神功(じんぐう)皇后


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

神功(じんぐう)皇后は、古代中国の歴史書の台与(とよ)で、皇祖神(こうそしん;皇室の祖先神)の天照大神(あまてらすおおみかみ)と天孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと;誉田別尊(ほむだわけのみこと;即位しない応神(おうじん)天皇)を神格化)の母親である万幡豊秋津姫命(よろずはたとよあきつひめのみこと;別名が栲幡千千姫(たくはたちちひめ)に神格化して、非常に重要な人物である。
倭姫命(やまとひめのみこと)は、古代中国語で書くと邪馬台卑弥呼(やまとひみこ)で、神功(じんぐう)皇后の抹消した名前が豊姫命(とよひめのみこと)で、古代中国語で書くと台与卑弥呼(とよひみこ)で、邪馬台卑弥呼(やまとひみこ)と台与卑弥呼(とよひみこ)の姫命(ひめのみこと)が重なって消えて、台与(とよ)の漢字だけが残って、簡単な消去法である。
神功(じんぐう)皇后を神格化した万幡豊秋津姫命(よろずはたとよあきつひめのみこと)は、台与(とよ;豊)の呼び名の名残(なご)りである。
『日本書紀』の神功(じんぐう)皇后時代は、『三国志・魏志倭人伝』の記述で卑弥呼(ひみこ)を連想させたり、4世紀の百済(くだら)王などの記述で4世紀の人物と思わせたり、記述を滅茶苦茶にして混乱させたのが編者の狙いだった。
しかし神功(じんぐう)皇后たち歴代の皇族を完全解釈できる僕は、邪馬台国(やまとこく;大和国)論争を完全に求められて、現代人(僕以外の人間)と一緒にしないでほしい。

神功(じんぐう)皇后の出生は謎(なぞ)で、分からないように隠されて、明らかに求められないように偽装工作した。
『日本書紀』は、高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)の娘の栲幡千千姫(たくはたちちひめ)が忍穂耳尊(おしほみみのみこと)と結婚して、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を生んだと記す。
『ホツマツタエ』は、初代から7代目のタカミムスビが存在して、『ホツマツタエ』の日本神話を完全解釈できる僕からしたら簡単である。
6代目タカミムスビ(景行(けいこう)天皇を神格化)の息子の7代目タカミムスビ(武虎別皇子(たけこわけのみこ)を神格化)は、娘のタクハタチチヒメ(神功(じんぐう)皇后を神格化)を生んで、オシホミミ(仲哀(ちゅうあい)天皇を神格化)と結婚して、ニニキネ(ニニギと同一神;誉田別尊(ほむだわけのみこと)を神格化)を生んだ。
孝元(こうげん)天皇(景行(けいこう)天皇を祖先化)の息子の大彦命(おおびこのみこと;武虎別皇子(たけこわけのみこ)を祖先化)は阿部(あべ)氏の始祖で、その娘の御間城姫(みまきひめ;神功(じんぐう)皇后を祖先化)が孝元(こうげん)天皇(景行(けいこう)天皇を祖先化)の孫で初代の崇神(すじん)天皇(仲哀(ちゅうあい)天皇を祖先化)の皇后で、垂仁(すいにん;誉田別尊(ほむだわけのみこと)を祖先化)天皇を生んだ。
景行(けいこう)天皇の息子の武虎別皇子(たけこわけのみこ)は阿部(あべ)氏の出身で、その娘の神功(じんぐう)皇后が景行(けいこう)天皇の孫である仲哀(ちゅうあい)天皇と結婚して、誉田別尊(ほむだわけのみこと)を生んだ。
阿部(あべ)氏は、古代豪族で武家の物部(もののべ)氏の一氏族で、神功(じんぐう)皇后が物部(もののべ)氏の子孫で、仲哀(ちゅうあい)天皇と神功(じんぐう)皇后が景行(けいこう)天皇の孫同士で結婚したことが求められた。
僕のホームページの「作られた系図」や「神格化された系図」や「神功(じんぐう)皇后の系図」などの章は、神功(じんぐう)皇后の隠された系図をひもとくヒントで、2004年4月25日に僕が『ホツマツタエ』で歴代のタカミムスビの系図に気付いて、神功(じんぐう)皇后の系図を特定した。
神功(じんぐう)皇后の系図は、系図の神格化・祖先化がうまく偽装工作して、求められないように何重にも罠(わな)を仕掛けたが、僕には通用しなかった。

