずれ世界中の神話が日本神話と合致すると証明して、三種の神器の合致も証明できるだろう。

二種と三種の神器の真実

『ホツマツタエ』崇神(すじん)天皇4年10月23日(西暦87年11月下旬頃)は、天照神(あまてるかみ)を元伊勢の笠縫邑(かさぬいのむら)に祭らせて、倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)を山辺里(やまのべのさと;大和(おおやまと)神社)に祭らせて、二種の神器の八重垣剣(やえがきのつるぎ)と八咫鏡(やたのかがみ)を新しく作って、二種の神器を皇位継承の神宝(かんだから)にしようと考えた。
崇神(すじん)天皇6年9月16日(西暦89年10月中旬頃)の夜は、倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)を山辺里(やまのべのさと)に遷宮して、八重垣剣(やえがきのつるぎ)を奉納して、翌日の夜に天照神(あまてるかみ)を元伊勢の笠縫邑(かさぬいのむら)に遷宮して、八咫鏡(やたのかがみ)を奉納して、二種の神器がオリジナル(原型)とレプリカ(複製品)の2種類だった。

八重垣剣(やえがきのつるぎ)は、草薙剣(くさなぎのつるぎ)と違う別の神剣で、どちらも三種の神器の神剣で、新しい神剣と神鏡を作って、現在の三種の神器がレプリカ(複製品)とされて、2種類なのが事実と考えられる。
『古語拾遺』は、草薙剣(くさなぎのつるぎ)と八咫鏡(やたのかがみ)を複製したと記して、『ホツマツタエ』の記述と合致して、現在の天皇即位でもレプリカ(複製品)を使って、三種の神器が2種類あることになる。

国宝『海部(あまべ)氏系図』は、建田勢命(たけたせのみこと)が「古記に云(い)う、この命(みこと)は、天御蔭鏡(あめのみかげのかがみ)と天村雲之刀(あめのむらくものかたな)をもって、二璽神宝(ふたつのみしるしのかんだから)と為(な)す」と記して、二種の神器の八咫鏡(やたのかがみ)と天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と考えられる。
京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社宮司家の海部(あまべ)氏は、崇神(すじん)天皇の実兄の彦坐王(ひこいますのみこ)を始祖とする直系子孫で、二種の神器の誕生が天皇家誕生(建国)に近い時期で、正史(正しい歴史)と考えられる。

垂仁(すいにん)天皇5年(西暦156年)の皇位継承権争い(倭国大乱;わこくたいらん)は、2代目出雲国王の狭穂彦王(さほひこのみこ)の謀反(むほん)で、狭穂彦王(さほひこのみこ)が二種の神器で、強行即位して狭穂彦(さほひこ)天皇になって、垂仁(すいにん)天皇7年7月1日(西暦158年8月上旬頃)までに終戦して、狭穂彦(さほひこ)天皇が皇位継承者と支持されて、戦争が長引いたと考えられる。

垂仁(すいにん)天皇27年2月5日(西暦178年3月上旬頃)に皇女の大中姫(おおなかひめ)は、4代目出雲国王の物部十市根(もののべのといちね)と結婚して正妻になって、以降に出雲王家(物部(もののべ)氏)の血筋を皇統に加える代償として、出雲王国の神宝の八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)を石上(いそのかみ)神宮に奉納した。
ある時に丹波(たんば;古代の京都府北中部)の甕襲(みかそ;丹波道主王;たにはみちぬしのみこ)の家にいる足行(あしゆき)と言う犬(丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)の家臣;誰か不明)が貉(むじな;狭穂彦王;さほひこのみこ)を食い殺して、腹(はら)の中から出雲王国の神宝の八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)が出てきて、甕襲(みかそ)が石上(いそのかみ)神宮に献上して、三種の神器に加えられた。

