邪馬台国の属国の混乱


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

邪馬台国の属国は女王国も含めて邪馬台国連合に属する国で、それを求める以前の問題として、国名の比定ができていないことを誰も理解していない。
『魏志倭人伝』は人名の読み方の比定が当てにならず、卑弥呼と台与を試(ため)しに当てはめると分かって、具体例として示しておこうと思う。
卑弥呼(倭姫命;やまとひめのみこと)は「邪馬台卑弥呼」で、邪馬台国(大和国;やまとこく)と「やまと」の呼び名が合致して省(はぶ)かれて、『ホツマツタエ』の呼び名の「ヤマトヒメ」なら卑弥呼でなく、ヒメの卑弥だけしか発音されないと考えられる。
台与(とよ;神功(じんぐう)皇后の抹消された名前の豊姫命:とよひめのみこと)は、「台与卑弥呼」で「ひめのみこと」が卑弥呼と合致して省かれて、台与の呼び名だけが残された。
卑弥呼(倭姫命)の男弟(異母弟)は景行(けいこう)天皇で、卑弥呼が補佐する邪馬台国王(大和国王)として天皇が政治を行なって、卑弥呼(倭姫命)の死後に立った男王(日本武尊;やまとたけのみこと)が皇太子で、強行即位してかりそめの天皇になった日本武尊である。
卑弥呼と台与と男弟と男王の正体は、僕以外に古代天皇家の正史を求められないから分からず、卑弥呼と台与の名前が長い呼び名を古代中国語読みに当てはめて、当てにならないことを実証している。
つまり属国の読み方の比定は、国名をそのまま古代中国語読みと日本語読みを想定しても当てにならず、凡人も専門家も条件を満たしていない段階で、一方的に決めつけていただけだった。
正しい認識力のない人間は、条件的なものも見逃してしまうどころか考えられなくて、アインシュタイン博士以上の天才の僕と相対(あいたい)することが無駄なのである。
史上最高の天才の僕とただの凡人レベルである専門家の勝負は、邪馬台国論争だけでなく古代日本史の認識力そのものに決定的な違いがあって、無意識にそれに気付いていた僕と同じ条件下にいられるわけもなく、分(ぶ)の悪い賭(か)けにすぎなかった。

最初の邪馬台国の属国は対馬国(対海国)で、漢字の通り長崎県の対馬(つしま)に当たって、対馬の国都がどこか専門家なら分からないが、超天才の僕なら対馬の北端付近と考えて、大昔から現在まで対馬が外国の領土だった事実がない。
『魏志倭人伝』は東が東北東で、南が南南東の方角が正しい時、正確な東西南北と北東と北西と南東と南西の8方向が記されず、帯方郡から女王国までのルートの方角全てに当てはまる鉄則である。
狗邪韓国(韓国の都市の金海(キメ)が国都)から海路で方角が記されず、南東に向かうと対馬の北端付近に着いて、鉄則から考えてこの辺りに対馬の国都を想定するのが自然である。
対馬から南で一大国(一支国)は、長崎県の壱岐島(いきしま)に当たって、南でなく南南東の方角が正しくて、国都が原の辻遺跡に当たるのが考古学的証拠から考えて間違いない。
ここまでは『魏志倭人伝』を馬鹿でも正しく解釈できて、次の国から考古学会と歴史学会の馬鹿な連中によって狂(くる)わされて、邪馬台国論争を混乱させる考古学会の最大の間違いを生み出した。