女王の台与(とよ)を任命した時の年齢と神功(じんぐう)皇后の死去の年齢などを合わせて逆算して、景行(けいこう)天皇38年(西暦228年)頃に神功(じんぐう)皇后が生まれた。
仲哀(ちゅうあい)天皇2年1月11日(西暦253年2月中旬頃)に神功(じんぐう)皇后を正妻(皇后)にして、計算すると24才頃で、結婚に物部(もののべ)氏の血筋を重視したと考えられる。
神功(じんぐう)皇后(台与;とよ)の年齢は、『三国志・魏志倭人伝』を読んで、「記紀」に偽装工作をほどこして、混乱させるのが編者の狙(ねら)いだった。

神功(じんぐう)皇后は、『日本書紀』で仲哀(ちゅうあい)天皇9年(西暦320年)に新羅(しらぎ)を攻撃して、高句麗(こうくり)と百済(くだら)も従えて、三韓征伐と呼んでかつて歴史教科書でも教えたが、史実でなく明らかな間違いである。
そもそも仲哀(ちゅうあい)天皇9年10月3日に対馬から船出して、新羅(しらぎ)を討伐して3国を従えて、往復して12月14日に福岡県に帰還できなくて、討伐の期間があまりに短すぎて、記述が明らかな嘘(うそ)である。
三韓征伐は、仲哀(ちゅうあい)天皇9年(西暦320年)でなく、干支(えと)の年を60年さかのぼって、仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月(西暦260年11月頃)の出雲王国(物部(もののべ)氏)の討伐が正しい歴史である。
西暦251年(天皇不在の年)に二種の神器か三種の神器を強奪して、強行即位した日本武(やまとたけ)天皇は、結果的に出雲王国に亡命して、邪馬台国(やまとこく;大和国)の仲哀(ちゅうあい)天皇と出雲王国(物部(もののべ)氏)の日本武(やまとたけ)天皇による親子対決の2朝廷並列時代に入った。
『日本書紀』仲哀(ちゅうあい)天皇9年2月5日(西暦260年3月上旬頃)に仲哀(ちゅうあい)天皇は病気になられて、翌日にもう崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)したと記すが、出雲王国の攻撃中に戦死したと考えられる。
そうすると日本武(やまとたけ)天皇の軍勢は、実の息子の仲哀(ちゅうあい)天皇を殺して、仲哀(ちゅうあい)天皇の正妻の神功(じんぐう)皇后が義父の日本武(やまとたけ)天皇を恨(うら)んだと考えられて、出雲王国の崩壊が血塗られた親子殺しである。
神功(じんぐう)皇后は、仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月(西暦260年11月頃)に出雲王国を攻撃して、武将の吉備武彦(きびたけひこ)と武渟川別(たけぬなかわわけ)が日本武(やまとたけ)天皇を殺した。
その結果は、神功皇后の手元に強奪した二種の神器か三種の神器が戻って、物部(もののべ)氏が滅亡せずに存続して、6世紀の物部守屋(もののべのもりや)まで続くから、出雲王国の崩壊が正しい。
出雲王国の崩壊は、出雲の国譲り神話に神話化して、天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)が陣頭指揮した。