大中姫(おおなかひめ)の結婚と石上(いそのかみ)神宮に八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)の献上は、『ホツマツタエ』と『日本書紀』で前後に記して、その意味に2022年10月30日午後7時半頃に気付いた。
石上(いそのかみ)神宮は、古代に物部(もののべ)氏が武器庫として、多くの刀剣などの武器を奉納して、出雲王国の神宝の八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)を奉納して、2代目出雲国王である狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱の責任を無くして、皇統に出雲王家(物部(もののべ)氏)の血筋を加える代償として、かなり貴重な宝物で作られた宝珠と考えられる。
垂仁(すいにん)天皇7年7月1日(西暦158年8月上旬頃)までに皇后で、物部(もののべ)氏の狭穂姫(さほひめ)が焼死して、以降に皇統に物部(もののべ)氏の血筋を加えることを禁止して、大中姫(おおなかひめ)の結婚で、出雲王国の神宝の八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)を石上(いそのかみ)神宮に献上した代償で、二種を三種の神器に増やして、再び皇統に血筋を加える許可を出した。
皇統に物部(もののべ)氏の血筋が加わったのは、景行(けいこう)天皇の妾(めかけ)の高田媛(たかだひめ)と弟橘姫(おとたちばなひめ)である。

西暦251年(天皇不在の年)の皇位継承権争い(男王の反乱)は、日本武尊(やまとたけのみこと)と2人の息子の仲哀(ちゅうあい)天皇と蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)の親子が皇位継承者で、皇太子の日本武尊(やまとたけのみこと)が三種の神器を入手して、強行即位して日本武(やまとたけ)天皇になって、弟橘姫(おとたちばなひめ)と蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)の母子が討伐されて、日本武(やまとたけ)天皇が出雲王国に亡命した。

邪馬台国(大和国;やまとこく)の仲哀(ちゅうあい)天皇と出雲王国(物部(もののべ)氏)の日本武(やまとたけ)天皇の2朝廷並列時代は、仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月(西暦260年11月頃)に神功(じんぐう)皇后が指揮して、7代目出雲国王の飯入根(いいいりね)が義父の日本武(やまとたけ)天皇に殺されて、吉備武彦(きびたけひこ)と武渟川別(たけぬなかわわけ)が日本武(やまとたけ)天皇を殺して、出雲王国が崩壊して、これを神話化したのが出雲の国譲りである。

摂政(せっしょう)元年2月(西暦261年3月頃)の皇位継承権争いは、出雲から戻った神功(じんぐう)皇后が出雲王国から三種の神器を取り返して、義理の息子の鹿坂皇子(かごさかのみこ)と忍熊皇子(おしくまのみこ)が謀反(むほん)して、三種の神器を奪おうと考えたが討伐されて、結果的に三種の神器が2種類なのが問題と考えた。
鹿は「鹿」の漢字の下に弭で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
神功(じんぐう)皇后は、2種類の八重垣剣(やえがきのつるぎ)を三種の神器からはずして、一種類の草薙剣(くさなぎのつるぎ)を三種の神器に加えて、三種の神器を一種類の草薙剣(くさなぎのつるぎ)と八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)と2種類の八咫鏡(やたのかがみ)にして、息子の誉田別尊(ほむだわけのみこと;即位しない応神(おうじん)天皇)と共に日向(ひうが;宮崎県)に行かせて、これが天孫降臨神話の真実である。

神功(じんぐう)皇后は亡くなって、孫の仁徳(にんとく)天皇が三種の神器を持って、宮崎県から奈良県に向かって、仁徳(にんとく)天皇の異母兄弟で、皇位継承者の大山守皇子(おおやまもりのみこ)が奈良県にいて、一種類の草薙剣(くさなぎのつるぎ)と八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)を強奪しようと反逆したが討伐されて、神武(じんむ)東征や海幸彦(うみさちひこ)と山幸彦(やまさちひこ)の神話が生まれた。

南北朝時代の北朝と南朝は、2種類と三種の神器を北朝と南朝がそれぞれに持って、それぞれが皇位継承物で天皇即位に使ったと考えられて、現在の天皇家が草薙剣(くさなぎのつるぎ)を1種類でなく、古代の伝承から2種類と勘違いして、今に至ると考えられる。

八咫鏡(やたのかがみ)

八咫鏡(やたのかがみ)は、『日本書紀』の呼び名で、別名を真経津鏡(まふつのかがみ)で、『古事記』に八尺鏡(やたのかがみ)と記して、太陽神の天照大神(あまてらすおおみかみ)の御神体で、日光を反射する意味が強くて、邪馬台国(大和国;やまとこく)時代の三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)が八咫鏡(やたのかがみ)の代用品として、古墳時代に一般化した可能性が考えられる。
八咫鏡(やたのかがみ)は、大きさを表す考え方があくまで学説で、『ホツマツタエ』の記述が最も原形に近くて、研究の必要があると考えられる。