北九州にある4つの邪馬台国の属国は、300年近く前に新井白石が『魏志倭人伝』の国名を日本語読みして、北九州の地名に合致させて考古学会がこれを踏襲して、間違いなく正しい4ヶ国として考古学的証拠を提示するが、確実に間違っているのに認めようとしない。
僕は北九州4ヶ国(北九州の属国)の定説と名付けて、邪馬台国論争の最大の間違いで、方角と古代中国語読みの『魏志倭人伝』の国名を日本語読みして、根本的に勘違いでしかなかった。
僕は自論の北九州4ヶ国を定義付けて反論して、馬鹿な考古学会と歴史学会が認めようとせず、僕が最初の著書を出版した2007年9月の段階で決着してもおかしくなかったが、著書の真意に気付かない専門家によって封印された。
間違った北九州4ヶ国の定説は記さず、僕の自論の正しい北九州4ヶ国を述べていく。
壱岐島から海路で東に向かって福岡県に入って、東が正確な8方向だから鉄則で方角が記されず、『魏志倭人伝』の末盧国が古代地名の蓑生(みのふ)が正しくて、福岡県福津市西部に比定される。
末盧国から陸路で南東に行って『魏志倭人伝』の伊都国に着いて、伊都国の読み方を「いと」なら古代地名の位登(いと)が当てはまって、福岡県田川郡糸田町に比定されて、東南東の方角で鉄則に従っている。
考古学会の定説の糸島郡は、古代地名の怡土(いと)に当たるが、海に面していて陸路でなく海路の想定もできて、まして方角そのものも日本語読みすることも間違っている。
伊都国から陸路で南東に行って『魏志倭人伝』の奴国に着いて、古代地名の仲津(なかつ)に当たって、福岡県京都郡みやこ町中央に比定されて、東南東の方角で鉄則に従っている。
奴国から陸路で東に行って『魏志倭人伝』の不弥国に着いて、古代地名の筑城(ついき)に当たって、福岡県築上郡築上町北部に比定されて、東北東の方角で鉄則に従って、ここから瀬戸内海に出て『魏志倭人伝』の記述通り海路を使う。
『魏志倭人伝』の記述通りに北九州を行くと、福岡県を横断する僕の自論が間違いなく正しくて、考古学会の定説が陸路でなく海路も考えられて間違いが当たり前で、根本的に考え方がはるかに先進的だった。
『魏志倭人伝』の属国に九州の大きな国名が記されない理由は、僕の自論の4ヶ国が筑前(ちくぜん;古代の福岡県北西部)と豊前(ぶぜん;古代の福岡県東部と大分県北部)に属して、説明が難しくてややこしいためだと考えられて、この国名がないことで九州説の邁進(まいしん)を許すことになった。

『魏志倭人伝』の不弥国(福岡県築上郡築上町北部)から海路で南に行って投馬国に着いて、鉄則で海路を南南東に向かうと東寄りだから土佐(とさ;古代の高知県)が比定されて、景行(けいこう)天皇時代の四国の記事が見えないが、間違いなく正しいと考えられる。
『魏志倭人伝』の投馬国(高知県)から南に行って大阪府湾岸に着いて、陸路で東に向かって邪馬台国(大和国;古代天皇家)の王都の纏向(まきむく)遺跡(景行天皇の皇居の纏向日代宮;まきむくひしろのみや)に到着して、鉄則で方角が記されない。
海路で南とだけ記されることは、九州を南下して沖縄説などを生んだり、当時の日本地図を間違った見方をしたことで説明したが、正しく求めると海路に北と東を抜いて書かれて、それが邪馬台国の位置を把握不可能にして、全てを分かる僕なら簡単に説明できる。
邪馬台国(纏向遺跡)から東に向かって属国の女王国(伊勢;いせ:古代の三重県中部)は、伊勢神宮の斎王(太陽神に仕える未婚の皇女)を引退した王女の卑弥呼(倭姫命;やまとひめのみこと)がいる磯(いそ)神社(三重県伊勢市)に着いて、鉄則で方角が記されない。
邪馬台国(大和)の属国の女王国(伊勢)は、邪馬台国と女王国が同一国とする専門家がいて、『後漢書』と『魏志倭人伝』でしっかり区別されていても疑って、根本的に自分の解釈が正しいという思い上がりにすぎなかった。
邪馬台国時代の考古学的証拠と歴史書解釈の合致ができる僕は、出版していない3冊目の本に記した色々な理由が無能な専門家との違いで、根本的に超天才の僕と雑兵の専門家と相手になるわけもなく、認識力にあまりにも大きな差がある。

