神功(じんぐう)皇后


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

神功皇后は古代中国の歴史書で台与とされて、皇祖神(天皇家の祖先神)である天照大神(あまてらすおおみかみ)と天孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと;誉田別尊(ほむだわけのみこと)を神格化:即位しない応神(おうじん)天皇)の母親である万幡豊秋津姫命(よろずはたとよあきつひめのみこと;別名が栲幡千千姫(たくはたちちひめ)である)に神格化された非常に重要な人物である。
『日本書紀』の神功皇后時代に『魏志倭人伝』の記述があって卑弥呼を思わせたり、4世紀の百済王などの記述を持ってくることで4世紀の人物だと思わせたり、記述を滅茶苦茶にすることで混乱させるのが編者の狙いである。
しかし神功皇后以前の歴代天皇の在位期間が把握できる僕からすれば、その偽装工作も無為に等しくアインシュタイン博士以上の天才の僕を馬鹿にしないでほしい。

6代目タカミムスビ(景行(けいこう)天皇を神格化)の息子の7代目タカミムスビ(武虎別皇子(たけこわけのみこ)を神格化)が生まれて、その娘のタクハタチチヒメ(神功皇后を神格化)が生まれた。
神功皇后の摂政任命と死去の年代が分かるから逆算すると、景行天皇38年(西暦228年)頃に生まれたことが分かる。


神功皇后の血筋が物部(もののべ)氏だということは系図の祖先化と『ホツマツタエ』の日本神話から分かって、神功皇后の生誕年が『日本書紀』の記述をしっかり把握できれば求められる。

仲哀(ちゅうあい)天皇2年1月11日(西暦253年2月中旬頃)に気長足姫尊(おきながたりひめのみこと)を皇后とされて、後の神功皇后に当たる。
神功皇后の気長足姫尊という名前は死後の諡(おくりな)であり、生前の名前が隠される理由が卑弥呼の同族から選ばれた台与(とよ)に当たるためで求められないように偽装工作して、豊姫命(とよひめのみこと)と呼ばれていたのが間違いない。
神功皇后の父親を彦坐王(ひこいますのみこ)の子孫の息長宿禰王(おきながすくねのみこ)で、母親を天日槍(あめのひぼこ)の子孫のカツラギノタカヌカヒメとするが、本当は両親共に彦坐王の子孫で、父親が物部氏の血筋の景行天皇の皇子である武虎別皇子である。


神功皇后は台与で本名を隠されているが、どんなに巧妙に隠したようでも求められるように細工がされていて、アインシュタイン博士以上の天才の僕なら簡単に求められる。
神功皇后の父母の血筋も巧妙に隠しているが、この程度僕にかかれば造作もなく求められて、僕の出版していない3冊目の本に詳細を述べている。

神功皇后が仲哀天皇9年に新羅(しらぎ)を攻撃して、高句麗(こうくり)と百済(くだら)も従えたのを三韓征伐と呼んでかつて歴史教科書でも教えていたが、史実でなく正しく求めると出雲王国の攻撃となる。
神功皇后は朝鮮半島から戻って、皇太子の誉田別尊を九州の宇瀰(うみ;福岡県粕屋郡宇美町)で出産したとされるが史実でない。
仲哀天皇9年12月14日(西暦261年1月中旬頃)に神功皇后は誉田別尊を出産したが、その場所がよく分からない。


誉田別尊の出生地の候補地が「うみ」と名付けられた地名から、島根県出雲市平田の古代地名が『出雲国風土記』楯縫郡で「宇美・宇美社」と記されて、ここが誉田別尊の出生地でないかと考えられる。
もう一つの出生地の候補が京都府与謝郡伊根町の宇良神社で、「うみ」に発音の近い「うら」であること、浦島太郎のモデルが誉田別尊だろうということ、神功皇后が討伐から戻った土地で生んだと記されているから、出雲から船で帰って生んだ可能性が考えられる。
出雲王国の存在が考古学から見て認めにくいことから、誉田別尊の出生地を求めるのは歴史書に頼るしかなく心もとない。
浦島太郎のモデルが誉田別尊だろうと記しているが、浦島太郎の正体は誉田別尊と息子の仁徳(にんとく)天皇と考えられて、その内容を知りたければ僕の出版していない3冊目の本を出版させることである。