神功(じんぐう)皇后は、朝鮮半島から戻って、仲哀(ちゅうあい)天皇9年12月14日(西暦261年1月中旬頃)に誉田別尊(ほむだわけのみこと;即位しない応神(おうじん)天皇)を九州の宇瀰(うみ;福岡県粕屋郡宇美町)で出産したが、史実でなく嘘(うそ)である。
誉田別尊(ほむだわけのみこと)の誕生日は正しいが、出生地が明らかな間違いである。
誉田別尊(ほむだわけのみこと)の出生地の候補地は、「うみ」と名付けられた地名から、島根県出雲市平田の古代地名が『出雲国風土記』楯縫郡で「宇美・宇美社」と記して、ここが誉田別尊(ほむだわけのみこと)の出生地でないかと考えられる。
もう一つの出生地の候補は、京都府与謝郡伊根町の宇良(うら;浦島)神社で、「うみ」に発音の近い「うら」であること、浦島太郎のモデルが誉田別尊(ほむだわけのみこと)だろうということ、神功(じんぐう)皇后が討伐から戻った土地で生んだと記すから、出雲から船で帰って生んだ可能性が考えられる。
浦島太郎の正体は、皇太子の誉田別尊(ほむだわけのみこと)と息子の仁徳(にんとく)天皇と考えられて、その内容を知りたければ僕の出版していない3冊目の本を出版させることである。
『日本書紀』は、神功(じんぐう)皇后が息子の誉田別尊(ほむだわけのみこと)を生んで、異母兄弟に誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)がいると記すが、『古事記』で神功(じんぐう)皇后が品夜和気命(ほむやわけのみこと)と品陀和気命(ほむだわけのみこと)を生んだと記して、異母兄弟か同母兄弟か求めなければならない。
『ホツマツタエ』でオシホミミ(仲哀(ちゅうあい)天皇を神格化)とタクハタチチヒメ(神功(じんぐう)皇后を神格化)の子供は、初代ホノアカリ(誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)を神格化)とニニキネ(誉田別尊(ほむだわけのみこと)を神格化)である。
初代・火明命(ほあかりのみこと;誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)を神格化)と火瓊瓊杵根尊(ほのににぎねのみこと;誉田別尊(ほむだわけのみこと)を神格化)は、物部(もののべ)氏の血筋だからどちらも火の神様に神格した。
つまり物部(もののべ)氏の出身の神功(じんぐう)皇后は、物部(もののべ)氏の血筋の誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)と誉田別尊(ほむだわけのみこと)の同母兄弟を生んだと考えられる。
誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)と誉田別尊(ほむだわけのみこと)の同母兄弟は、神功(じんぐう)皇后の実子でない限り、物部(もののべ)氏の血筋があり得ない。

摂政(せっしょう)元年2月(西暦261年3月頃)に神功(じんぐう)皇后は、幼少の息子たちの異母兄弟で、大人の鹿坂王(かごさかのみこ)と忍熊王(おしくまのみこ)の兄弟が謀反(むほん)を起こして、神功(じんぐう)皇后が出雲王国から取り戻したものと加えて、二種の神器か三種の神器を強奪する計画を立てて、鹿坂王(かごさかのみこ)が猪に殺されたが、おそらく戦死を書き換えたと考えられる。
鹿は「鹿」の漢字の下に弭で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
摂政(せっしょう)元年3月5日(西暦261年4月上旬頃)以降に忍熊王(おしくまのみこ)は、宇治(うじ;京都府宇治市)に布陣したが、瀬田(せた;大津市瀬田)の渡りに沈んで死んで、下流の宇治川(うじがわ)で水死体が見つかったと考えられる。
鹿坂王(かごさかのみこ)と忍熊王(おしくまのみこ)の兄弟の反乱は、2種類の三種の神器を強奪するためで、神功(じんぐう)皇后の摂政(せっしょう;天皇に代わって政治する役職)の任命までに戦争が終了して、これまでの3度の皇位継承権争いから、神功皇后が三種の神器の扱いを変えることを考えた。

