僕の閃(ひらめ)きの超進化スピード
この超記録は、超天才の僕の閃(ひらめ)きが圧倒的な超進化スピードを見せて、理論的に理解させるための時系列順に纏(まと)めた史料で、僕自身が纏(まと)めた自分史でもある。
保育園と学生時代
僕が最初に古代に興味を持ったのは、一成(いっせい)保育園の年長組で、恐竜のポケット図鑑をもらった時で、当時のティラノサウルスやイグアノドンなどが人間の二足歩行の姿と同じだが、体重が重すぎて潰(つぶ)れるため、今のジュラシックパークなどの姿になって、これが僕の古代への憧(あこが)れになった。
隣の恐竜王国の福井県は、見に行ったことが一度もなくて、隣の兵庫県丹波(たんば)市で、日本最大の恐竜の丹波竜(たんばりゅう)や世界最小である恐竜の卵の化石などが出土して、京都府福知山市夜久野町(やくのちょう)のアンモナイトや3万6千年前の旧石器時代の遺跡である稚児野(ちごの)遺跡なども、現物を見たことがないが、小さい頃に福井県の三方五湖(みかたごこ)を見に行った。
僕が修斉(しゅうせい)小学校低学年で見たアニメ『聖闘士星矢(セイントセイヤ)』は、一成(いっせい)保育園の年長組の1986年10月11日に放送を開始して、小学校中学年に進級した時期の1989年4月1日に放送を終了して、星座の聖衣(クロス)を纏(まと)う内容などが好きで、僕が星座に興味を持った理由の一つで、僕が小学校中学年の理科の授業で、地学系の天文学や古生物学などに興味を持って、後に科学的な証明が大切と気付いて、この時期の夢が天文学者である。
この頃に僕は、宇宙や岩石などの図鑑を買って、恐竜の図鑑をこの時期に買ったか不明で、猿人のアウストラロピテクスなどを載せた図鑑が小学校高学年で、買った可能性もあるが、遺伝的にネアンデルタール人が現代人(ホモ・サピエンス)の先祖でないと証明したのを1997年7月1日の新聞で知って、当時の僕が大きな衝撃を受けて、後年にネアンデルタール人の遺伝子が現代人(ホモ・サピエンス)に受け継がれると証明したと言う。
小学校高学年で僕は、歴史の授業から、古代日本史(古代天皇家の歴史)に興味を持って、縄文時代から古墳時代や邪馬台国(やまたいこく)論争が特に好きで、伯母(おば;父の実姉)から、縄文土器などの土器を貰(もら)ったり、古墳や邪馬台国(やまたいこく)論争の新聞記事などを切り抜いたり、考古学の図鑑を買ったりして、この時期に僕の考え方(認識力や判断力や分析力など)が凡人(僕以外の人間)レベルで、23年以上の歴史研究で、全ての能力や考え方や経験値などの決定的な大差を形成して、その大差をこの章で詳述した。
当時の僕は、小学校中学年の理科の授業で、科学的な証明が大切と気付かず、小学校高学年の歴史の授業で、考古学(遺跡・遺物)の言葉を知っても、科学的に歴史を証明する大切さを理解せず、2002年10月頃に歴史研究を始めてから、物証(科学的な証拠)で、歴史を証明する重要性の意味・価値を少しずつ意識し始めて、現在の非常に大切な僕の基礎理論である。
小学校高学年の歴史の授業は、修斉(しゅうせい)小学校の視聴覚室に外部から、講師を招(まね)いて、1986年(昭和61年)に京都府福知山市東羽合町(ひがしはごうちょう)の4世紀後半の広峯(ひろみね)15号墳から出土した「景初(けいしょ)4年(西暦240年)」の年号が入った三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)を含(ふく)めた講義をして、邪馬台国(やまたいこく)論争への興味につながって、この時期の夢が考古学者である。
京都府福知山市の広峯(ひろみね)15号墳出土の三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)の景初(けいしょ)4年(西暦240年)鏡は、斜円盤龍鏡(しゃえんばんりゅうきょう)に分類して、三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)と斜円盤龍鏡(しゃえんばんりゅうきょう)をネット検索せず、古代中国の魏(ぎ)王朝が景初(けいしょ)3年(西暦239年)で終わって、翌年が正始(せいし)元年(西暦240年)で、景初(けいしょ)4年(西暦240年)鏡が議論の対象で、三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)が女王と勘違いする卑弥呼(ひみこ)の鏡でない。
三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)を受け取った卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)の男弟(だんてい;異母弟)である景行(けいこう)天皇は、景行(けいこう)天皇元年から60年(西暦191年から250年)の干支(えと)の年一周期を在位して、干支(えと)の年月一周期を読む意味の月読尊(つくよみのみこと)に神格化して、異母姉の天照大神(あまてらすおおみかみ;倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)が一生独身で、父方の太陽神の男系男子天皇を否定して、現在の僕の基礎理論である。
僕の小学校中学年の夢は、天文学者で、高学年の夢が考古学者(遺跡・遺物)で、2002年10月頃に古代日本史(古代天皇家の歴史)研究を始めて、歴史学(歴史書解釈)を深く理解して、いつ頃からか歴史家を自称して、歴史学者でなく、歴史家と名乗る方が気に入って、考古学者と畑違いでも、専門家(考古学者と歴史学者と歴史家)をも超越した夢を叶えた。
古代中国の故事の「矛盾(むじゅん)」は、どんな盾(たて)も貫(つらぬ)く最強の矛(ほこ)と、どんな矛(ほこ)も防御する最強の盾(たて)がぶつかると、お互(たが)いが潰(つぶ)れて、2つの物事が食い違って、辻褄(つじつま)が合わない理論的に成立しない考え方で、英語で「コントラダクション(Contradiction)」と言う。
僕は「矛盾(むじゅん)」を修斉(しゅうせい)小学校高学年か、成和(せいわ)中学校で勉強して、中学生で自己嫌悪(けんお)や自己不振を抱(いだ)いて、自分を批判する自己矛盾(むじゅん)を生み出して、「矛盾(むじゅん)」が自分の常識(当たり前)になって、僕の考え方の基礎理論で、根本的な考え方(学問の基礎理論や新聞などの情報も含(ふく)む)を徹底的に分析・研究するために進化させた。
超古代文明の本『神々の指紋(上)(下)』の発売日は、1996年(平成8年)2月1日で、成和(せいわ)中学校を卒業した1996年3月までに買ったはずで、僕が超常的(非常識的)な分野…超古代文明やUFOや未確認生物や幽霊などに興味を持って、後に歴史研究を始めて、古代信仰(古神道)の河川や岩石や山などを祭ること、漢字以前の時代の古代文字とされる神代(しんだい)文字などを理解する「きっかけ」になった。
大江(おおえ)高校2年生の修学旅行3日目の1997年11月8日は、長崎市の自由行動の時間に一緒に暮らす祖父の死に目に会えず、虫の知らせか落ち着かなくて、祖父が亡くなった可能性に気付かないで、その後に家族にも言わずに塞(ふさ)ぎ込んで、命・魂・精神の分野を考えて、神道やキリスト教などの宗教観の理解、後に戦争・平和の分野も追加して、第二次世界大戦(太平洋戦争)の日本人の償(つぐな)いなど、大きく考える下地になって、人間的に大きく成長したが、自殺願望を生み出す「きっかけ」にもなった。
成和(せいわ)中学校でパソコン部に所属した僕は、高校でパソコンを勉強したいと考えて、地元の京都府福知山市の高校受験で、京都府立工業高校(石原校;いさこう)を受験して、予備の大江高校ソフト経済科に合格して、京都市西京区の京都経済短期大学の大学受験で、大江高校の成績が基準値で、受験の面接がグダグダでも合格して、京都経済短大のパソコン関係や経済関係を勉強して、1年の留年後に大学卒業して、約半年後の2002年10月頃の歴史研究を始めて、2010年6月頃から、3冊目の歴史研究の本をパソコン入力し始めて、15年以上もパソコン入力を続けた。
2025年12月24日にもみじヶ丘病院を退院した僕は、3日以内に400ページ以上の『古代天皇家の歴史』の章を分裂させて、300ページ以上の『古代天皇家の歴史』の章と、105ページ以上の新しい『日本神話や中韓との断交理由』の章を作成して、2026年2月3日の午後6時頃から6時45分頃まで、300ページ以上の『古代天皇家の歴史』の章を7分割して、『古代天皇家の…天皇時代の歴史』などのファイル名に変更して、パソコン入力の速度が遅いが、2002年10月頃の歴史研究の始まりから、ノートパソコンで論文を書き続けた。
保育園の年長組は、恐竜のポケット図鑑をもらって、古代に興味を持って、小学校中学年で、天文学に興味を持って、後に科学的な証明が大切と気付いて、小学校高学年で、考古学(遺跡・遺物)に興味を持って、後に物証(科学的な証拠)が大切と気付いて、中学生で矛盾(むじゅん)が大切と気付いて、理論的な考え方の賛否両論を考えるように進化して、中学生で超古代文明の本を買って、古代信仰(古神道)や神代(しんだい)文字の理解につながって、高校の修学旅行中で、死に目に会えなかった一緒に暮らす祖父の死で、命・魂・精神・戦争・平和の分野を考え始めて、これらが古代日本史(古代天皇家の歴史)研究の考え方の基礎理論を形成した。
人類史上唯一の超天才の僕は、「古代日本史(古代天皇家の歴史)の父」と自称(本当か嘘(うそ)か別にして、自分で名乗ること)して、日本神話と邪馬台国(やまたいこく;大和国:やまとこく)論争と倭(わ;「古代日本」の意味)の五王を唯一正しく理解して、凡人(僕以外の全(すべ)ての人間)レベルの専門家(考古学会と歴史学会)が遺跡・遺物と歴史書解釈を合致するため、何千人や何万人以上でも、良くておそらく数個ほどで、僕が数十個から数百個以上も、簡単に合致する理由を理論説明して、考え方や認識力や判断力や分析力などが神をも超越したレベルである。
2026年2月18日の午前7時42分頃に台所で僕は、自分の超感性が生まれた理由が人生経験6つと歴史研究の基礎理論(基本的な僕の考え方)4つの合計10個と気付いて、すぐ後に「歴史研究の10大要素(10大要点)」と名付けて、人生経験6つが保育園年長組から高校2年生(恐竜や地学(天文学や地質学など)や考古学や矛盾(むじゅん)や超古代文明や祖父の死に目に会えなかったこと)までで、歴史研究の基礎理論4つが神話化や神格化・祖先化・子孫化や『日本書記』の神名と人名の末名「尊(みこと)」と「命(みこと)」の書き違いや即位年干支法(そくいねんかんしほう)が全部である。
僕の総合的な超能力(霊感や瞬間移動などでなく、僕本人の考え方や認識力などを指す)の多くは、自分で知識や経験や努力などを頑張り続けて、無意識の考え方を意識的にして、必死に体得・蓄積・改良した結果で、何も知らない馬鹿が知らない異次元の超大偉業で、「歴史研究の10大要素(10大要点)」や、僕の総合的な超能力が生まれた理由を凡人(僕以外の全(すべ)ての人間)も、マネして超越できる可能性を示(しめ)したが、幾ら努力しても、超越した僕レベルになれない。
2002年
おそらく2002年9月中旬頃から10月上旬頃(僕の記憶による逆算の年月予測)に僕は、参考文献『BooksEsoterica第22号 天皇の本 日本の霊的根源と封印の秘史(ひし;秘密の歴史)を探(さぐ)る』(発行・株式会社学習研究)か、『BooksEsoterica第2号 神道の本 八百万の神々がつどう秘教的祭祀の世界』(発行・株式会社学習研究)のどちらかを買って、参考文献2冊の再発行時期の記録がどちらも合致して、僕の歴史研究の始まりである物部(もののべ)神道の鎮魂(みたましずめ)と振魂(みたまふり)が超重要でもある。
