神武(じんむ)天皇の疑問点
神武(じんむ)・・・神の武(たける)の天皇は、宮崎県から東方の奈良県を征伐して、即位した実在の5代目の仁徳(にんとく)天皇を祖先化した仮(かり)の初代天皇を意味する。
神武(じんむ)天皇は、皇統譜(こうとうふ;皇室の戸籍簿)の初代天皇で、歴史に信憑性(しんぴょうせい)があると信じるが、創作されたことが間違いないとする人もいて、僕だけが決着を付けられて、2024年11月8日に修正した。
歴代天皇は、外交用の呼び方の漢風諡号(しごう)と国内用の呼び方の国風諡号(しごう)が存在して、神武(じんむ)天皇なら神武(じんむ)が漢風諡号(しごう)で、神日本磐余彦尊(かむやまといわれびこのみこと)が国風諡号(しごう)で、神武(じんむ)天皇が崇神(すじん)天皇と仁徳(にんとく)天皇を祖先化した。
神武(じんむ)天皇から2代前の系図の神様は、火火出見尊(ほほでみのみこと)と言う名前で、『日本書紀』の日本神話で神武(じんむ)天皇の呼び名が神日本磐余彦火火出見尊(かむやまといわれびこほほでみのみこと)で、神武(じんむ)天皇と火火出見尊(ほほでみのみこと)が同一人物で、火火出見尊(ほほでみのみこと)が仁徳(にんとく)天皇を神格化した。
神武(じんむ)天皇の即位日の神武(じんむ)天皇元年1月1日(紀元前660年2月11日)は、建国記念の日で、正しい歴史と認められない仮(かり)の日付で、『ホツマツタエ』の孝昭(こうしょう)天皇49年1月1日(西暦49年2月上旬頃)に孝安(こうあん)天皇(崇神(すじん)天皇を祖先化)が生まれて、崇神(すじん)天皇の誕生日を神武(じんむ)天皇の即位日に採用したと判明した。
紀元前722年に北イスラエル王国は、アッシリアに滅亡させられて、北イスラエル王国にいた10支族(失われた10支族)が行方不明になって、南ユダ王国の2支族が現在のユダヤ人になったとされて、古代イスラエルに12支族がいたとされる。
紀元前721年に皇統譜(天皇家の戸籍簿)の初代・神武(じんむ)天皇は生まれて、神武(じんむ)天皇元年1月1日(建国記念の日)に即位したとされて、失われた10支族の中から神武(じんむ)天皇が即位して、ユダヤ人の出身のように思わせる偽装工作である。
神武(じんむ)天皇元年1月1日(紀元前660年2月11日)は、北イスラエル王国が滅亡した紀元前722年との関連が指摘されて、干支(えと)の60年周期で、約60年繰り下がって、北イスラエル王国の失われた10支族のユダヤ人が日本にやって来て、神武(じんむ)天皇をユダヤ人と疑わせるため、イスラエルの情報を知っていたと考えられる。
『ホツマツタエ』で天日槍(あめのひぼこ)の子孫の年代は、垂仁(すいにん)天皇3年が垂仁(すいにん)天皇の崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)年(西暦191年)から逆算しての3年の西暦188年、垂仁(すいにん)天皇88年が西暦188年の変更で、ヨーロッパの西暦年の使用が間違いない。
『ホツマツタエ』は、出雲王国(物部(もののべ)氏)が崇神(すじん)天皇12年に建国して、崇神(すじん)天皇時代に出雲王国の崩壊を記して、『日本書紀』が成務(せいむ)天皇60年6月11日に成務(せいむ)天皇(日本武尊(やまとたけのみこと)と同一人物)が亡くなって、出雲大社の神在祭(かみありさい)が仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月11日から17日(西暦260年11月中旬頃)で合致して、『ホツマツタエ』と『日本書紀』の西暦年の使用を証明した。
『ホツマツタエ』の景行(けいこう)天皇46年は、『日本書紀』で景行(けいこう)天皇51年に改められて、天皇不在の年(西暦251年)に当たって、『ホツマツタエ』と『日本書紀』の西暦年の使用を証明して、日本武(やまとたけ)天皇の強行即位日も証明した。
6世紀前半の西暦525年に西暦年はできて、『ホツマツタエ』が6世紀から7世紀中に西暦年を採用して完成して、『ホツマツタエ』で和珥(わに)氏が6世紀頃に春日(かすが)氏と大宅(おおやけ)氏と粟田(あわた)氏などに分家したことを記して、『ホツマツタエ』が6世紀から7世紀中に成立した日本最古の書物で間違いない。
『日本書紀』の仲哀(ちゅうあい)天皇元年閏年(うるうどし)11月4日は、天皇不在の年11月4日(西暦251年12月上旬頃)が251年ではみ出して、『日本書紀』が古代中国の太陰太陽暦の閏月(うるうづき)でなく、ヨーロッパの太陽暦の閏年(うるうどし)を指すと考えられる。
これらの理由は、『ホツマツタエ』と『日本書紀』の西暦年の使用を完全に証明して、8世紀前半に「記紀」を作成した古代天皇家が世界中に使者を派遣して、日本神話が世界中の神話との関連性を指摘する理由で、圧倒的な外交力があったと考えられる。
