神功(じんぐう)皇后の疑問点

神功(じんぐう)・・・神の功(いさお)の皇后は、神様の功績が母方の天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)などを指して、神様に例(たと)える功績が天皇家最長の69年間の政治をしたなど色々と意味する。

神功皇后時代は『日本書紀』で『三国志・魏志倭人伝』の記述と三韓征伐の記述と古代朝鮮国家群との記述を記して、女王の卑弥呼と台与(とよ)を連想させたり、4世紀後半頃の古代朝鮮国家群と外交した頃に生きていたり、混乱させるのが目的で記されている。
しかし『日本書紀』の神功皇后の記述は、論理的根拠を持ってして説明できるもので、決して何の根拠もなく作られていない。
アインシュタイン博士以上の超天才の僕が実力を発揮すれば、古代天皇家の歴史でひもとけない疑問もあるが、神功皇后の疑問点なら簡単に解消できる。

神功皇后は、景行(けいこう)天皇38年頃(西暦228年頃)の生まれで、台与の即位の年齢と神功皇后の死去の年齢を逆算すると求められる。
神功皇后は、邪馬台国(やまとこく;大和国)論争の女王と勘違いする台与で、直系の皇祖神(こうそしん;皇室の祖先神)で天岩戸(あまのいわと)隠れ以後の天照大神(あまてらすおおみかみ)や栲幡千千姫(たくはたちちひめ)などに神格化して、非常に重要な人物である。

神功皇后は、台与(隠された名前が豊姫命(とよひめのみこと;台与卑弥呼)である)で、台与が女王でなく摂政(せっしょう;天皇に代わって政治代行する役職)の神功皇后で、限りなく女帝に近い立場にある。
神功皇后は、台与と分からなくするために「記紀」から豊姫命の名前を削除して、神功皇后と死後の諡(おくりな)の気長帯姫尊(いきながたりひめのみこと)を一般的に使っている。
しかし神功皇后は『日本書紀』で摂政とされて、『扶桑略記』や『水鏡』で女帝の始めとされて、『常陸国風土記』で息長帯比売(いきながたりひめ)天皇と記す。
そのため僕の歴史研究の公表後は、神功皇后がどのように扱われるか想像が付かない。
神功皇后が台与である証拠は、栲幡千千姫(神功皇后を神格化)の別名の万幡豊秋津姫命(よろずはたとよあきつひめのみこと)などに名残(なごり)がある。

神功皇后は、血筋が分からないように巧妙に細工(さいく)しているが、系図の祖先化を利用してうまく偽装工作していることに気付けば簡単に求められる。
孝元(こうげん)天皇の息子で阿倍(あべ)氏の始祖の大彦命(おおびこのみこと)は、娘が崇神(すじん)天皇の皇后の御間城姫(みまきひめ)で、景行天皇の息子で阿倍氏出身の武虎別皇子(たけこわけのみこ)が娘を神功皇后としている。
阿倍氏は古代豪族の武家の物部(もののべ)氏から出た氏族で、大彦命も武虎別皇子も物部氏の血筋を受け継ぐのが明白で、神功皇后の息子の誉田別尊(ほむだわけのみこと;即位しない応神(おうじん)天皇)も孫の仁徳(にんとく)天皇も物部氏の血筋にある理由がある。
物部氏の直系子孫は、火の神様に神格化されて、皇祖神(こうそしん;皇室の祖先神)の火瓊瓊杵尊(ほのににぎのみこと;誉田別尊を神格化)とその息子の火火出見尊(ほほでみのみこと;仁徳天皇を神格化)に当たるためである。
神功皇后は、巧妙に血筋が隠されているが、僕の超頭脳をだませるほど甘くなくて、他にも色々な根拠を挙げられる。

神功皇后は、仲哀(ちゅうあい)天皇2年1月11日(西暦253年2月中旬頃)の24才頃に皇后になって、仲哀天皇9年12月14日(西暦261年1月中旬頃)に誉田別尊を生んだ。
年代は分からないが神功皇后が誉田別尊の実兄の誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)を生んで、初代・火明命(ほあかりのみこと;誉屋別皇子を神格化)が火の神様だから物部氏の血筋である。
『日本書紀』の大酒主(おおさかぬし)の娘の弟媛(おとひめ)が誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)を生んだのが間違いで、『古事記』の神功皇后が品夜和気命(ほむやわけのみこと)と品陀和気命(ほむだわけのみこと)を生んだと記すのが正しいと考えられる。
大酒主は物部氏の系図にない人物で、神功皇后の実子が誉屋別皇子で、物部氏の直系子孫だから火の神様に神格化されて、この結論以外に答えがない。