物部(もののべ)神道の霊魂(れいこん)関係(鎮魂(みたましずめ)と振魂(みたまふり)の2つ)に僕が興味を持つことは、公式(こうしき;個人的な物でなく、国や社会などの大きな場所で、決められた考え方や形式を基本にして、物事を実行すること)な歴史研究の始まりを意味する。
その後にアダルトゲーム(美少女ゲーム)の『神語(かんがたり)』をプレイした僕は、双璧(そうへき)の軍神(戦神;いくさがみ)の経津主神(ふつぬしのかみ)と武甕槌神(たけみかづちのかみ)と神刀の布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)などにも、強い興味を持って、物部(もののべ)神道の鎮魂(みたましずめ)と振魂(みたまふり)と一緒で、総合した全(すべ)てが出雲王家(物部氏)つながりで、これが日本神話に深く興味を持った理由で、自分に無い強さ(武力)に憧(あこが)れた。
その後のおそらく2002年10月下旬頃(おそらく正しい僕の記憶)に僕は、TSUTAYA AVIX福知山店で、参考文献『日本書紀(上)(下)全現代語訳―全二巻―』(著者・宇治谷孟 発行・株式会社講談社)と『古事記(上)(中)(下)―全三巻―』(著者・次田真幸 発行・株式会社講談社)を買ったのが正式(規則や慣例や権威など手続きでなく、公式(国や社会などが決めた考え方や形式を基本的な物事で、公式と正式な歴史研究の開始が僕個人の認識で、他人(僕以外の人間)に意見を求めない)な歴史研究の開始である。
TSUTAYA AVIX福知山店の防犯カメラの映像は、残っていれば僕の正式な歴史研究の開始日を特定できて、僕が「記紀(『古事記』と『日本書紀』)」の現代語訳本を買った日が垂仁(すいにん)天皇26年9月16日(西暦177年10月中旬頃)の伊勢神宮内宮の最終遷宮日と合致するか不明である。
去年2025年12月24日(水曜日のクリスマスイブ)にもみじヶ丘病院を退院した僕は、その後の超加速・超進化する最近の超忙(いそが)しい歴史研究の史料整理で、今年2026年2月5日頃に公式と正式な歴史研究の開始が自己認識の違いと手書き論文に記して、その手書き論文を処分した。
僕は数日間で「記紀」の現代語訳本を流し読みして、おそらく2002年11月上旬頃(おそらく正しい僕の記憶)に『日本書紀』の伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の黄泉国下(よみのくにくだ)り神話と『古事記』の狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱が合致して、合致を確実に数日間で特定して、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が黄泉平坂(よもつひらさか)を登り逃げる所と、狭穂姫(さほひめ)が誉津別命(ほむつわけのみこと)を兵士に渡して、稲(いね)の城(しろ)の稲城(いなき)に入る所が合致すると気付いた。
この神話と史実(歴史上の事実)の合致は、伊弉冉尊(いざなみのみこと;狭穂姫(さほひめ)を神格化)が抱(だ)いた火夜子(ひよるこ;誉津別命(ほむつわけのみこと)を神格化)を受け取った兵士(醜女(しこめ)8人)が伊弉冉尊(いざなみのみこと)も捕らえようとすると、伊弉冉尊(いざなみのみこと)に逃げられて、兵士(醜女(しこめ)8人)が再び追って来た様子を神話化して、黄泉醜女(よもつしこめ)8人が八雷神(やくさいかずちのかみ)に変化したことも超重要である。
僕が気付いた共通性は、実話(現実に起きた出来事)を神話化したのが日本神話の可能性に気付いて、数日間での特定が絶対に間違いなくて、日本神話と古代天皇家の歴史の面白さが歴史研究に打ち込む「きっかけ」で、神話化と神格化の特定が現在の僕の基礎理論(僕の基本的な考え方)が成立した瞬間で、天皇家(皇室)の歴史の中で、最も重要な出来事で、後世まで語(かた)り継(つ)ぐ伝説の誕生で、言葉にできない僕が心惹(こころひ)かれる何らかの魅力(みりょく;人の心を引(ひ)き付(つ)けて、夢中(むちゅう)にさせる力のこと)を日本神話に感じた理由である。
黄泉国下(よみのくにくだ)り神話の神格化は、伊弉諾尊(いざなぎのみこと;垂仁(すいにん)天皇を神格化)と伊弉冉尊(いざなみのみこと;狭穂姫(さほひめ)を神格化)と息子(実兄)の軻遇突智(かぐつち;狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)を特定して、息子の火夜子(ひよるこ;誉津別命(ほむつわけのみこと)を神格化)を特定できず、当時の僕の超感性が凄(すご)すぎて、この特定が人類史上初(はじ)めての大偉業である。
この超感覚(超頭脳)は、僕が神の国・・・日本に生まれて、幼少から日本神話などを学んで、神道の神社や仏教の寺を参拝して、キリスト教のクリスマスを祝(いわ)って、上記に記した幼少から高校生までの人生経験が下地で、生み出された感性で、祖父の死で生まれた精神障害の統合失調症・・・自殺願望でなく、隠れた障害の発達障害や学習障害の類(たぐい)を疑うが、天性(生まれた時から持つ才能)でなく、元々の後天性(僕が成長して、人生経験で体得した才能)の才能が大きい。
死者の世界(地獄)の黄泉国下(よみのくにくだ)り神話は、2007年9月に出版した僕の最初の著書で、日本神話から京都の民話『山姥(やまんば)と馬吉』に民間伝承に変化したと記すが、他に誰も指摘していないと考えられる。
2002年12月頃に僕は、2世紀中頃の邪馬台国(大和国;やまとこく)論争の倭国大乱(わこくたいらん)が狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱で、黄泉国下(よみのくに)り神話に神話化した可能性を疑って、12月から翌年2003年1月頃まで大量の歴史書を買って、今の歴史書が合計100冊以上の合計30万円以上である。
僕が買った一番高価な本は、おそらく2012年か2014年に購入した消費税抜きの3万円した参考文献『完訳秀真伝 上巻下巻』(編著者・鳥居礼 発行・八幡書店)が、八幡書店に直接電話して購入して、その本の現代日本語訳を僕が完全解釈して、僕の仮(かり)タイトル(題名)ノートの『ホツマツタエ解釈1〜3』を作成して、『ホツマツタエ解釈2と3』のノートが何者かの犯人に盗(ぬす)まれたと考えられて、定価3万円で購入額2万7498円の参考文献『竹内文書・但馬故事記』(著者・亜郷清彦 発行・�叶V国民社)の2冊である。
2003年
2003年1月頃に僕の直感は、日本神話と倭国大乱(わこくたいらん)を合致させて、『日本書紀』の黄泉国下(よみのくにくだ)り神話と『古事記』の狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱が合致するなら、2世紀中頃の伊弉諾尊(いざなぎのみこと;垂仁(すいにん)天皇を神格化)時代で、天照大神(あまてらすおおみかみ;倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)と月読尊(つくよみのみこと;景行(けいこう)天皇を神格化)が3世紀前半に実在で、素戔嗚尊(すさのおのみこと)が誰を神格化したか分からず、僕が何となく結論付けた。
この奇跡の合致は、日本神話の黄泉国下(よみのくにくだ)り神話と邪馬台国(大和国;やまとこく)論争の倭国大乱(わこくたいらん;皇位継承権争いの狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱)の合致で、父親の伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と娘と息子(姉弟)の天照大神(あまてらすおおみかみ)と月読尊(つくよみのみこ)が誰を神格化したか確信して、現在の僕の基礎理論(僕の基本的な考え方)が固定して、圧倒的な理論展開(超理論)の「きっかけ」である。
しかし女王国の卑弥呼(ひみこ)と邪馬台国(やまたいこく)の男弟(だんてい)の姉弟関係は、「記紀(『古事記』と『日本書紀』)」の景行(けいこう)天皇と実妹の倭姫命(やまとひめのみこと)の兄妹関係と逆(ぎゃく)で、2004年2月上旬から下旬に購入した参考文献『ホツマ辞典』との出会いを待(ま)つ必要があった。
2003年2月頃に僕は、邪馬台国(やまたいこく)論争を試行錯誤して、国生み神話が古代天皇家の勢力拡大の領土を示す可能性、2世紀中頃が垂仁(すいにん)天皇時代で、景行(けいこう)天皇時代が3世紀前半なら、崇神(すじん)天皇の非実在説があり得る可能性、天皇家の起源が衰退時期の後漢(ごかん)王朝とする説など、色々な考え方を巡(めぐ)らせて、僕の考え方が発展途上中だった。
この発展途上中は、歴史研究を初めたばかりのドシロウト(ド素人)で、幾ら人類史上初(はじ)めての神格化と神話化を理論的に証明した超天才の僕でも、僕の基礎理論(僕の基本的な考え方)が4つ(神格化・祖先化・子孫化と神話化と『日本書紀』の神名や人名の末名の「尊(みこと)」と「命(みこと)」と即位年干支法;そくいねんかんしほう)完成してない段階で、絶対に特定不可能な考え方だった。
しかし現在の僕は、ある日や時に突然に天啓(てんけい;天(てん)の啓示:けいじ)のように急に頭の中で、閃(ひらめ)いて思い浮(う)かぶ考え方を示(しめ)して、どんな人間でもそれが普通で、それを責(せ)められる人がいなくて、現実を正しく見る必要がある。
2003年3月頃に僕は、『日本書紀』の神名と人名の末名(まつめい)の「尊(みこと)」と「命(みこと)」の書き違いを特定して、神名の「尊(みこと)」が歴代の天皇皇后と重要人物を神格化して、人名の「尊(みこと)」が歴代天皇と国政執行した人物だけで、「命(みこと)」が一般人クラスの神様と人物に記して、景行(けいこう)天皇の息子の成務(せいむ)天皇の稚足彦尊(わかたりひこのみこと)と日本武尊(やまとたけのみこと)を同一人物と疑(うたが)って、僕の直感が正しいと証明して、これが人類史上で、初(はじ)めての特定である。
尊名(そんめい;他人を尊敬する人名)や尊称(そんしょう;他人を尊敬する名称)の「尊(みこと)」は、使用した実例を2002年10月頃に歴史研究を始めてから、約5ヶ月後に判明して、現在の僕の基礎理論(僕の基本的な考え方)で、その後の歴史研究中に僕が『先代旧事本紀(せんだいくじほんき)』の神様の饒速日尊(にぎはやひのみこと)も、神名の末名の「尊(みこと)」と「命(みこと)」の漢字の書き違いが『日本書紀』と共通して、饒速日尊(にぎはやひのみこと)が物部(もののべ)氏3人を神格化して、1神に統合したのを特定した時期が分からないが、僕の超知識の凄(すさ)まじさを物語る。
後に僕は、男性の古代太陽神の天照神(あまてるかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)が天照玉神(あまてるたまのかみ)や天照御魂神(あまてるみたまのかみ)や天照国照命(あまてるくにてるのみこと)や天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかりのみこと)や天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)などの別名があって、尊名(そんめい;他人を尊敬する人名)の「尊(みこと)」が出雲王家(物部(もののべ)氏)の一番最初の祖先神だからと特定した。
2003年4月頃に僕は、欠史(けっし)八代の後半4世代が祖先化されたと特定して、孝安(こうあん)天皇から開化(かいか)天皇の4世代が崇神(すじん)天皇から日本武尊(やまとたけのみこと)の4世代を祖先化して、実在した4世代を先祖の系図に組み込んで、繋(つな)がらない先祖と子孫の系図をワザと繋(つな)いで、実在しない作られた系図が生まれたと求めて、祖先化と子孫化の方法が判明した。