日本神話の八咫鏡(やたのかがみ)は、素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)の暴虐で、太陽神が天岩戸隠(あまのいわとかく)れした時に石凝姥命(いしこりどめのみこと;誰を神格化したか不明)が作って、太陽神の天照大神(あまてらすおおみかみ;倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)と皇祖神(こうそしん;皇室の祖先神)の天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后)の入れ替わりを神話化した。
実際の八咫鏡(やたのかがみ)は、2000年以上前から実在して、崇神(すじん)天皇6年9月17日(西暦89年10月中旬頃)の夜に元伊勢の笠縫邑(かさぬいのむら;所在地不明)へ八咫鏡(やたのかがみ)を奉納して、レプリカ(複製品)を作ったと記す。

『出雲国造神賀詞(いずもくにみやつこのかんよごと)』は、八咫鏡(やたのかがみ)に大国主神(おおくにぬしのかみ)が自分の和魂(にぎみたま;優しい平和的な魂)を託して、「倭大物主櫛甕玉命(やまとおおものぬしくしみかたまのみこと)」と名付けて、「大御和(おおみわ)の神奈備(かんなび;三輪山;みわやま)」に鎮座したと言う。
出雲大社の大国主神(おおくにぬしのかみ)は、初代出雲国王の彦坐王(ひこいますのみこ)と7代目出雲国王の飯入根(いいいりね)を神格化して、奈良県桜井市の三輪山の大物主神(おおものぬしのかみ)が歴代の出雲国王を神格化して、大国主神(おおくにぬしのかみ)と大物主神(おおものぬしのかみ)が同一神で、八咫鏡(やたのかがみ)も合致する。
八咫鏡(やたのかがみ)は、三輪山に鎮座して、大物主神(おおものぬしのかみ)の名前を付けて、出雲大社の大国主神(おおくにぬしのかみ)の霊魂を託して、日本武尊(やまとたけのみこと)の反乱で、三種の神器が出雲に渡った事実を神話化した。

八咫鏡は、過去の記録で何度か焼失して、作り直したと記して、現物が残っているとも伝えて、三種の神器の中で一番大切にされる。

草薙剣(くさなぎのつるぎ)

天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)は、素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)が八岐大蛇(やまたのおろち;滝祭神(たきまつりのかみ)を怪物視)を斬殺して、その尻尾から入手した時に天に雲が叢(むら)がったから名付けて、滝祭神(たきまつりのかみ)が伊勢神宮の横の五十鈴川(いすずがわ)を神格化した蛇神で、三種の神器を強奪した伊勢神宮襲撃を意味する。
草薙剣(くさなぎのつるぎ)は、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の別名で、八重垣剣(やえがきのつるぎ)の別名もあるが、『ホツマツタエ』から別の神剣と考えられて、後世に同一の神剣と解釈したと考えられる。

『ホツマツタエ』の草薙剣(くさなぎのつるぎ)は、伊勢神宮の斎王(さいおう;太陽神に奉仕する未婚の皇女)である伯母(おば)の倭姫命から日本武尊(やまとたけのみこと)が受け取って、東海平定に出陣して、相模(さがみ;神奈川県)の小野(おの;秦野市の辺りか?)で、賊が火を放って野原が燃えて、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)で燃える草を薙(な)ぎ切って、草薙(くさなぎ)と名付けて、『日本書紀』の静岡県焼津市の地名が間違いである。
草薙剣(くさなぎのつるぎ)は、元からの呼び名で、伊勢神宮内宮に奉納してあったが、日本武尊(やまとたけのみこと)が強奪して、伊勢市の磯(いそ)神社で斎王(さいおう)を隠居した倭姫命(やまとひめのみこと)を殺して、結果的に日本武尊(やまとたけのみこと)が太陽神殺しの大罪を背負った。

