神功(じんぐう)皇后の疑問点


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

神功皇后時代は『日本書紀』で『魏志倭人伝』の記述と三韓征伐の記述と古代朝鮮国家群との記述を記して、女王の卑弥呼と台与(とよ)を連想させたり、4世紀後半頃の古代朝鮮国家群と外交した頃に生きていたり、混乱させるのが目的で記されている。
しかし『日本書紀』の神功皇后の記述は、論理的根拠を持ってして説明できるもので、決して何の根拠もなく作られていない。
アインシュタイン博士以上の天才の僕は実力を発揮すれば、古代天皇家の歴史でひもとけない疑問もあるが、神功皇后の疑問点なら簡単に解消できる。

神功皇后は血筋が分からないように巧妙に細工(さいく)しているが、系図の祖先化を利用してうまく偽装工作していることに気付けば簡単に求められる。
孝元(こうげん)天皇の息子で阿倍(あべ)氏の始祖の大彦命(おおびこのみこと)は、娘が崇神(すじん)天皇の皇后の御間城姫(みまきひめ)で、景行(けいこう)天皇の息子で阿倍氏出身の武虎別皇子(たけこわけのみこ)が娘を神功皇后としている。
阿倍氏は古代豪族の武家の物部(もののべ)氏から出た氏族で、大彦命も武虎別皇子も物部氏の血筋を受け継ぐのが明白で、神功皇后の息子の誉田別尊(ほむだわけのみこと)も孫の仁徳(にんとく)天皇も物部氏の血筋にある理由がある。
物部氏の直系子孫は火の神様に神格化されて、皇祖神(こうそしん;皇室の祖先神)の火瓊瓊杵尊(ほのににぎのみこと;誉田別尊を神格化)とその息子の火火出見尊(ほほでみのみこと;仁徳天皇を神格化)に当たるためである。
神功皇后は巧妙に血筋が隠されているが、僕の超頭脳をだませるほど甘くなくて、他にも色々な根拠を挙げられる。

神功皇后は邪馬台国(古代天皇家)の台与(隠された名前が豊姫命(とよひめのみこと)である)で、豊姫命を古代中国語表記すると台与卑弥呼になって、台与が女王でなく神功皇后の摂政(せっしょう;天皇に代わって政治代行する役職)で、限りなく女帝に近い立場にある。
神功皇后は台与だと分からなくするために「記紀」から豊姫命の名前を削除して、神功皇后と死後の諡(おくりな)の気長帯姫尊(おきながたりひめのみこと)を一般的に使っている。
しかし神功皇后は『日本書紀』で摂政とされて、『扶桑略記』や『水鏡』で女帝の始めとされて、『常陸国風土記』で息長帯比売(おきながたりひめ)天皇と記されている。
そのため僕の歴史研究の公表後は、神功皇后がどのように扱われるか想像が付かない。
神功皇后が台与である証拠は、栲幡千千姫(たくはたちちひめ;神功皇后を神格化)の別名の万幡豊秋津姫命(よろずはたとよあきつひめのみこと)などに名残(なごり)がある。

神功皇后は西暦228年頃の生まれで、仲哀天皇2年1月11日(西暦253年2月中旬頃)に皇后になって、仲哀天皇9年12月14日(西暦261年1月中旬頃)に誉田別尊を生んだ。
年代は分からないが神功皇后が誉田別尊の実兄の誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)を生んで、初代・火明命(ほあかりのみこと;誉屋別皇子を神格化)が火の神様だから物部氏の血筋である。
『日本書紀』の大酒主(おおさかぬし)の娘の弟媛(おとひめ)が誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)を生んだのが間違いで、『古事記』の神功皇后が品夜和気命(ほむやわけのみこと)と品陀和気命(ほむだわけのみこと)を生んだと記すのが正しいと考えられる。
大酒主は物部氏の系図にない人物で、神功皇后の実子が誉屋別皇子で、物部氏の直系子孫だから火の神様に神格化されて、この結論以外に答えがない。
摂政元年10月2日(西暦261年11月上旬頃)に神功皇后は33歳で皇太后になって、台与が十三才で女王になったと勘違いされて、神功皇后の年齢を逆算して出した結論である。
摂政69年4月17日(西暦329年5月中旬頃)に神功皇后は亡くなって享年(きょうねん)百歳で、10月15日(11月中旬頃)に葬礼されて、おそらく大和(おおやまと)古墳群の中に神功皇后陵があると考えられるが、正しい確信など一切ない。

『日本書紀』の神功皇后時代は、『魏志倭人伝』の記述が西暦年で記されて、中国の元号と西暦年を『日本書紀』が把握していたことを意味して、西暦720年頃の天皇家が西洋のことも知っていたと考えられる。
『魏志倭人伝』の記述が記されているのは、神功皇后を卑弥呼か台与に当たると考えさせるためで、台与が神功皇后に当たるのだから間違っていない。
皇祖神の天照大神(あまてらすおおみかみ;神功皇后を神格化)と栲幡千千姫(神功皇后を神格化)は台与で、太陽神の天照大神(倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)が卑弥呼で、天岩戸(あまのいわと)隠れ神話が太陽神の天照大神(卑弥呼)と皇祖神の天照大神(台与)の交代を意味する。
神功皇后時代の『魏志倭人伝』の記述は、卑弥呼(倭姫命)の一族(皇族)の豊姫命(神功皇后)が33歳で摂政になって、出雲王国を崩壊させて国中を遂(つい)に平定したと訳せる部分である。
魏王朝滅亡の後に西晋王朝ができて、摂政6年(西暦266年;西晋王朝の武帝の泰初二年)に台与(神功皇后)が初めて遣使して、その後に何度も通訳を重ねて貢献したとされる。
邪馬台国(古代天皇家)の台与(神功皇后)は、どのような人生を送って来たのか知ることなど簡単である。

『日本書紀』は摂政46年3月1日(西暦366年4月上旬頃)に卓淳(とくじゅん)国に使者を派遣して、この年より百済(くだら)と外交を開始して、その後に古代朝鮮国家群との外交が記録されるようになる。
摂政46年(西暦366年)以降は、実際の神功皇后時代に干支(えと)の60年間を足し算していって、年代をずらしたもので正しい年代でない。
『ホツマツタエ』も『日本書紀』も歴代の人物の年代を偽装工作して、年代・内容の改変・変更を当たり前にほどこして、古代天皇家の正史を隠したが僕をだませなかった。
神功皇后は息子の誉田別尊をすぐに手放して、孤独な摂政として生涯に渡って息子に会えなかった悲しい女性で、そのことを僕が求めなかったら誰も知らなかった。

<参考文献>
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『女系皇位継承は日本の伝統』
松本陽一・著者 株式会社新風書房・発行
『古代日本史への挑戦』
僕・著者 株式会社オカムラ・発行
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