和珥(わに)氏の一番最初の先祖は、天足彦国押人命(あまたりひこくにおしひとのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を祖先化)で、その実弟が孝安(こうあん)天皇(崇神(すじん)天皇を祖先化)で、太陽神の大物主神(おおものぬしのかみ)の妻が倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと;倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)で、北陸平定の総大将が大彦命(おおびこのみこと;武虎別皇子(たけこわけのみこ)を祖先化)で、その息子が東海平定の武将の武渟川別(たけぬなかわわけ)と特定して、ここまでなら凡人(僕以外の人間)でも、特定できる可能性があるが、西暦年との対比ができなくて、誰(だれ)もが諦(あきら)める現実の壁(かべ)があった。
2002年11月頃に神話化と神格化を特定した超天才の僕は、2003年4月頃に系図の祖先化を特定して、ここまでなら凡人(僕以外の人間)でも、特定できる可能性があるが、西暦年との対比ができなくて、誰(だれ)もが諦(あきら)める現実の壁(かべ)があるが、2003年8月頃に『日本書紀』の干支(えと)の年である即位年干支法(そくいねんかんしほう)を一から作(つく)って、西暦年と対比して、壁(かべ)を破(やぶ)って、不可能を可能にする奇跡の神技(かみわざ)を起こして、人類史上で初(はじ)めての大偉業を起こして、今日(こんにち)の僕の功績が生まれた。
2003年5月頃に僕は、僕が歴史研究を始めて約半年で、邪馬台国(大和国;やまとこく)論争を徹底的に研究して、1ヶ月ほどで成立した神技(かみわざ)で、2007年9月に出版した僕の最初の著書で、僕の自論を公表したが、当時の専門家(考古学会と歴史学会)が全く理解できない超知識で、人類史上で初(はじ)めての大偉業で、超短時間の複数の大発見でもある。
専門家(考古学会と歴史学会)の北九州4ヶ国(北九州の属国)の定説は、属国に対比する古代地名を古代中国語でなく、現代日本語読みで当てはめて、末廬国(まつろこく)から不弥国(ふみこく)の4ヶ国を方角も対比地名も滅茶苦茶で、僕の自論の4ヶ国が方角も対比地名も見事に合致した。
崇神(すじん)天皇時代の四道(しどう)将軍の平定は、丹波(たんば;古代の京都府北中部)と吉備(きび;岡山県と広島県東部)と東海と北陸の平定で、四道(しどう)将軍の実在年代がバラバラで、一年で奈良県から東北地方南部まで往復して、理論的に考えておかしくて、僕の自論の詳細を省(はぶ)くが、別々の時代の将軍を崇神(すじん)天皇時代にまとめて、4地方を統一した平定の物語を作って、別の天皇時代にそれぞれが平定された。
「記紀」の皇族は、卑弥呼(ひみこ)が倭姫命(やまとひめのみこと)で、卑弥呼(ひみこ)の男弟(だんてい)が倭姫命(やまとひめのみこと)の実兄の景行(けいこう)天皇で、兄妹関係に疑問を抱いて、後に実兄を異母弟に訂正して、男王(だんおう)が日本武尊(やまとたけのみこと)で、台与(とよ)が神功(じんぐう)皇后と特定して、圧倒的な奇跡だった。
『私という存在』の記録は、垂仁(すいにん)天皇陵(垂仁(すいにん)天皇古墳)の纏向(まきむく)石塚古墳を特定できず、垂仁(すいにん)天皇か景行(けいこう)天皇の皇居を都市遺跡の纏向(まきむく)遺跡で、景行(けいこう)天皇陵(景行(けいこう)天皇古墳)を箸墓(はしはか)古墳に断定したようだが、十分な自信がなかった。
垂仁(すいにん)天皇32年(西暦183年)の埴輪(はにわ)と田道間守(たじまもり;祖別命(みおやわけのみこと)を祖先化)などは、邪馬台国(大和国;やまとこく)論争と考古学が合致して、「記紀」と『三国志・魏志倭人伝』の時期が合致するはずと考えて、僕の自論に自信を持ち始めた。
2003年6月頃に僕は、邪馬台国(大和国;やまとこく)論争の登場人物を皇族と特定して、1ヶ月以上かけて、倭(わ)の五王の定説が僕の比定した皇族と年代的にずれると判明して、5人の倭王(わおう)の人名を古代中国語読みで考えて、歴代天皇の国風諡号(しごう)も古代中国語読みを仮定して、僕の自論を作成して、見事に定説を打破した。
2003年7月頃に僕は、『古事記』の干支(えと)の年である崩年干支(ほうねんかんし)が西暦年と対比すると気付いて、歴代天皇時代に飛(と)び飛(と)びに記して、参考にならないと気付いたが、『日本書紀』の干支(えと)の年である即位年の干支年(かんしねん)に気付いて、歴代天皇全員の即位年の干支年(かんしねん)を記して、西暦年を特定できる可能性を直感(直観;ちょっかん)した。
2003年7月から8月頃に僕は、自分の考え方が異常で、地動説のコペルニクスやガリレオや進化論のダーウィンや相対性理論のアインシュタイン博士と同じコペルニクス的転回(非常識な考え方の集合体)と同類の考え方で、後に哲学を学んで、コペルニクス的転回を現代哲学理論「現象学」で説明して、コペルニクス的転回を再定義して、僕の歴史研究の超成長スピードがあまりにも異常で、僕の超頭脳が目覚ましく発展して、僕が専門家(考古学会と歴史学会)と全く違う超天才と気付き始めて、僕が歴史研究に自信を付け始めたが、自分の超成長に不安を感じ始めた時期でもある。
2003年8月頃に僕は、『日本書紀』の即位年の干支年(かんしねん)を西暦年に当てはめる方法を即位年干支(そくいねんかんし)と自称して、系図の神格化や祖先化などと対比して、日本の建国年(天皇家誕生)の西暦84年から、神功皇后の死去年の西暦329年までを確信して、西暦84年が弥生時代後期初頭の初年(しょねん;始(はじ)まりの年)で、10年後の西暦94年が丹波(たんば;古代の京都府北中部)平定の年で、京都府の弥生時代後期の鉄製品急増が古代天皇家の統治下のためなどで、大和(やまと;奈良県)と丹波(たんば)が協力関係にあったと考えた。
即位年干支(そくいねんかんし)は、後に呼び方を即位年干支法(そくいねんかんしほう)に改(あらた)めて、天日槍(あめのひぼこ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の子孫が西暦188年で合致して、神功(じんぐう)皇后の摂政(せっしょう)39年が古代中国の魏(ぎ)王朝遣使(けんし;遣魏使:けんぎし)の西暦239年と合致して、摂政66年が西暦266年と合致するなど、世界でただ一人の僕だけが『日本書紀』で、西暦年が使用された確信に気付いて、歴代天皇時代の西暦年の特定がバラバラで、確信したのがいつ頃か分からない。
おそらく2003年中に僕は、『日本書紀』の仲哀天皇3年2月1日(西暦254年3月上旬頃)の国造(くにみやつこ;国主)の選定と仲哀天皇4年9月(西暦255年10月頃)の国造(くにみやつこ;国主)の任命を求めたが、2024年6月7日の午後9時頃に仲哀天皇4年2月1日(西暦255年3月上旬頃)と仲哀天皇5年9月(西暦256年10月頃)に修正して、たぶん20年以上たって判明したと思われる。
2003年9月頃に僕は、おそらく参考文献『アマテラスの誕生』(著者・筑紫申真 発行・株式会社講談社)を買って読んで、女性の太陽神の天照大神(あまてらすおおみかみ)でなく、天照大神(あまてらすおおみかみ)が男性や蛇体(じゃたい)の太陽神の記述を知って、男性の太陽神の天照神(あまてるかみ)も知って、伊勢神宮横の五十鈴川(いすずがわ)の流(なが)れを神格化した蛇神の滝祭神(たきまつりのかみ)も知って、関連性を再調査する中で、古代太陽神が存在した可能性に気付いた。
男性や蛇体(じゃたい)の太陽神の天照大神(あまてらすおおみかみ)は、男性の太陽神の天照神(あまてるかみ)を連想(れんそう)させて、その僕の直感(直観;ちょっかん)が後の僕の基礎理論(僕の基本的な考え方)になって、現在の凡人(僕以外の人間)が絶対に考えられない超天才の僕の理論発展(超理論)を作(つく)り出して、その地道な努力の結果を簡単に笑(わら)うことなど、神様や仏様や専門家(考古学会と歴史学会)などを冒涜(ぼうとく)する恥知(はじし)らずである。
2003年10月頃に僕は、地元の京都府福知山市大江町の元伊勢内宮を参拝(さんぱい)して、天照大神(あまてらすおおみかみ)を祭る本殿(ほんでん)から見て、太陽の昇(のぼ)る方角の東に八岐大蛇(やまたのおろち)を祭る天龍(てんりゅう)・八岐龍(やまたのりゅう)神社の祠(ほこら;神様を祭るための小規模な建物;小社(しょうしゃ;ちいさな神社)と意味が違う)があると気付いて、八岐大蛇(やまたのおろち)が太陽神の可能性に気付いて、これだけの関連性が僕に偶然・必然の大発見を促(うなが)した。
邪神(じゃしん)の八岐大蛇(やまたのおろち)を退治(たいじ)した英雄(えいゆう)の素戔嗚尊(すさのおのみこと)は、逆転して邪神(じゃしん)の素戔嗚尊(すさのおのみこと)が古代天皇家の尊敬(そんけい)する古代太陽神の八岐大蛇(やまたのおろち)を殺したと気付いて、素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)が皇位継承権争い(男王(だんおう)の反乱)を起こした国賊(こくぞく)の可能性に気付き始めた「きっかけ」である。
最初の『私という存在』のノートで、2004年9月16日の記述からは、2004年4月25日(日)に『ホツマ辞典』を参考にして、6代目タカミムスビと息子の7代目タカミムスビと娘タクハタチチヒメと弟フトダマの正体を特定した前後関係の記述から、それ以前に素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)の皇位継承権争い(男王(だんおう)の反乱)の時期が日本武(やまとたけ)天皇(成務(せいむ)天皇)元年(西暦251年)と特定したと考えられる。
この頃から僕の凄(すご)すぎた超感性は、男性と蛇体(じゃたい)の古代太陽神に興味を待って、天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと;崇神(すじん)天皇を神格化)から火火出見尊(ほほでみのみこと;仁徳(にんとく)天皇を神格化)までの神様の血筋をほぼ特定して、『私という存在』のノートなどを見て、当時の僕本人の凄(すご)すぎる実力を知ってほしい。
2003年11月頃に僕は、後漢王朝時代の銅鏡で、神宝の辺津鏡(へつかがみ)や沖津鏡(おきつかがみ)と東大寺山(古墳出土)鉄刀が後漢王朝から下賜(かし)されて、彦坐王(ひこいますのみこ)を始祖(しそ;始まりの先祖)とする古代太陽神氏族の和珥(わに)氏がもらったと判明して、僕の直感が凄(すご)すぎる。
2003年11月から12月頃に僕は、男性と蛇体の古代太陽神が存在すると確信して、古史古伝(こしこでん;「記紀」に反する書物)に古代太陽神の記述が多くあると注目して、『先代旧事本紀』の古代太陽神の饒速日尊(にぎはやひのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)を詳細に調べ始めて、『ホツマツタエ』や『竹内文書(たけのうちもんじょ)』などにも、興味を持ち始めた。
僕は12月頃に『先代旧事本紀』の『国造本紀』を重視して、東北地方南部から関東地方の古墳埋葬者を特定して、福島県会津盆地の前方後円墳の杵ヶ森(きねがもり)古墳と千葉県市原市の前方後円墳の神門(ごうど)古墳群も、古墳埋葬者を特定した。
2003年12月頃から翌年2004年1月頃に僕は、『倭姫命世紀(やまとひめのみことせいき)』に注目して、近畿地方を中心とする元伊勢、古代信仰の岩や川などを崇(あが)めること、御神体山をピラミッドとする可能性など、超古代文明的な要素に近づいて、『ホツマツタエ』に一歩近づいた。