これ以降の属国の比定は、僕の最初の著書が色々修正していて一貫性がないけれど、ほぼ正しいと考えられる解釈であって、卑弥呼と台与の呼び方が当てにならないのと一緒で、古代中国語読みと日本語読みを想定すべきでない。
『魏志倭人伝』で次に斯馬国と已百支国と伊邪国と都支国と弥奴国と好古都国があって、志摩(しま;三重県東端)と尾張(おわり;愛知県西部)と三河(みかわ;愛知県東部)と飛騨(ひだ;岐阜県北部)と美濃(みの;岐阜県南部)と若狭(わかさ;福井県西部)に比定する。
女王国(伊勢)を東に行って斯馬国(志摩)に着いて、鉄則から方角が記されず、海を渡って中部地方の已百支国(尾張)に入ると考えられて、この解釈で間違っていると考えていない。
『魏志倭人伝』で次に不呼国と姐奴国と対蘇国と蘇奴国があって、近江(おうみ;滋賀県)と丹波(たには;京都府北中部)と但馬(たじま;兵庫県北部)と吉備(きび;岡山県と広島県東部)に比定する。
蘇奴国(吉備)より西の国名は、全て邪馬台国(古代天皇家)の敵対国で属国の出雲王国に属すると考えられて、出雲王国が遣魏使(魏王朝に遣使)の時代に古代天皇家に敵対していたか、管轄(かんかつ)外だったと考えられるために記されないのだろう。
『魏志倭人伝』で次に呼邑国と華奴蘇奴国と鬼国と為吾国と鬼奴国と邪馬国と躬臣国があって、播磨(はりま;兵庫県南部)と山城(やましろ;京都府南部)と紀伊(きい;和歌山県と三重県南部)と伊賀(いが;三重県西部)と河内(かわち;大阪府東部)と和泉(いずみ;大阪府南部)と摂津(せっつ;大阪府北部と兵庫県南東部)に比定する。
華奴蘇奴国は少なくとも4文字以上の国名で、山城(京都府南部)に当てはめるべきだと考えられて、ここまでの国名が全て古代天皇家の統治下にある国々で正しいと考えられる。
『魏志倭人伝』で次に巴利国と支惟国と烏奴国と奴国があって、淡路(あわじ;淡路島)と伊予(いよ;愛媛県)と讃岐(さぬき;香川県)と阿波(あわ;徳島県)に比定する。
斯馬国(志摩)から中部地方そして近畿地方の北部と南部を巡って、四国に入って投馬国(高知県)が除かれて、見事に正しい国名巡りで、これで邪馬台国の属国が終わりとなる。

邪馬台国時代の考古学的証拠と歴史書解釈の合致ができる僕は、日中の歴史書を完全解釈できる地上唯一の人間で、その僕の認識力を持ってすればこの通りである。
多くの研究者が邪馬台国の属国を比定するが、しょせん現代日本人レベルの邪馬台国時代やその地域だけを見た論理的根拠にすぎず、僕が求めた考古学的証拠と歴史書解釈の合致は、誰もできなくて想像にすぎないことを分かっていない。
僕以外の正しい認識力を持たない凡人と専門家は、邪馬台国論争と倭の五王の年代しか見なくて、空白の4世紀を全く説明できなくて、根本的な理解力の決定的格差が存在する。
長年に渡って日本人を悩(なや)ませた邪馬台国論争は、僕という人間を持ってして終わりを迎えて、新しい時代の幕開けとなる。

<参考文献>
『新訂 魏志倭人伝 他三篇―中国正史日本伝(1)―』
石原道博・編訳者 株式会社岩波書店・発行
『日本古代地名事典』
吉田茂樹・著者 新人物往来社・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
インターネット

戻る