『日本書紀』神功(じんぐう)皇后の摂政(せっしょう)元年10月2日(西暦261年11月上旬頃)に群臣は、神功(じんぐう)皇后を皇太后と呼んで、神功(じんぐう)皇后を摂政(せっしょう;天皇に代わって政治する役職)に任命して、この年を摂政(せっしょう)元年として、摂政(せっしょう)元年が干支(えと)の年で辛巳(かのとみ)で、西暦261年に当たるのが間違いない。
『三国志・魏志倭人伝』に「復立卑弥呼宗女壱与、年十三為王、国中遂定」と記して、卑弥呼(ひみこ;倭姫命:やまとひめのみこと)と同族(皇族)の台与(とよ;神功(じんぐう)皇后)が33才で摂政(せっしょう)となって、皇位継承権争いが全て終わって、国中を遂(つい)に平定したと解釈できる。
台与(とよ)の女王の即位は年十三で、神功(じんぐう)皇后の年齢の33才を間違って伝えたのか、卑弥呼(ひみこ)が幼少で共立して、台与(とよ)も幼少で共立したと勘違いしたかのどちらかと考えられて、女王でなく天皇の政治代行で、女帝に近い権限である。
最古の女性皇族で権力者の神功(じんぐう)皇后は、女性天皇(女帝)の始まりと記すこともあって、女性天皇・女系天皇の根拠である。

摂政(せっしょう)3年1月3日(西暦263年2月上旬頃)に実兄の誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)でなく、弟の2才弱の誉田別尊(ほむだわけのみこと)を立太子(りったいし;皇太子になること)して、三種の神器で2種類の八重垣剣(やえがきのつるぎ)と1種類の草薙剣(くさなぎのつるぎ)を入れ替えて、2種類の八咫鏡(やたのかがみ)の片方と1種類の八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)と草薙剣(くさなぎのつるぎ)を持たせて、誉田別尊(ほむだわけのみこと)と共に日向(ひうが;宮崎県)に行かせた。
天皇家の故郷が宮崎県なのは、皇太子の誉田別尊(ほむだわけのみこと)が暮らして、息子で5代目の仁徳(にんとく)天皇の出生地で、誉田別尊(ほむだわけのみこと)を瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に神格化して、三種の神器を持たせて宮崎県に天孫降臨させて、仁徳(にんとく)天皇を神日本磐余彦火火出見尊(かむやまといわれびこほほでみのみこと)に神格化・祖先化した点にある。
息子の誉田別尊(ほむだわけのみこと)は、母親の(じんぐう)皇后より先に亡くなって、神武(じんむ)天皇(仁徳(にんとく)天皇を祖先化)の東征の物語につながる。

『日本書紀』神功(じんぐう)皇后の摂政(せっしょう)66年は、晋(しん)国の天子の言行などを記した起居注に、武帝の泰初二年十月(西暦266年11月頃)に倭の女王が何度も通訳を重ねて、貢献したと記す。
倭の女王と記すのは、女王と勘違いする台与(とよ;神功(じんぐう)皇后)で、西晋(せいしん)王朝の歴史書に倭王と記すだけで、『日本書紀』神功(じんぐう)皇后時代に倭の女王と表現するから、『日本書紀』の記述の摂政(せっしょう;天皇に代わって政治する役職)が正しいと考えられる。
摂政(せっしょう)66年と西暦266年が合致するのは、『日本書紀』が西洋の西暦年を知っていたからだと考えられる。

摂政(せっしょう)69年4月17日(西暦329年5月中旬頃)に神功(じんぐう)皇后が亡くなって、享年(きょうねん)100才で、神功(じんぐう)皇后の死後の諡(おくりな)が気長足姫尊(いきながたりひめのみこと)で、10月15日(11月中旬頃)に神功(じんぐう)皇后を狭城盾列陵(さきたたなみのみささぎ)に葬礼した。
10月15日(11月中旬頃)に神功(じんぐう)皇后を狭城盾列陵(さきたたなみのみささぎ)に葬礼したが、狭城盾列陵(さきたたなみのみささぎ)が佐紀盾列(さきたたなみ)古墳群(4世紀後半から5世紀前半の古墳群)に含むから明らかな時期間違いである。
神功(じんぐう)皇后が葬礼されたのは、4世紀前半に衰退する大和(おおやまと)古墳群の中にあるか、規模や時期からすると柳本古墳群の渋谷向山(しぶたにむこうやま)古墳などが考えられるが、あくまで僕の推測にすぎない。