2004年
2004年1月頃に僕は、古代太陽神氏族の和珥(わに)氏を求めて、伊勢神宮宮司家の度会(わたらい)氏、京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社宮司家の海部(あまべ)氏、古代豪族で武家の物部(もののべ)氏、岐阜県の太陽信仰を崇(あが)めた彦坐王(ひこいますのみこ)の息子の神大根王(かみおおねのみこ)などを調べて、後に共通性を証明した。
2004年2月の上旬か中旬に僕は、ジャスコ(イオン)の当時の書店名が不明で、参考文献『ホツマ辞典』を買って、『ホツマツタエ』で、ヤマトヒメの異母弟が景行(けいこう)天皇と知って、卑弥呼(ひみこ;ヤマトヒメ)の男弟(だんてい;異母弟)の景行(けいこう)天皇が正しい血筋と判明して、『記紀』で景行(けいこう)天皇の実妹の倭姫命(やまとひめのみこと)が完全な偽装工作で、邪馬台国(大和国;やまとこく)論争がチェックメイトした。
『ホツマツタエ』は、漢字以前の時代の古代文字である神代(しんだい)文字で書かれたと信じて、「記紀」よりも古い日本最古の歴史書の可能性に気付いて、僕が超古代文明的な書物と考えて、後に最重要の歴史書になると知る由(よし)もなかった。
2004年5月8日の午後2時から3時頃の約一時間を僕は、京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社の故海部光彦(あまべみつひこ)宮司と対談して、僕の歴史研究を家族以外で、始めて話した人で、まだ海部(あまべ)氏が彦坐王(ひこいますのみこ)の子孫と特定できず、アインシュタイン博士があまり知られない哲学者で、僕の話に哲学的な要素があって、哲学の勉強を僕に勧(すす)められた。
僕は最初の著書で、彦坐王(ひこいますのみこ)の息子が丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)で、初代・火明命(ほあかりのみこと)が彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化して、2代目・火明命(ほあかりのみこと)が丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)を神格化したと求めたが、2代目・火明命(ほあかりのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)が海部(あまべ)氏の祖先神で、僕の考え方が発展途上中だった。
2004年5月25日に僕は、参考文献『ホツマ辞典』を読んで、6代目タカミムスビ(景行(けいこう)天皇を神格化)の息子が7代目タカミムスビ(武虎別皇子(たけこわけのみこ)を神格化)で、その娘がタクハタチチヒメ(神功(じんぐう)皇后を神格化)で、タクハタチチヒメの弟(実弟か異母弟か不明)がフトタマ(武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)で、伯父(おじ;タクハタチチヒメの父の弟)がスクナヒコナ(少彦男心命(すくなひこおこころのみこと)を神格化)と特定して、当時の『私という存在』のノートに詳述した。
当時の僕は、武虎別皇子(たけこわけのみこ)が物部(もののべ)氏の血筋の阿部(あべ)氏出身と理解して、後に特定した母方(母系)のアマテラス(神功(じんぐう)皇后を神格化)につながって、母方(母系)のアマテラスが現在の天皇家(皇室)につながる女系男子天皇を証明して、女系天皇や女性天皇や女性宮家の女性皇族問題を解決する「きっかけ」で、この特定が歴史研究の大発見を僕本人が初(はじ)めて記録した日である。
『基礎編…(題名が長いので省略する)』のノートは、2004年7月8日から8月10日まで手書きで記して、ノートの前半部分が出版社の株式会社オカムラに採用されず、ノートの後半部分が古代中国の歴史書の『後漢書』と『三国志・魏志倭人伝』と『宋書』を僕が現代日本語訳した史料で、最初の著書『古代日本史への挑戦』の後半部分になって、圧倒的な論理展開がすさまじいが、最初の著書が全国に100冊から200冊ほどで、電子書籍化して、多くの人々が読めるようにしたいと計画する。
2002年10月下旬頃に古代日本史(古代天皇家の歴史)研究を始めた僕は、2004年9月9日から9月28日までを1冊目の『私という存在』のノートで、2004年10月3日から10月20日までを2冊目の『私という存在』のノートに記して、僕の歴史研究の過程を時系列順にまとめて、自分の心の病気・・・精神的疾患なども記して、コペルニクス的転回(非常識な考え方の集合体)の地動説や進化論や想定性理論や僕の歴史研究の自論の考え方なども纏(まと)めて、非常に興味深い資料である。
同名の2冊の『私という存在』のノートは、当時の僕の歴史研究を詳述した手書きの最重要史料で、当時の僕の勘違いや間違った考え方を含んで、後世に修正した過程も分かって、2冊の著書と出版してない本でも、知れない貴重な情報が眠って、本当の史実・真実・事実を記したパンドラの箱で、大切に保管して、後世の宝物にしてほしいが、2009年6月に出版した2冊目の著書『続・私の半生と古代日本史』と、年月日のズレなどが確認された。
2004年5月8日の午後2時から3時頃の約一時間を僕は、京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社の故海部光彦(あまべみつひこ)宮司と対談して、20世紀最高の天才アルバート・アインシュタイン博士が哲学者で、僕の話に哲学的な要素があって、僕に哲学を勉強したら、どうかと薦(すす)められて、数日以内(翌日か不明)に参考文献『この一冊で「哲学」がわかる!』を買って、エドムント・フッサールの現代哲学理論「現象学」を知って、後年の考え方の基礎理論になった。
1冊目の『私という存在』の2004年9月19日から9月25日までのページは、「現象学」を自己分析した手書きの記録で、多分それ以前に記した資料がなくて、「現象学」を僕の考え方であるコペルニクス的転回(「180度の発想転換」や「逆転の発想」などの言葉は、後に「非常識な考え方の集合体」に改訂)「自己認識の再構築」の説明に使って、20世紀最高の天才アインシュタイン博士の考え方なども、「現象学」で説明して、後年に考え方を進化させ続けて、僕の考え方が超成長した「きっかけ」である。
2冊目の『私という存在』の2004年10月13日のページは、2004年7月下旬頃に精神低迷した僕が、アインシュタイン博士クラスのコペルニクス的転回(逆転の発想)の持ち主と自覚して、限りない超高レベルな考え方が一つの最高点に近いが、マイナス要因の考え方が強い僕だと、一般人(僕以外の人間)より、危険になる可能性を手書きで記して、2冊の『私という存在』のノートがコペルニクス的転回(非常識な考え方の集合体)の地動説と進化論と相対性理論と僕の歴史研究の自論を理論展開するなど、僕の考え方の原型(げんけい;基本になる資料)である。
2007年
2007年9月に出版した僕の最初の著書『古代日本史への挑戦』は、田道間守(たじまもり)が垂仁(すいにん)天皇の息子の祖別命(みおやわけのみこと)と特定してないが、娘の弟橘姫(おとたちばなひめ)が非常に重要な鍵(かぎ)と気付いて、全てを求める「きっかけ」になって、後に皇族に認められない日本武(やまとたけ)天皇と正妻の弟橘姫(おとたちばなひめ)が、西暦260年神無月(旧暦の10月)の出雲王国(物部(もののべ)氏)の崩壊理由の一つと特定した。
同じく最初の著書は、垂仁(すいにん)天皇88年が垂仁(すいにん)天皇37年(西暦188年)で、崇神(すじん)天皇60年が仲哀(ちゅうあい)天皇9年(西暦260年)など、『日本書紀』の旧暦年と太陽暦の西暦年が合致して、2026年1月19日の午前10時22分に書き終えた手書きの論文で、西暦712年に『古事記』を献上して、西暦720年に『日本書紀』を献上した8年前に2書の干支(えと)の年が西暦年と対比した基礎理論が完成して、8年前に献上した最大理由の可能性を特定した。
同じく最初の著書は、皇室の戸籍簿で、初代天皇の神武(じんむ)天皇が実在した初代天皇の崇神(すじん)天皇と5代目天皇の仁徳(にんとく)天皇を祖先化して、神武(じんむ)東征が仁徳(にんとく)東征の可能性が高いと記して、2023年7月21日の午後7時頃に神武(じんむ)東征(仁徳(にんとく)東征)の年代が確定して、僕の直感が正しかったと証明した。
僕は2007年頃と思うが、中村修二博士の参考文献『「バカになれる男が勝つ!」』を買って、その頃におそらく中村修二博士の考え方が僕の考え方に近いと自己分析して、2014年に中村修二博士がノーベル物理学賞を受賞して、このような自己分析を繰(く)り返して、過去や現在の天才たちと超天才の僕の考え方を対比した自己分析して、凡人(僕以外の人間)に教(おし)える教本を作る「きっかけ」である。
2009年
2009年6月に出版した僕の2冊目の著書『続・私の半生と古代日本史』は、僕の出生から歴史研究までの年表、蛇体や男性の古代太陽神の証明、古代天皇家の考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)の合致など、色々な自己分析を詳述して、2冊の著書の分析・研究なども、後世の歴史研究に役立って、僕の考え方や頭脳研究にも、役立つ大切な資料である。
2012年
2012年1月中に僕は、『ホツマツタエ』の初代から7代目のオオモノヌシ(大物主;大物主神:おおものぬしのかみ)が初代から7代目の出雲国王を神格化したと特定して、出雲王国の正体が物部(もののべ)氏と気付いて、そこから出雲王国(物部(もののべ)王国)の系図や特徴などが次々に判明して、完全な史実・真実・事実で、2025年5月18日に僕が記録したノートを見直して、物部(もののべ)氏と特定した西暦年月が判明した。
2016年
左足首を骨折して福知山市民病院に入院中した2016年1月1日の朝か昼に僕は、『ホツマツタエ』16章の完全解釈を終了して、今が行方(ゆくえ)不明の7冊目のノートを全て記し終えて、僕の出版してない本の一番最後の部分に当たって、明(あか)るいから朝か昼である。
2021年
飛び下り自殺未遂して、もみじヶ丘病院に入院中の2021年11月9日に僕は、父方の天照大神(あまてらすおおみかみ;倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)の男系男子天皇でなく、母方の天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)の女系男子天皇が今の皇室の血筋に繋(つな)がると気付いて、明らかな僕の怠慢(たいまん)だった。
母方の天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)の女系男子天皇は、入院先に『日本書紀』の現代語訳本を持ち込んで研究して、2004年以前から特定に17年以上もかかって、僕の慢心(まんしん)や驕(おご)りが生み出した結果で、自分の不甲斐(ふがい)なさに呆(あき)れた。
2022年
2022年6月1日の午前5時45分頃に僕は、日本武尊(やまとたけのみこと)の不倫を完全に求めて、不倫を神格化した素戔嗚尊(すさのおのみこと)や異母兄弟の大碓命(おおうすのみこと)に擦(なす)り付けて、皇太子や天皇を異母兄弟の成務(せいむ)天皇に押し付けて、逆賊を祖先化した武埴安彦命(はにやすひこのみこと)に被(かぶ)せて、都合の悪い事実を全部隠して、悲劇的英雄の仮面を偽装工作した。