天智(てんじ)天皇時代に道行(どうぎょう)と言う僧侶は、草薙剣(くさなぎのつるぎ)を盗み出して、新羅(しらぎ)に逃げようとして、風雨に見舞われて船が戻って、草薙剣(くさなぎのつるぎ)を取り戻されて、皇居にとどめ置かれたと言う。
天武(てんむ)天皇は、草薙剣(くさなぎのつるぎ)の祟(たた)りに当たった伝承もあって、神宝として神威(神様の威光)があるのかもしれない。
平清盛(たいらのきよもり)の孫の安徳(あんとく)天皇は、壇ノ浦(だんのうら)の合戦で入水(じゅすい)自殺して、草薙剣(くさなぎのつるぎ)が海に投げ込まれて見つからなくて、現在が代用品と言われる。
江戸時代に熱田(あつた)神宮の大宮司ら他4、5人の神職は、草薙剣(くさなぎのつるぎ)を盗み見て、それを見た者たちが次々に亡くなったと言われて、三種の神器が見ることの許されない呪物かもしれない。

草薙剣(くさなぎのつるぎ)は、神話も史実も日本武尊(やまとたけのみこと)に深く関係して、僕以外に誰もひもとけなかくて、僕の超天才ぶりが現代人(僕以外の人間)の想像をはるかに上回る。

八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)

八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)は、別名を八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)で、勾玉(まがたま)の漢字から縄文時代の装飾品の勾玉(まがたま)が思い浮かぶが、『古事記』で珠(たま)の漢字を使用で宝珠も考えられて、2000年以上前から存在したか分からない。
メソポタミア文明や古代バビロニアの月像の首飾りは、八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)と合致する特徴だが、出雲神話の八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)作りと石上(いそのかみ)神宮への八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)の献上などを考えて、簡単に求められない。

垂仁(すいにん)天皇27年2月5日(西暦177年3月上旬頃)に皇女の大中姫(おおなかひめ)は、4代目出雲国王の物部十市根(もののべのといちね)と結婚して正妻になって、以降に出雲王家(物部(もののべ)氏)の血筋を皇統に加える代償として、出雲王国の神宝の八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)を石上(いそのかみ)神宮に奉納した。
ある時に丹波(たんば;古代の京都府北中部)の甕襲(みかそ;丹波道主王;たにはみちぬしのみこ)の家にいる足行(あしゆき)と言う犬(丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)の家臣;誰か不明)が貉(むじな;狭穂彦王;さほひこのみこ)を食い殺して、腹(はら)の中から八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま;出雲王国の神宝)が出てきて、甕襲(みかそ)が石上(いそのかみ)神宮に献上して、三種の神器に加えられた。

出雲神話の八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)は、大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)と共に国造りした少彦名命(すくなひこなのみこと;少彦男心命(すくなひこおこころのみこと)を神格化)が見つけた玉造(たまつくり)温泉で、櫛明玉命(くしあかるたまのみこと;誰を神格化したか不明)が作った。
八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)は、狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱で、丹波国造(たにはくにみやつこ;京都府北中部の統治者)の丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)の家臣(誰か不明)が狭穂彦王(さほひこのみこ)を殺して、垂仁(すいにん)天皇時代に石上(いそのかみ)神宮に献上した。
石上(いそのかみ)神宮は、出雲王国の神宝の八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)を奉納して、狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱の責任を無くして、皇統に出雲王家(物部(もののべ)氏)の血筋を加える代償だった。

八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)は、二種の神器に加えて、三種の神器になった重要な物で、後世に伝える大切な史実(歴史上の事実)である。

<参考文献>
『日本書紀(上)全現代語訳―全三巻―』・発行
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『BooksEsoterica第22号 天皇の本 日本の霊的根源と封印の秘史を探る』
株式会社学習研究社・発行
『正統『竹内文書』の謎』
竹内睦泰・著者 株式会社学研パブリッシング・発行
『前ヤマトを創った大丹波王国 国宝「海部系図」が解く真実の古代史』
伴とし子・著者 叶V人物往来社・発行
『日本の神様読み解き事典』
川口謙二・編著者 柏書房株式会社・発行
『歴史読本二〇〇三年十月号』
叶V人物往来社・発行
『知の探究シリーズ 日本超古代文明のすべて』
株式会社日本文芸社・発行
インターネット

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