『日本書紀』仲哀天皇9年2月5日(西暦260年3月上旬頃)に仲哀天皇は病気になられて、翌日にもう崩御(天皇が亡くなること)したと記すが、出雲王国の攻撃中で、戦死でないかと考えられる。
日本武(やまとたけ)天皇の軍勢は、実の息子の仲哀天皇を殺して、仲哀天皇の正妻の神功皇后が義父の日本武天皇を恨(うら)んだと考えられる。
神功皇后は、仲哀天皇9年神無月(西暦260年11月頃)に出雲王国を攻撃して、武将の吉備武彦(きびたけひこ)と武渟川別(たけぬなかわわけ)が日本武天皇を殺した。
その結果は、神功皇后の手元に強奪した二種の神器か三種の神器が戻って、出雲王国(物部氏)が滅亡せずに存続するから、出雲王国の崩壊が正しい。

景行天皇と弟橘姫(おとたちばなひめ)は、彦人大兄皇子(ひこひとのおおえのみこ;仲哀(ちゅうあい)天皇の叔父(おじ)を生んで、その娘の大中媛(おおなかひめ)が仲哀天皇と結婚して、鹿坂皇子(かごさかのみこ)と忍熊皇子(おしくまのみこ)の兄弟を生んだ。
鹿は「鹿」の漢字の下に弭で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
摂政元年2月(西暦261年3月頃)に神功皇后は、幼少の息子の誉屋別皇子と誉田別尊の異母兄弟で、大人の鹿坂王(かごさかのみこ)と忍熊王(おしくまのみこ)の兄弟が謀反(むほん)を起こして、神功皇后が出雲王国から取り戻したものと加えて、二種の神器か三種の神器を強奪する計画を立てて、鹿坂王が死んだが、おそらく戦死を書き換えたと考えられる。
3月5日(西暦261年4月上旬頃)以降に忍熊王は、宇治(うじ;京都府宇治市)に布陣したが、瀬田(せた;大津市瀬田)の渡りに沈(しず)んで死んで、下流の宇治川(うじがわ)で水死体が見つかったと考えられる。
鹿坂王(かごさかのみこ)と忍熊王(おしくまのみこ)の兄弟の反乱は、2種類の三種の神器を強奪するためで、神功皇后の摂政の任命までに戦争が終了して、これまでの3度の皇位継承権争いから、神功皇后が三種の神器の扱いを変えることを考えた。

摂政元年10月2日(西暦261年11月上旬頃)に神功皇后は、33才で摂政に任命されて、皇太后と呼ばれて、台与が13才で女王になったと勘違いされて、神功皇后の年齢を逆算して出した結論である。
『三国志・魏志倭人伝』に「復立卑弥呼宗女壱与、年十三為王、国中遂定」と記して、卑弥呼(倭姫命;やまとひめのみこと)と同族(皇族)の台与(神功皇后)が33歳で摂政となって、皇位継承権争いが全て終わって、国中を遂(つい)に平定したと解釈できる。

摂政3年1月3日(西暦263年2月上旬頃)に実兄の誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)でなく、弟の2歳弱の誉田別尊を立太子(りったいし;皇太子になること)して、三種の神器で2種類の八重垣剣(やえがきのつるぎ)と1種類の草薙剣(くさなぎのつるぎ)を入れ替えて、2種類の八咫鏡(やたのかがみ)の片方と1種類の八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)と草薙剣を持たせて、誉田別尊と共に日向(ひうが;宮崎県)に行かせた。
天照大神(神功皇后を神格化)の命令で、忍穂耳尊(おしほみみのみこと;仲哀天皇を神格化)と栲幡千千姫(神功皇后を神格化)が結婚して生まれた息子の瓊瓊杵尊(誉田別尊を神格化)が三種の神器を持って宮崎県に行って、これが天孫降臨神話の真相である。

魏王朝滅亡の後に西晋王朝ができて、摂政6年(西暦266年;西晋王朝の武帝の泰初二年)に台与(神功皇后)が初めて遣使して、その後に何度も通訳を重ねて貢献したとされる。
この西晋王朝の遣使は、邪馬台国時代の最後の記述で、これ以降に邪馬台国が記されない。

摂政69年4月17日(西暦329年5月中旬頃)に神功皇后は亡くなって、享年(きょうねん)百才で、10月15日(11月中旬頃)に葬礼した。
神功皇后陵は、おそらく大和(おおやまと)古墳群の中にあると考えられるが、柳本古墳群の渋谷向山古墳も有力候補である。

神功皇后は、天皇家の直系先祖の台与や天照大神で、非常に重要な存在である。
アインシュタイン博士以上の超天才の僕は、神功皇后だけでなく古代天皇家の多くの人物を求められて、僕にしかできない神技である。

<参考文献>
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『古代日本史への挑戦』
僕・著者 株式会社オカムラ・発行
インターネットの不明サイトから少々拝借

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