『ホツマツタエ』のスサノヲ(日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)は、不倫して反乱(皇位継承権争い)を起こした国賊で、皇太子で皇族に認められない天皇にもなって、出雲の国譲(くにゆず)り神話で戦死して、出雲王国(物部(もののべ)氏)を崩壊させて、決して悲劇的英雄でなく、悪行の数々を生み出した元凶である。
日本武尊(やまとたけのみこと)の不倫は、元から予感があったが、求めるのに数時間がかかって、『ホツマツタエ』のスサノヲ(日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)の不倫を前から知って、当日にコクミ(日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)とクラコヒメ(弟橘姫(おとたちばなひめ)を神格化)の不倫を特定して、大いなる一歩だった。
2022年9月20日に僕は、卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと;)の殺害日や葬礼日と出雲王国(物部(もののべ)氏)の建国年などを特定して、一日かけて西暦年月の修正をして、長年の悲願をようやく達成して、大きな謎(なぞ)を暴(あば)いた。
倭姫命(やまとひめのみこと)の殺害日や葬礼日は、『ホツマツタエ』のヤマトタケの東海平定の年代とハニヤスヒコ(日本武尊(やまとたけのみこと)を祖先化)の反乱の年代を求めて、数時間で西暦年月を修正して、出雲王国(物部(もののべ)氏)の建国年が西暦94年の丹波(たんば;古代の京都府北中部)平定の翌年95年に出雲(島根県東部)を平定して、建国を数時間かけて特定して、当時に西暦100年の四国に渡る船舶(せんぱく;大型の舟)の造船を出雲に行く舟と勘違いしたが、後に訂正した。
崇神(すじん)天皇11年(西暦94年)の丹波(たんば;古代の京都府北中部)平定は、翌年が崇神(すじん)天皇12年(西暦95年)の出雲王国の建国(物部(もののべ)氏の誕生)で、京都府北部と兵庫県北部と鳥取県と島根県東部が弥生時代後期初頭(西暦100年頃)から、鉄製品が急増するなどの考古学(遺跡・遺物)と、歴史学(歴史書解釈)の古代天皇家の領土拡大が合致して、日本国の建国(天皇家誕生)時代に領土拡大した決定的な証拠である。
2022年10月18日に僕は、前方後円墳をネット検索して、初代天皇の崇神(すじん)天皇陵(崇神(すじん)天皇古墳)が奈良県橿原市の瀬田(せた)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)と判明して、天皇陵だから前方後円墳の形で、古代中国の歴史書『後漢書』に邪馬台国(大和国;やまとこく)が初めて登場する前の考古学的証拠(遺跡・遺物)で、一日かけて前方後円墳と瀬田(せた)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)の記述を別々に纏(まと)めた。
2023年
2023年5月20日頃に僕は、『ホツマツタエ』のアスス歴を解釈して、5月25日の午後5時頃に『古事記』の干支年(かんしねん)の崩年干支(ほうねんかんし)が正しいと求めて、6月16日の午前6時頃に本当の倭(わ)の五王を解釈した「歴代天皇の在位期間の対比図」を作成して、ようやく長年の謎(なぞ)を解(と)いた。
神武(じんむ)天皇の即位年(紀元前660年)から武烈(ぶれつ)天皇8年(西暦506年)は、超天才の僕が崇神(すじん)天皇元年(西暦84年)から摂政(せっしょう)69年(西暦329年)まで特定して、明らかに干支年(かんしねん)と西暦年で、西暦330年から506年まで合致しなくて、考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)の齟齬(そご)が生まれた。
2023年5月27日に新宿の出版社の株式会社文芸社は、僕の手元にUSBと史料を送り返して、僕がUSB8つから9つの全てのデータを消して、史料の中に6冊目と7冊目のノートがなくて、僕が2000年代に神社巡りした日付入りと2015年11月に交通事故を起こした日付入りのノートの切れ端などがなくて、行方(ゆくえ)不明と結論付けて、精神的に不安定になった。
6月13日から7月5日まで僕は、ホームページを5回更新して、7月11日の午後4時から5時頃に文芸社に電話して縁切りして、4度目の飛び降り自殺未遂を計画して、ユーチューブのコヤッキースタジオが『竹内文書(たけのうちもんじょ)』を一般公開する暴露動画を出したこと、僕のノートパソコンを不正アクセスで買い替えたこと、6冊目と7冊目のノートが行方(ゆくえ)不明なことの3つが重なって、精神的に不安定になって、医療保護入院する「きっかけ」になった。
行方(ゆくえ)不明の6冊目と7冊目のノートは、数年規模で求めた史料で、僕がやる気を出せば、数ヶ月で求められる物だが、神話や神様の系図や特徴などが国家機密レベルの情報と考えられて、その所在の特定が非常に重要な意味・価値を秘めて、凡人(僕以外の人間)が簡単に想像できない重要度で、そこに記した神々の系図や特徴などが簡単に求められる物でない。
もみじヶ丘病院の医療保護入院は、2023年7月12日から8月31日で、7月21日の午後7時頃に僕が神武(じんむ)東征(仁徳(にんとく)東征)の年代を特定して、摂政(せっしょう)69年(西暦329年)が仁徳(にんとく)東征1年で、天皇不在の年の西暦333年が仁徳(にんとく)東征5年で、仁徳(にんとく)天皇元年(西暦334年)などが判明して、祖母の神功(じんぐう)皇后時代と孫の仁徳(にんとく)天皇時代が西暦年で、年代が完全に繋(つな)がった運命の瞬間だった。
2024年
2024年4月4日のクリニックまほらの診察から帰宅した僕は、「記紀」に出雲の建国神話がなくて、ネット検索で出た『出雲国風土記』の国引き神話が出雲の建国神話と求めて、出雲の創造神の八束水臣津野命(やつかみずおみつののみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)を特定して、出雲王国(物部(もののべ)氏)の直系子孫が水神や海神に神格化したと証明して、この時に凄(すさ)まじすぎる数時間の高速処理をしたが、僕のパソコン入力の遅さが影響して、パソコン入力の従業員が必要と実感した。
2024年5月22日の午後10時半頃に僕は、『ホツマツタエ』の原本の『ミミノハ(耳の葉)』と『ミソギノフミ(禊(みそぎ)の文)』を調べて、古代中国の後漢(ごかん)王朝に遣使(遣漢使;けんかんし:遣隋使や遣唐使に基づいた僕の造語)して、使者が製紙業と漢字を学んで、景行(けいこう)天皇元年3月(西暦191年4月頃)に日本国内へ持ち帰ったと考えられる。
垂仁(すいにん)天皇29年から39年(西暦180年から190年)は、遣漢使(けんかんし)の使者が古代中国で、10年近く何もしなかったと考えられず、製紙業と漢字を学んだのが自然な考え方で、3世紀中頃の仲哀(ちゅうあい)天皇の死後に漢風諡号(しごう)を使用して、倭(わ)の五王の人名に安康(あんこう)天皇から武烈(ぶれつ)天皇が生前に漢風諡号(しごう)を使ったと考えられる。
2世紀後半の遣漢使(けんかんし)は、古代中国の後漢(ごかん)王朝で、製紙業と漢字を学んで、2025年1月23日に公表された高知県南国(なんこく)市の若宮ノ東(わかみやのひがし)遺跡で、「刻書(こくしょ;表面に文字を記す)土器」が3世紀前半頃の文字と考えられる。
2024年6月7日の午後から夜に僕は、『日本書紀』の景行(けいこう)天皇時代から仲哀(ちゅうあい)天皇時代の東国(中部地方から東北地方南部)平定の年代を中心に求めて、翌日8日の朝に『ホツマツタエ』の景行(けいこう)天皇時代で、東国(中部地方から東北地方南部)平定の年代を中心に求めた。
6月10日頃から26日までは、景行(けいこう)天皇60年(西暦250年)の東国の平定から仲哀(ちゅうあい)天皇9年2月22日(西暦260年3月下旬頃)までの年代の詳細な出来事の整理をして、『古代天皇家の年表』と『古代天皇家の歴史』の章の年代を上記に当てはめて、時系列に年代を整理した。
2024年7月28日の午後7時頃に前のノートパソコンは、新しいユーザーアカウントを作ったばかりなのに不具合が出て、後にサイバー攻撃の可能性に思い至って、8月7日頃に去年に行方(ゆくえ)不明になった6冊目と7冊目のノートが盗まれた可能性に気付いて、国家機密レベルの情報を盗まれた可能性に思い至って、これらの理由で精神的に追いつめられて、8月11日に任意入院することになった。
2024年8月8日は、「はは」の日で、母以外に羽羽(はは)と書いて、羽羽(はは)が古代に蛇を意味して、古代に蛇が太陽神で、「記紀」で天羽羽斬(あめのははきり)の神剣や天羽羽矢(あめのははや)の神様の矢などが登場して、この日の干支(えと)が今年の干支(えと)と同じ甲辰(きのえたつ)で、午前2時20分頃に僕のスマホで、僕のホームページが更新されたのを確認した。
2024年8月11日から9月11日までの一ヶ月間を僕は、もみじヶ丘病院に任意入院して、歴史研究の公表に向けて、研究・分析と方針の見直しをする時間になったが、6冊目と7冊目のノートが盗まれた可能性に気付いて、僕の精神的な支柱と自覚した。
2024年9月16日の午前10時頃に僕は、約5千年前に超古代文明時代のパソコンが存在して、聖徳太子が超古代文明時代のパソコンで、未来を見た可能性に気付いて、それで聖徳太子が未来の予言や『ホツマツタエ』の遺伝子レベルの超知識を記した可能性に気付いて、面白い想像力の行きすぎかもしれない。
2024年9月27日の午後3時頃に僕は、初めて『古代豪族の格付け』を記して、古代豪族の物部(もののべ)氏と千家(せんげ)氏と海部(あまべ)氏と竹内(たけうち)氏が現代まで系図が続いて、氏族の特徴や特色などを詳細に分析・研究して、天皇家(皇室)に次ぐ2番目から5番目の古代豪族の序列を決めて、凡人(僕以外の人間)の指標とした。
2024年9月29日の午後3時頃に僕は、初めて『僕がよく使う歴史書4選』を記して、1番使う『ホツマツタエ』と2番目の『日本書紀』と3番目の『古事記』と4番目の正統『竹内文書(たけのうちもんじょ)』の順番で格付けして、僕が重要性と独断などの判断で選んで、元々の僕のホームページでも、『僕のよく使う歴史書』の段落がその順番だった。
2023年7月21日の午後7時頃に僕は、神武(じんむ)東征(仁徳(にんとく)東征)の年代を特定したが、2024年10月6日に『日本書紀』の神武(じんむ)天皇元年(紀元前660年)の干支年(かんしねん)を調べて、神武(じんむ)東征(仁徳(にんとく)東征)の後に2年間の奈良県の平定を見逃したとに気付いて、明らかな僕の怠慢(たいまん)である。
これで僕は、日本最古の神話である饒速日命(にぎはやひのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の河内(かわち;古代の大阪府東部)の天孫降臨神話が西暦81年から83年に収(おさ)まること、初代天皇・崇神(すじん)天皇の日本の建国(天皇家誕生)前に奈良県を平定したこと、仁徳(にんとく)天皇時代の正しい年代の把握など、改めた自分の認識力が大爆発して、色々と考え方を革新した。
2024年9月下旬頃から僕は、『古代天皇家の年表』の章で日本神話や神々の記述を赤字で記し始めて、10月22日の午後1時半頃に歴史学会(歴史書解釈)の定説と僕の自論の年代修正を緑字で記し終えて、黒字と青字と赤字と緑字の4種類の文字の色で区別して、古代天皇家の年表をかなり把握やすくなったと思う。
2024年12月から2025年2月中に僕は、日本神話の神々の記述を修正や追加して、天照大神(あまてらすおおみかみ)と月読尊(つくよみのみこと)と素戔嗚尊(すさのおのみこと)と豊受大神(とようけおおかみ)と菊理媛神(くくりひめのかみ)と藤原氏の祖先神と龍蛇神(りゅうじゃしん)などを記したが、ホームページに記さない神様が多い。