神武(じんむ)天皇元年1月1日(紀元前660年2月11日)は、今から30年から40年ほど前に縄文時代で、今が弥生時代で、紀元前722年が北イスラエル王国を思わせたり、神武(じんむ)東征が宮崎県から奈良県に行って即位して、3世紀頃の邪馬台国(やまたいこく)論争を思わせたり、神武(じんむ)天皇が初代天皇を思わせたりと偽装工作に余念がない。
孝昭(こうしょう)天皇49年1月1日(西暦49年2月上旬頃)は、孝昭(こうしょう)天皇と世襲足姫(よそたりひめ)が実在の初代天皇の崇神(すじん)天皇を生んで、神武(じんむ)天皇元年1月1日(紀元前660年2月11日)と日付が合致して、実在の初代天皇の崇神(すじん)天皇を皇統譜(こうとうふ;皇室の戸籍簿)で初代天皇の神武(じんむ)天皇に祖先化した。
神武(じんむ)東征は、神武(じんむ)天皇が宮崎県から奈良県に行って即位して、邪馬台国(やまたいこく)論争を想像させて、神武(じんむ)天皇か崇神(すじん)天皇が邪馬台国(大和国;やまとこく)時代の天皇か、奈良県(近畿地方)か宮崎県(九州)に邪馬台国(やまたいこく)が存在したかなどを想像させて、「記紀」に混乱させる目的があった。
つまり「記紀」を編纂(へんさん)した8世紀前半の天皇家や古代豪族は、古代天皇家の正史(正しい歴史)をちゃんと把握して、後世の人間が「記紀」を読んで、混乱するようにワザと偽装工作して、超天才の僕が正しく完全解釈して、ひもとくことを願って作って、神武(じんむ)天皇時代が縄文時代やユダヤ人や邪馬台国(大和国;やまとこく)論争などを想像させるためだった。
『ホツマツタエ』崇神(すじん)天皇12年3月11日(西暦95年4月中旬頃)に彦坐王(ひこいますのみこ)は、実弟の崇神(すじん)天皇へ出雲王国(物部(もののべ)氏)の建国を報告して、崇神(すじん)天皇が「穀物の病(やまい)もない泰平な世を讃(たた)えて、世の混乱が治まり初めて国を泰平に治めた意味で、初国治(はつくにし)らす御間城(みまき)の世と呼ぶ」と言った。
『日本書紀』の崇神(すじん)天皇の「御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)」は、初代天皇の称号で、『古事記』の崇神(すじん)天皇の「所知初国之御真木天皇(はつくにしらししみまきのすめらみこと)」も初代天皇の称号で、『日本書紀』の崇神(すじん)天皇を祖先化した神武(じんむ)天皇の初代天皇の称号が「始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)」である。
崇神(すじん)天皇は、自分の時代を「初国治(はつくにし)らす御間城(みまき)の世」と賞賛して、後に初代天皇の称号とされて、後世に伝わった。神武(じんむ)天皇と崇神(すじん)天皇の初代天皇の称号は、崇神(すじん)天皇を祖先化したのが神武(じんむ)天皇と証明して、『ホツマツタエ』から崇神(すじん)天皇が自分の時代を賞賛したのが初代天皇の称号になったことが分かる。
神武(じんむ)天皇(崇神(すじん)天皇を祖先化)の息子の神八井耳命(かみやいみみのみこと;豊城彦命(とよきひこのみこと)を祖先化)と綏靖(すいぜい)天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)は、異母兄の手研耳命(たぎしみみのみこと;従弟の狭穂彦王(さほひこのみこ)を祖先化)を殺して、垂仁天皇5年(西暦156年)の狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱(倭国大乱;わこくたいらん)に当たる。
これらの多くの理由は、崇神(すじん)天皇が神武(じんむ)天皇に祖先化された証拠で、僕の自論を100%誰も打破できない史実・真実・事実である。
神武(じんむ)東征1年から5年は、神功(じんぐう)皇后の摂政(せっしょう)69年(西暦329年)から天皇不在の年333年までの5年間が仁徳(にんとく)東征で、神武(じんむ)天皇が宮崎県から奈良県に東に向かって、征伐して即位したのが仁徳(にんとく)天皇の物語を祖先化して、完全な史実(歴史上の事実)である。
『ホツマツタエ』神武(じんむ)天皇2年は、仁徳(にんとく)天皇2年1月11日(西暦335年2月中旬頃)で、家臣の役職の任命が完全に仁徳(にんとく)東征で活躍した人物たちで、僕の自論が100%正しいと証明した。
神武(じんむ)天皇の疑問点は、崇神(すじん)天皇と仁徳(にんとく)天皇を神武(じんむ)天皇に祖先化して、神武(じんむ)天皇が確実に作られた実在しない天皇で、僕にしか求められない奇跡である。
<参考文献>
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『古代日本史への挑戦』
僕・著者 株式会社オカムラ・発行
インターネットの不明サイトから少々拝借
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