現在の日本国政府は、父系(男系)の天照大神(あまてらすおおみかみ)と神武(じんむ)天皇の血筋を受け継ぐと信じて、男系男子天皇にこだわるが正しいのだろうか?
父系(男系)の天照大神(あまてらすおおみかみ;倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)は、一生独身で子孫がいなくて、父系(男系)の天照大神(あまてらすおおみかみ)の血筋が現在の皇室につづかない。
母系(女系)の天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)は、息子の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと;誉田別尊(ほむだわけのみことを神格化)に血筋が続いて、古代天皇家の武烈(ぶれつ)天皇まで皇祖神(皇室の祖先神)の天照大神(あまてらすおおみかみ)の血筋が続いた。
新しい血筋の継体(けいたい)天皇は、武烈(ぶれつ)天皇の実姉の手白香皇女(たしらかのおうじょ)を皇后として、現在の皇室の直系先祖である欽明(きんめい)天皇をもうけたと伝える。
武烈(ぶれつ)天皇は、約30年間を在位した倭(わ)の五王の倭王(わおう)「武」で、手白香皇女(たしらかのおうじょ)が継体(けいたい)天皇と結婚した時に50才以上と考えられて、「記紀」の記述の間違いに気付く。
継体(けいたい)天皇と手白香皇女(たしらかのおうじょ)の息子の欽明(きんめい)天皇は、正しい系図に間違いないなら、手白香皇女(たしらかのおうじょ)が若い頃に欽明(きんめい)天皇をもうけて、「記紀」の記述に嘘(うそ)があると考えられる。
神武(じんむ)天皇は、実在の初代の崇神(すじん)天皇と5代目の仁徳(にんとく)天皇を祖先化して、作られた架空の天皇である。
崇神(すじん)天皇の孫の景行(けいこう)天皇は、孫娘が神功(じんぐう)皇后で、その孫が仁徳(にんとく)天皇で、神武(じんむ)天皇に祖先化した2天皇をつなぐ女性皇族が神功(じんぐう)皇后である。
卑弥呼(ひみこ;倭姫命:やまとひめのみこと)と台与(とよ;神功(じんぐう)皇后)は、邪馬台国(やまとこく;大和国)論争の亡霊(ぼうれい)で、天皇家の歴史に一生付きまとう運命にある。
現在の皇室は、父系(男系)の天照大神(あまてらすおおみかみ)と神武(じんむ)天皇の血筋が正しい根拠がなくて、古代日本史を完全解釈した僕の公表した史実・真実・事実をどう考えるかである。
僕の歴史研究の成果は、世界中と日本中にどのように評価されて、時代を導(みちび)いていくのか僕にも分からない。

神功(じんぐう)皇后は、夫の仲哀(ちゅうあい)天皇と早くに死別して、2才弱の息子の誉田別尊(ほむだわけのみこと)を宮崎県に送り出して一生会えず、いくら政治のためといえど孤独に耐えた悲しい女性である。
家族の愛情を受けて恵まれた中に生きた僕には一生分からないことで、僕が恵まれた環境にいるのが否定できず、神功(じんぐう)皇后という女性の強さがある。

<参考文献>
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『古事記(上)(中)―全三巻―』
次田真幸・著者 株式会社講談社・発行
『新訂 魏志倭人伝 他三篇―中国正史日本伝(1)―』
石原道博・編訳者 株式会社岩波書店・発行
『日本古代地名事典』
吉田茂樹・著者 新人物往来社・発行
インターネット

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