2025年
2025年5月30日の午前7時半頃に僕は、『思兼神(おもいかねのかみ)と天手力雄神(あめのたぢからおのかみ)』の章を記して、垂仁(すいにん)天皇29年から39年(西暦180年から190年)に古代中国の後漢(ごかん)王朝の遣使(遣漢使;けんかんし:遣隋使や遣唐使に基づいた僕の造語)で、物部十市根(もののべのといちね)が太陰太陽暦を学んだと考えられて、全体の文章を8月10日の午前9時20分頃に修正した。
『ホツマツタエ』のオモイカネ(物部十市根(もののべのといちね)を神格化)は、暦(こよみ)を学んだ神様で、物部十市根(もののべのといちね)が古代中国で、太陰太陽暦を学んで、息子の物部夏花(もののべのなつはな)が日本か古代中国で生まれて、景行(けいこう)天皇元年3月(西暦191年4月頃)に帰国して、西暦190年代に4代目出雲国王に即位したと考えられる。
『ホツマツタエ』のオモイカネ(物部十市根(もののべのといちね)を神格化)の暦(こよみ)は、遣漢使(けんかんし)の太陰太陽暦の学習と合致して、日本神話と実話(現実に起きた出来事)が合致して、日本神話が古代天皇家の歴史を神話化した結論になる。
2022年6月1日の午前5時45分頃に僕は、日本武尊(やまとたけのみこと)の不倫の事実を完全に求めて、素戔嗚尊(すさのおのみこと)と胡久美(こくみ)と開化(かいか)天皇と大碓命(おおうすのみこと)の不倫の4例を求めて、2025年3月4日の午前7時台に日本武尊(やまとたけのみこと)の不倫を告発した年月をようやく特定した。
2025年6月10日頃から僕は、出雲大社の記述を大幅に修正して、『出雲大社』の章から『熊野大社と熊野三山』の章を分けて、出雲王国(物部(もののべ)氏)の歴代出雲国王の生没年月や色々な情報の特定など、短時間で圧倒的な超頭脳や超知識の発展があった。
2025年6月14日に僕は、『前方後円墳と古墳時代の始まり』の章を大きく修正して、弥生時代と古墳時代の墓(はか)などの再定義をして、6月17日に『時代区分の概念化』の章を大きく修正して、時代区分の弥生時代や古墳時代を僕の自論の時代区分に再定義したりして、専門家(考古学会と歴史学会)を大きく巻き込むと考えられる。
2025年8月9日の午後に僕は、『武内宿禰(たけのうちのすくね)』の記述中に西暦320年の三韓(さんかん)征伐(新羅国(しらぎのくに)と高句麗国(こうくりのくに)と百済国(くだらのくに)の3国の討伐)と西暦322年の新羅国(しらぎのくに)討伐が事実(現実に起きた出来事)と気付いて、『古代天皇家の歴史』の前部分「日本神話や中韓との断交理由」を2ヶ月ちょっとで纏(まと)めて、今までの歴史研究の下地を統一して、新しい超知識を加えた史料の基礎を記して、10月16日に記し終えた。
2025年8月中旬から下旬頃に僕は、神武(じんむ)東征神話から神武(じんむ)天皇即位を再定義して、神武(じんむ)東征神話の次の神武(じんむ)統一神話(崇神(すじん)統一神話)と神武(じんむ)即位神話(崇神(すじん)即位神話と仁徳(にんとく)即位神話)を定義付けて、新しい僕の作った造語である。
2025年8月26日の午前11時半頃に僕は、『熊野大社』の題名を『熊野大社と熊野三山』に変更して、熊野の神名や神社名や神様などを詳細に調査・研究して、出雲王国(物部(もののべ)氏)との関連性をまとめて記した。
2025年9月1日の午前4時頃に僕は、熱田(あつた)神宮の創建理由を求めて、熱田(あつた)神宮を創建した尾張(おわり)氏の関連史料を2025年9月2日に記して、神社としての『熱田(あつた)神宮』の史料を9月11日の午前4時10分頃まで、何度も修正し続けた。
2025年9月3日の午前11時頃に僕は、集中的に『ホツマツタエ』の神武(じんむ)天皇と綏靖(すいぜい)天皇の時代を求めて、神武(じんむ)天皇30年(アスス87年)が崇神(すじん)天皇37年(西暦120年)と垂仁(すいにん)天皇7年(西暦158年)で、綏靖(すいぜい)反乱1年から4年(紀元前585年から582年)が垂仁(すいにん)天皇4年から7年(西暦155年から158年)に修正した。
2025年9月4日の午前10時頃に僕は、太陽神の性質(性格)変化を記して、9月15日の午前6時すぎに古代太陽神の属性を記して、性質が物事や人間が持つ固有の特徴や属性を指す言葉で、対象を理解して分析や評価するための基準を指して、属性が一般にある物に共通して、備(そな)わる性質や特徴で、性質と属性の区別が難しいが、男性と女性や古代と現代の太陽神の性質(性格)変化、古代太陽神の男性や蛇体の属性などをまとめた。
2025年9月6日から数日間は、『ホツマツタエ(秀真伝)』と2つの原本の『ミソギノフミ(禊(みそぎ)の文(ふみ)』と『ミミノハ(耳の葉)』の歴史や成立過程などを記して、『ホツマツタエ』16章が子宮の中で、胎児の何ヶ月目の様子を記して、現代医学の超知識で、精子が骨や脂肪で、卵子が血液や内臓になると記して、未来の遺伝子レベルの超知識で、『ホツマツタエ』の成立に関係する聖徳太子の非実在説が存在するが、本当に実在したと確信した。
2025年9月7日の午前7時半頃に僕は、垂仁(すいにん)天皇5年6月1日から7年7月8日(西暦156年7月上旬頃から158年8月上旬頃)までの狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱(皇位継承権争い;倭国大乱:わこくたいらん)で、狭穂彦王(さほひこのみこ)の実妹で、皇后の狭穂姫(さほひめ)が実兄と不貞(ふてい)関係の疑(うたが)いの皇子を出産して、それで謀反(むほん)を計画して、当麻蹶速(たえまのくえはや)が狭穂彦王(さほひこのみこ)の息子と判明して、大きな革命である。
不倫(ふりん)は、一般的に既婚者(きこんしゃ;配偶者のある人)が配偶者以外の人と交際関係を持つことを指して、特に男女関係の不道徳な関係を意味して、浮気(うわき)と区別して、不貞(ふてい)を既婚者(きこんしゃ)が配偶者以外の異性と性的な関係を持つことで、不貞(ふてい)行為と不倫(ふりん)が同義ともされて、実兄妹の狭穂彦王(さほひこのみこ)と狭穂姫(さほひめ)が結婚前の性的関係で、不貞(ふてい)行為でないが、息子の誉津別命(ほむつわけのみこと)がどちらの子か不明で、不貞(ふてい)行為と認識すべきである。
2025年9月13日の午後6時半頃に僕は、今まで明記しなかった出雲王家(物部(もののべ)氏)と千家(せんげ)氏と竹内(たけうち)氏と尾張(おわり)氏などが分家した時期を記して、9月20日頃まで分家の記述を何度も修正して、9月18日の午後2時頃に京都府京丹後市が3世紀中頃から5世紀前半頃まで、海部(あまべ)氏の先祖の居住地だった可能性を求めた。
2025年9月15日の午後0時40分頃に僕は、宮内庁(天皇家を司(つかさど)る省庁)が皇室の祖先神や天皇や皇后や皇族の墓(はか)と定めた陵墓や考古学的証拠を国宝と重文(重要文化財)に指定する理由を説明して、『国宝と重文(重要文化財)の指定』の章を記した。
2025年9月20日に僕は、武家の大伴(おおとも)氏と久米(くめ)氏が同族で、祖先神や実在系図の矛盾(むじゅん)などを詳細に説明して、彦坐王(ひこいますのみこ)の子孫の古代太陽神氏族と別の系譜と特定した。
2025年9月22日の昼食中に僕は、崇神(すじん)天皇58年8月(西暦141年9月頃)に朝鮮半島の加羅国(からのくに)の王子の都怒我阿羅斯等(つのがあらしと;蘇那葛叱智(そなかしち)と同一人物)が来日して、朝鮮半島から鉄製品を輸入して、日本海側の京都府と兵庫県と鳥取県と島根県で、弥生時代後期に鉄製品が大量出土して、景行(けいこう)天皇12年から19年(西暦202年から209年)に九州全土を平定して、弥生時代の北九州の鉄製品が出土数を全国一位で、古墳時代初頭から奈良県周辺で、鉄製品が大量出土して、鉄製品急増の理由を求めた大革命である。
崇神天皇63年(西暦146年)に加羅国(からのくに)の王子の都怒我阿羅斯等(つのがあらしと;蘇那葛叱智(そなかしち)と同一人物)は、帰国する途中で、下賜品(かしひん)の土産(みやげ)を新羅国(しらぎのくに)に奪(うば)われて、垂仁(すいにん)天皇5年から7年(西暦156年から158年)の倭国大乱(わこくたいらん;狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱)に古代朝鮮国家の加羅国(からのくに;任那国:みまなのくに)と敵国の新羅国(しらぎのくに)が参戦した可能性に気付いていた。
2025年10月6日の午前2時半頃に僕は、夢で微睡(まどろ)みながら、物部(もののべ)氏の名字(みょうじ)に違和感を覚えて、起きて記述をまとめながら、出雲王国(物部(もののべ)氏)の3代目出雲国王が野見宿禰(のみのすくね)で、景行(けいこう)天皇時代に野見宿禰(のみのすくね)が物部(もののべ)氏の名字(みょうじ)を名乗ったと考えられて、時代背景なども特定して、後に他の氏族が名字(みょうじ)を名乗った時期も求めた。
睡眠中の脳は、その人が今まで見聞きした情報を整理すると科学的に証明して、昔から「夢のお告(つ)げ」や「夢占(ゆめうらな)い」があって、科学的に説明できないが、僕の歴史研究に直結した夢の情報整理と考えられて、可美真手命(うましまじのみこと;野見宿禰(のみのすくね)を神格化)の息子の物部十市根(もののべのといちね)が古代中国から持ち帰った十種(とくさ)の神宝(かんだから)の献上神話から、物部(もののべ)氏の3代目出雲国王の野見宿禰(のみのすくね)が西暦191年以降に名字(みょうじ)を名乗る関係性を証明して、重要な大発見である。
2009年6月に2冊目の著書を出版した僕は、2010年6月何日かに作成した『3冊目の本』のプロパティが日本語入力ソフトWordの新しいファイル形式で、保存して以前のプロパティが見られないか、または保存ディスクを変更し続けたために見られないと考えられて、その頃に3冊目の本の作成を開始したのが確実で、現在7冊目(昔は7冊目と8冊目だが、諸事情で修正した)まで存在して、6冊目と7冊目のノートが行方(ゆくえ)不明で、盗まれた可能性があって、3冊目の本で『日本神話と古代天皇家の歴史』の章が一番多い400ページ以上だった。
おそらく2010年6月頃から僕は、『日本神話と古代天皇家の歴史』の章をパソコン入力し始めて、2011年何月かと思うが、京都市の出版社の宮帯出版社に3冊目の本を出版依頼した時、『日本神話と古代天皇家の歴史』の章が約80ページで、2025年8月9日の午後から10月16日までの2ヶ月ちょっとで、『日本神話と古代天皇家の歴史』の前半部分の『日本神話や中韓との断交理由』の章を105ページ以上も書き加(くわ)えて、12月24日(クリスマスイブ)にもみじヶ丘病院を退院してから3日以内に300ページ以上の本章と、105ページ以上の『日本神話や中韓との断交理由』の章に分裂させた。
300ページ以上の『日本神話と古代天皇家の歴史』の章は、翌年2026年年始から8月27日の早朝にかけて8分割して、主なタイトル(題名)を『古代天皇家の…天皇時代の歴史』に纏(まと)めて、簡単に理解できる内容でないが、分割して見やすくなったと思う。
鬼ヶ島の正体は、『古事記』の国生み神話に登場する吉備(きび;岡山県と広島県東部)の児島(こじま;こしま)で、西暦180年に児島(こじま)が離島で、江戸時代初めの1618年に干拓(かんたく)で、岡山市と陸続きの岡山県倉敷市の児島(こじま)半島になって、鬼の総大将の温羅(うら;おんら)が岡山市にいて、他に鬼ヶ島の鬼が児島(こじま)にいたと考えられて、もみじヶ丘病院に入院中の2025年11月19日の午後2時40分頃に気付いて、日本の建国(天皇家誕生)の西暦84年から96年後の大戦争で、12月24日にもみじヶ丘病院を退院した。