『日本書紀』神功皇后の摂政(せっしょう)元年10月2日(西暦261年11月上旬頃)に群臣は神功皇后を皇太后と呼び、これを摂政元年としたと記されて、つまり神功皇后を摂政(天皇に代わって政治をする役職)としたということである。
摂政元年は干支(えと)の年で辛巳(かのとみ)で、西暦261年に当たるのが間違いない。


『三国志・魏志倭人伝』に「復立卑弥呼宗女壱与、年十三為王、国中遂定」と記されて、倭姫命(やまとひめのみこと)と同じ皇族の神功皇后が33歳で摂政となって出雲王国を討伐して国中がついに平定されたと解釈できる。
『魏志倭人伝』にある壱与が正しくは台与(とよ)で、神功皇后の記されていない本名の豊姫命に当たり、年十三が年齢の33歳を間違って伝えたのか勘違いされたかのどちらかだと考えられる。

摂政2年11月8日(西暦262年12月上旬頃)に夫の仲哀天皇を大阪府に葬礼したと記されているが、時期的に考えて明らかな間違いである。

仲哀天皇陵は3世紀中頃の陵墓で、明らかに奈良県桜井市の大和(おおやまと)古墳群の中にあると考えられる。

摂政6年(西暦266年)に古代中国の西晋王朝への使者を派遣して外交をした。

『日本書紀』神功皇后の摂政66年に晋の国の天子の言行などを記した起居注に、武帝の泰初二年十月(西暦266年11月頃)に倭の女王が何度も通訳を重ねて、貢献したと記されている。
この倭の女王と記されているのが卑弥呼の後を受け継いだと勘違いされる台与で、摂政になった女帝に近い立場の神功皇后を示す。
西晋王朝の歴史書には倭王と記されるだけで、倭の女王と記されていないようだが、『日本書紀』神功皇后時代に倭の女王と表現されているのだから、『日本書紀』の記述が正しいと考えられる。
摂政66年と西暦266年が合致するのは、『日本書紀』が西洋の西暦年を知っていたからだと考えられる。

摂政69年4月17日(西暦329年5月中旬頃)に神功皇后が亡くなって、享年(きょうねん)百歳だった。
10月15日(11月中旬頃)に神功皇后を狭城盾列陵(さきたたなみのみささぎ)に葬礼したとされるが、狭城盾列陵が佐紀盾列(さきたたなみ)古墳群(4世紀後半から5世紀前半の古墳群)に含まれるから明らかな時期間違いである。


神功皇后が百歳で亡くなったというのは、息子の誉田別尊(ほむだわけのみこと)が日向(ひうが;宮崎県)で母親より先に亡くなって天皇として即位できなかったことに説明が付く。
神功皇后は夫の仲哀天皇が亡くなり、摂政という立場に立ち、息子の誉田別尊を宮崎県に送り出してから、ずっと孤独な女帝と言っても良い立場にあってリーダーシップを取ったと考えられる。
神功皇后が葬礼されたのは、4世紀前半に突如として衰退する大和(おおやまと)古墳群の中にあるか、規模や時期からすると柳本古墳群の渋谷向山(しぶたにむこうやま)古墳などが考えられる。
しかし明確な答えが出せるはずなどなく、僕の限界を見て取ることができる。

神功皇后は夫の仲哀天皇と早くに死別して、生まれたばかりの息子の誉田別尊を日向に送り出して一生会えず、いくら政治のためといえど孤独に耐えた悲しい女性である。
家族の愛情を受けて恵まれた中に生きてきた僕には一生分からないことで、僕が恵まれた環境にいるのが否定できない。

<参考文献>
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『新訂 魏志倭人伝 他三篇―中国正史日本伝(1)―』
石原道博・編訳者 株式会社岩波書店・発行
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