おそらく具体的な吉備(きび;古代の岡山県で、広島県東部を含(ふく)めないと考えられる)平定を僕は、2010年代の前半か後半に特定したと考えられて、2025年12月28日の午後8時頃にユーチューブ動画の「日本歴史旅」の『【孝霊天皇】「欠史八代」と「鬼退治」をつなぐ禁断のミステリー』を見て、伯耆国(ほうきのくに;鳥取県西部)と島根県の隠岐島(おきのしま)の合計4つの鬼退治伝説を知って、約一時間後の午後9時頃にネット検索で、『ホツマツタエ』の西国(さいごく;兵庫県南部と岡山県と鳥取県西部と島根県東部)反乱が正しいと気付いて、桃太郎を含(ふく)む複数の鬼退治伝説が同時代とも特定した。
『ホツマツタエ』が記す西暦180年の大戦争は、古代天皇家の邪馬台国(やまとこく;奈良県の大和国)から見て、西(兵庫県南部と岡山県と鳥取県西部と島根県東部)の国の反乱と理解しやすい言葉で、2026年1月18日の午前11時頃に西国反乱(さいごくはんらん;兵庫県南部と岡山県と鳥取県西部と島根県東部の平定)と自称(僕が名付けた言葉)の訂正をして、桃太郎を含(ふく)めた複数の鬼退治伝説を省略する。
2025年12月24日の午前7時頃は、もみじヶ丘病院の退院日で、朝食中に同じ入所者の岩本竜さん(本人に実名を出してOKと返事を得た)と会話して、彼に指摘されて初めて、僕の考え方が宗教家の岡本天命(おかもとてんめい)や巫女(みこ)のような天の啓示(けいじ;神様の声)を聞いて、生まれた知識と違うと気付いて、23年以上の歴史研究で、蓄積した知識を自分の頭で考えた物で、『僕の閃き(ひらめ)のスピード』に記す歴史研究の年表や多くの史料が証拠である。
僕の超知識は、天の啓示(けいじ;神様の声)を聞いて、生まれた知識と違って、地動説や相対性理論などと同じく、全て自分の頭で考えて、生まれた考え方で、自分のことを他人に指摘されて、改善や成長に生かした実例で、前の主治医の菅間先生が僕を精神障害の統合失調症と診断して、当てはまる妄想(もうそう)や幻覚(げんかく)の症状もあるが、自分が本当に統合失調症か、疑(うたが)う気持ちがある。
岩本竜さんとの会話は、僕自身の間違いを指摘されて認めて、正して今後に生かす行動が大切と話して、彼の指摘を参考にネット検索して、この記録を2025年の大晦日(おおみそか)の朝に記し始めて、おそらく大晦日(おおみそか)の昼に家族に話したのが確実で、2026年1月5日の午前6時50分頃に『自分の過(あやま)ちを認めること』の章を書き終えた。
僕にとって岩本竜さんの存在は、非常に大きくて、仲良くするか、仲良くしないかを別にして、以前から僕が年末年始頃に退院できたら、史料やホームページを大修正する予定で、僕の史料たちの修正に多大な影響を与(あた)えて、僕の生き方や考え方などにも、大きく影響して、彼の存在感や影響力が非常に大切である。
2026年
2026年1月3日の午前7時頃に僕は、インターネット検索サイトYAHOO!で、ネット記事の『【伊勢と出雲の線上に平城京があるのは偶然か】実は創建以前からつながっていた二大聖地の奇縁』を見て、神様の伊勢津彦命(いせつひこのみこと)が垂仁(すいにん)天皇を神格化して、名前の分からない敵国(記録からの想像)が滅亡して、伊勢国(いせのくに;三重県中部)が古代天皇家の領土になって、ネット検索で、伊勢津彦(いせつひこ)関係の伊勢国(いせのくに;三重県中部)名付け神話が2つあって、2神話の両方が正論と特定する「きっかけ」になった。
伊勢津彦命(いせつひこのみこと;垂仁(すいにん)天皇を神格化)は、三重県伊賀(いが)市石川の穴石(あないし)神社に石城(いしき)を築城して、西暦156年から158年に起きた出雲王国(物部(もののべ)氏)の2代目出雲国王である狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱(皇位継承権争い)の終戦後に伊勢国(いせのくに;三重県中部)が古代天皇家の領土になって、西暦158年に垂仁(すいにん)天皇が石城(いしき)の呼び名から、伊勢国(いせのくに)の国名を名付けたと考えられる。
西暦149年に創建した伊賀国(いがのくに;三重県北部)の元伊勢(三重県伊賀(いが)市に候補地が複数ある)は、西暦156年に狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱が出雲国(いずものくに;島根県東部)で始まって、西暦157年後半頃に伊賀国(いがのくに)の交戦から逃げて、おそらく三重県熊野市で、狭穂彦王(さほひこのみこ)が戦死して、国名が分からない敵国(記録からの想像)が滅亡して、三重県の中部と南部が古代天皇家の領土になって、間違いなくネット記事を見た直後に古代天皇家の領土になったと気付いた。
三重県熊野市有馬町(ありまちょう)の花の窟(いわや)神社は、『日本書紀』の地獄の黄泉国下(よみのくにくだ)り神話に登場して、伊弉冉尊(いざなみのみこと;狭穂姫(さほひめ)を神格化)と息子(実兄)の軻遇突智(かぐつち;狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)の墓(はか)で、実兄妹の遺体が燃(も)えて残らず、岩石の古代信仰の神社に祭ったと考えられて、もう一つの地獄の黄泉国(よみのくに)が島根県松江市東出雲町揖屋(いや)の伊賦夜坂(いふやざか)で、戦場が島根県東部から移動して、三重県熊野市で終戦して、地獄の黄泉国下(よみのくにくだ)り神話が実話(現実に起きた出来事)である。
2025年12月28日の午後8時頃に見たユーチューブ動画の「日本歴史旅」の『【孝霊天皇】「欠史八代」と「鬼退治」をつなぐ禁断のミステリー』を見返した僕は、『ホツマツタエ』の西暦180年の西国反乱(さいごくはんらん;兵庫県南部と岡山県と鳥取県西部と島根県東部の平定)が正しいと確信して、『ホツマツタエ』の記述と複数の鬼退治伝説の真相に気付いて、デイケア参加中の2026年1月8日の午前11時40分頃(時計を見てなくて、およその時間予測)に島根県出雲市を流れる斐伊川(ひいかわ;島根県川)から見て、左隣(ひだりどなり)の島根県松江市が出雲王国(物部(もののべ)氏)の本拠地と特定して、後で地図をネット検索して確認した。
『ホツマツタエ』の西国反乱(さいごくはんらん;兵庫県南部と岡山県と鳥取県西部と島根県東部の平定)は、総大将の忌部主(いんべぬし)が祭祀(さいし)を受け持つ古代豪族の忌部(いんべ)氏を指して、忌部主(いんべぬし)が物部(もののべ)氏の3代目出雲国王の野見宿禰(のみのすくね)の可能性があって、忌部(いんべ)氏の祖先神が太玉命(ふとだまのみこと;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)で、野見宿禰(のみのすくね)の子孫が武渟川別(たけぬなかわわけ)などの理由で、物部(もののべ)氏と忌部(いんべ)氏が同族と証明して、『桃太郎と同時代の鬼退治伝説』の章に加筆・修正した。
2026年1月8日の午後2時30分頃(自分の腕時計で、時間を確認済み)にデイケア参加中の僕は、景行(けいこう)天皇元年3月(西暦191年4月頃)に古代中国の後漢王朝から使者が帰国して、古代中国の文化(漢字と製紙業と太陰太陽暦など)を持ち帰って、景行(けいこう)天皇元年7月11日(西暦191年8月中旬頃)に景行(けいこう)天皇が3代目天皇に即位して、4ヶ月ほどで景行(けいこう)の外交用の呼び名を古代中国語読みで当てはめて、日本語の音読みを古代中国語読みで、訓読みを日本語読みが起源と考えられる。
2026年1月8日の午前11時40分頃から午後2時30分頃は、3時間ちょっと(おそらく正しい時間計測)の3つの発見(考え方の理論修正と新しい思い付き)をして、自分でも初めての頭の回転スピード(考え方の進化スピード)の最短記録で、僕本人も驚愕(きょうがく)して、アインシュタイン博士が4つの論文(2つが特殊相対性理論の論文で、2つを一つにまとめて、3つの論文に統一する場合もある)を提出した1905年をネット検索して、1月13日にアインシュタイン博士と僕本人を対比した手書き論文を書いた「きっかけ」である。
2026年1月10日の午前8時頃の朝食後すぐに僕は、岩本竜さんの存在感の大きさと、野見宿禰(のみのすくね)の2つの記述修正を思い付いて、上記の2025年12月24日と2026年1月8日のこのページを他の日本語入力ソフトWORDファイルと対比させて修正して、野見宿禰(のみのすくね)の記述の基礎部分を昨日1月9日の午後10時以前の寝る前に書き終えて、こまめに発見した年月日と日時を記録する日頃の習慣の賜物(たまもの)である。
西国反乱(さいごくはんらん;兵庫県南部と岡山県と鳥取県西部と島根県東部の平定)の総大将の忌部主(いんべぬし)は、出雲王国(物部(もののべ)氏)の3代目出雲国王の野見宿禰(のみのすくね)の可能性があって、出雲(島根県東部)側でなく、古代天皇家の邪馬台国(奈良県の大和国;やまとこく)側の近畿地方にいる時に戦争が起きて、野見宿禰(のみのすくね)が島根県東部から脱出して、奈良県側で合流するのに無理があって、地形的に反乱軍が陸路と海路(島根県の隠岐島(おきのしま)の鬼は、反乱軍の一人)で、奈良県と島根県東部を分断するためで、古代天皇家の国家存亡の大戦争と僕が考えた。
2026年1月12日の午後3時40分頃にユーチューブ動画の「TOLAND VLOG」の『【極秘口伝】武内宿禰には信じられない「秘密」があった...』を見た僕は、仲哀(ちゅうあい)天皇9年(西暦320年)の三韓(さんかん)征伐(朝鮮半島の新羅国(しらぎのくに)を討伐して、高句麗国(こうくりのくに)と百済国(くだらのくに)の2国の戦争介入を防(ふせ)いだ戦争)に登場する神様3神の正体に気付いて、約4ヶ月前の2025年8月9日の午後に西暦320年の三韓(さんかん)征伐が事実(現実に起きた出来事)と気付いた基礎が存在したから判明した。
三韓(さんかん)征伐でお告(つ)げをした3人の神様は、おそらく奈良県にいる91才頃の総司令官が天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)で、85才頃の事代主神(ことしろぬしのかみ;宇迦都久怒(うかずくぬ)を神格化)が助言だけで、2人が高齢のための予測で、海神の住吉(すみよし)3神(物部(もののべ)氏の誰か3人を神格化)が戦場で指揮したと考えられて、2026年1月13日の午後11時頃の論文の記録中に記して、論文を書き終えた時間からの逆算で、後にもう一人の事代主神(ことしろぬしのかみ)に葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)を神格化とも気付いた。
『日本書紀』の仲哀(ちゅうあい)天皇9年(西暦320年)は、朝鮮半島の三韓(さんかん)征伐が世間一般で、嘘(うそ)と考えられて、僕が60年引き算して、仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月11日から17日(西暦260年11月頃)の出雲王国(物部(もののべ)氏)の攻撃に変換して、新羅国(しらぎのくに)が降伏して、地図や戸籍を差し出して、それを見て高句麗国(こうくりのくに)と百済国(くだらのくに)が参戦しなくて、2年後の摂政(せっしょう)62年(西暦322年)の新羅国(しらぎのくに)討伐も、事実(現実に起きた出来事)である。
『日本書紀』とネット情報の仲哀(ちゅうあい)天皇9年2月5日(西暦260年3月上旬頃)に仲哀(ちゅうあい)天皇は、出雲王国(物部(もののべ)氏)の攻撃中に戦場で、矢で負傷して、翌日6日(3月上旬頃)に49才で戦死して、正妻の神功(じんぐう)皇后が義父の日本武(やまとたけ)天皇を恨(うら)んで、出雲から船団が京都府宮津市に撤退して、朝鮮半島の新羅国(しらぎのくに)の攻撃中に変換して、仲哀(ちゅうあい)天皇9年(西暦260年と320年)が120年間ズレて、干支(えと)の60年周期で、西暦年を特定する僕の基礎理論である。
2026年1月12日の午後3時40分頃に三韓(さんかん)征伐に登場する神様の事代主神(ことしろぬしのかみ;宇迦都久怒(うかずくぬ)を神格化)を特定した僕は、約5時間後の午後8時から9時までに、宇迦都久怒(うかずくぬ)が85才頃の西暦320年まで生きて、西暦310年から340年頃と僕が考える出雲大社(後に古代の出雲大社の神魂(かもす)神社に訂正;ていせい)の創建時期に出雲大社の初代宮司になった可能性に気付いて、理論的に正しい理由が幾つもある。
仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月(旧暦の10月)17日(西暦260年11月中旬頃)に崩壊した出雲王国(物部(もののべ)氏)は、出雲王家(物部(もののべ)氏)の滅亡でなく、4代目出雲国王の物部十市根(もののべのといちね)の子孫である物部守屋(もののべのもりや)が6世紀中頃の用明(ようめい)天皇2年7月(西暦587年8月頃)に戦死して、物部(もののべ)氏の本家が滅亡して、僕が崩壊の言葉を使って、西暦261年1月までの戦後処理で、出雲王家(物部(もののべ)氏)から、分家した出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏の初代当主である。
景行(けいこう)天皇16年1月3日(西暦206年2月上旬頃)に景行(けいこう)天皇と物部(もののべ)の養女の弟橘姫(おとたちばなひめ)は、長男の神櫛皇子(かんぐしのみこ)を生んで、後の6代目出雲国王の彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)で、孫の景行天皇45年11月15日(西暦235年12月中旬頃)に初代・武内宿禰(たけのうちのすくね;たけうちのすくね)が生まれて、両親が同じ宇迦都久怒(うかずくぬ)が近い年齢と考えられて、史料が存在しないため、兄弟の血縁関係が絶対に求められず、上記の年齢計算が成立する。
2026年1月13日の午後5時10分に書き終えた僕の手書き論文『アインシュタイン博士の後継者存在の僕との頭の回転の速(はや)さの分析』は、アインシュタイン博士よりも、僕の方が頭の回転スピード(考え方の進化スピード)が速(はや)いと勝手に結論付けて、おそらく完全な予測や思い込みで、3月21日の午前11時22分に書き終えた僕の手書き論文『歴史上の超天才』で修正して、2書が後世の考え方や頭脳研究の資料になると考えられて、アインシュタイン博士の論文の提出日や人生などの情報をインターネット辞書ウィキペディアで見知った。
僕はアインシュタイン博士の相対性理論と僕の歴史研究の自論をコペルニクス的転回(非常識な考え方の集合体)に分類して、その分類や特徴などを理論的に説明して、彼と同じ核兵器廃絶を願って、この2つの意味で、アインシュタイン博士の後継者的存在を自称して、1905年に彼が4つの論文(2つが特殊相対性理論の論文で、2つを一つにまとめて、3つの論文に統一する場合もある)を提出した「奇跡の年」で、アインシュタイン博士の頭の回転スピード(考え方の進化スピード)が速い資料で、現代の考え方や頭脳研究などの基礎資料である。
アインシュタイン博士は、1つ目の論文を1905年3月17日で、4つ目の論文を9月27日に提出して、2025年8月9日から2016年1月13日までの4ヶ月ちょっとで、僕が圧倒的な数々の大発見や理論修正や考え方の変化を記録して、万能の天才レオナルド・ダ・ヴィンチと発明王エジソンなどの過去の天才たちが頭の回転スピード(考え方の進化スピード)の記録を残すか分からず、ある程度の比較材料になると思う。
2026年1月17日の午前3時25分頃(時計で時間を確認済み)に起きた僕は、起きてすぐに『祖先化した系図』の章の修正のため、2冊の『私という存在』のノートを見直して、起きてすぐに同じ内容をずっと手書きして、午後5時半頃(時計を見てないため、およその時間予測)に論文『僕の記憶をたどる祖先化』を書き終えて、2003年5月頃に孝安(こうあん)天皇から開化(かいか)天皇までの4世代と、崇神(すじん)天皇から日本武尊(やまとたけのみこと)の4世代の対比系図を作成して、当時の対比系図を予測して、それを説明した論文でもある。
孝安(こうあん)天皇から開化(かいか)天皇までの4世代と崇神(すじん)天皇から日本武尊(やまとたけのみこと)の4世代の対比系図は、凡人(僕以外の人間)でも作れるが、実在人物(崇神(すじん)天皇など)たちの生存時期の特定に西暦年が必須で、西暦年の特定の段階で、誰も(僕以外の全ての研究者たち)が躓(つまず)くと気付いて、世界唯一の僕だけが約3ヶ月後の2003年8月頃に『日本書紀』の干支年(かんしねん;干支(えと)の年)の即位年干支法(そくいねんかんしほう)を生み出して、実在人物たちの生存時期の西暦年を特定した。
2002年10月頃に歴史研究を始めた僕は、1年以内に他の圧倒的な考え方の数々も記録して、当時から規格外で、天下無敵な自分自身の大偉業に無自覚で、ただ純粋に知的な好奇心や探求心で、古代日本史(古代天皇家の歴史)を求めたいと思って、僕自身の意味・価値の本質で、人類史上最高の超天才の理由でもある。
2026年1月17日の午前4時頃は、実在した人物たちの簡単な紹介文の作成を思い付いて、入院中の時期不明にも、同じような紹介文を作成したが、手書きの論文『実在した人物たちの西暦年の足跡(そくせき)』を書き終えて(終了時間を書かず不明)、武渟川別(たけぬなかわわけ;西暦231年以降から263年までの生存を証明できる)と、彼を神格化した経津主神(ふつぬしのかみ)と太玉命(布刀玉命;ふとだまのみこと)の関連性を文章化して、分かりやすい文章にまとめた。
武虎別皇子(たけこわけのみこ)と物部(もののべ)氏の高田媛(たかだひめ)は、西暦230年頃に長女の神功(じんぐう)皇后を生んで、同母弟か異母弟か、不明の武渟川別(たけぬなかわわけ)が西暦231年以降の生まれで、物部(もののべ)氏から分家した武家の阿倍(あべ)氏の先祖で、経津主神(ふつぬしのかみ;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)に子孫がいなくて、太玉命(布刀玉命;ふとだまのみこと:武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)が祭祀(さいし;祭ること)氏族の忌部(いんべ)氏の祖先神である。
2026年1月17日の午前5時20分頃(時計で時間を確認済み)は、手書きの論文『歴史の本当と嘘(うそ)の真実・事実』を書き終えて、僕が使う古代中国の基本の歴史書3書『後漢書』と『三国志・魏志倭人伝』と『宋書』、僕が使う日本の歴史書『ホツマツタエ』と『日本書紀』と『古事記』と『竹内文書(たけのうちもんじょ)』など、歴史書の本当と嘘(うそ)の自己分析を記して、2026年1月19日以降の『日本書紀』と『古事記』の理論修正につながった。
2026年1月17日の午前3時25分頃から午前5時20分頃は、3つの発見を2時間ちょっと(2時間を切る可能性もある)でして、1月8日の3時間ちょっと(おそらく正しい時間計測)で、3つの発見(考え方の理論修正と新しい思い付き)をした時より、さらに頭の回転スピード(考え方の進化スピード)が上がって、自分でも驚愕(きょうがく)して、後世の考え方や頭脳研究の貴重なサンプル(実例)で、僕がこれだけ詳述した文章を残したことで、後世や後輩に託(たく)す大切な思いの表われで、後進の研究者を教育・指導する教本になる。
2026年1月19日の午前10時22分頃(時計で時間を確認済み)は、手書きの論文『『古事記』が『日本書紀』の8年前に献上された最大の理由』を書き終えて、その理由が2書の干支年(かんしねん;干支(えと)の年)で、凡人(僕以外の人間)が西暦年の対比に使って、偶然に西暦年と対比できると考えるが、凡人(僕以外の人間)のシロウト認識の証拠で、超天才の僕が2書の西暦年の使用を証明して、干支年(かんしねん)と西暦年の対比結果が完成したから、8年前に『古事記』を献上した最大の理由の可能性を指摘した。
後で僕は、2書の作成段階の調査・分析・研究で、『古事記』の献上に32年間(4ヶ月間で記録)で、『日本書紀』の献上に40年間(何年間か記録した時間も含(ふく)む)かかった理由と特定して、ヨーロッパで作成した西暦年の採用が長年の作成時期の秘密で、今まで僕自身が必死で、作成した史料を見直して、新しく考察し直した結論である。
2026年1月20日の午前9時50分頃(時計で時間を確認済み)は、数日前に見たユーチューブ動画で、聖徳太子と蘇我入鹿(そがのいるか)の同一人物説を知って、聖徳太子がタイムトラベル(時間移動)した未来人で、天皇家の血筋に加えたが、元々の天皇家の血筋でない伝説的な人物になって、男性の古代太陽神を女性の太陽神に変更するなどの革命を起こして、聖徳太子(蘇我入鹿(そがのいるか)と同一人物)を危険視して、殺された最大の理由と僕が考えて、後にネット検索で、聖徳太子と蘇我馬子(そがのうまこ)の同一人物説も知った。
未来人の聖徳太子は、純粋な日本人か、外人と混血した日本人か、日本国に帰化した外人か不明でも、日本の文化や風習や歴史を深く愛して、超天才の僕が特定した古代日本史(古代天皇家の歴史)研究の超知識に精通して、「記紀(『古事記』と『日本書紀』)」より数十年前の日本最古の書物である歴史書『ホツマツタエ』の作者・編者で、彼の遺志(いし;死者の生前の志:こころざし)を継承した者がさらに纏(まと)めたか、『ホツマツタエ』が漢字以前の時代の古代文字であるホツマ文字で書くとするが、ホツマ文字が漢字以降の時代の古代文字で、勘違いを正しく認識する必要がある。
未来人の聖徳太子は、圧倒的なカリスマ(超自然的・超人間的・非日常的な資質や能力)や超知識などで、人々から憧(あこが)れと期待を受けて、黒船来航や現代などの未来の予言を残して、『ホツマツタエ』に2026年頃の水準の現代医学知識を記して、精子が骨と脂肪になって、卵子が内蔵と血液になる未来の遺伝子知識も記して、未来の日本人だから日本料理が恋(こい)しくて、寿司や鶏卵や刺身(さしみ)などの食文化の意識改革をして、聖徳太子が未来を見るパソコンを持つ異説よりも、タイムトラベル(時間移動)の方がよっぽど説得力があると考えられる。
2026年1月28日の午前6時25分頃(時計で時間を確認済み)は、仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月(旧暦の10月)17日(西暦260年11月中旬頃)の出雲王国(物部(もののべ)氏)の崩壊(出雲の国譲(くにゆず)り神話に神話化)が島根県松江市の出来事と気付いて、凡人(僕以外の人間)が左隣(ひだりどなり)の島根県出雲市が出雲の国譲(くにゆず)り神話の舞台と勘違いして、理論的・根本的に日本神話を完全解釈した超天才の僕なら、この程度の頭の回転スピード(考え方の進化スピード)が当然で、非常に簡単な発想転換である。
2025年8月26日の午前11時半頃に僕は、日本語入力ソフトWORDファイル『熊野大社』の章の題名を『熊野大社と熊野三山』に変更して、文章を修正し終えた本章をホームページで公表して、デイケア参加中の2026年1月8日の午前11時40分頃(時計を見てなくて、およその時間予測)に島根県出雲市を流れる斐伊川(ひいかわ)から見て、島根県出雲市の右隣(みぎどなり)の島根県松江市が出雲王国(物部(もののべ)氏)の本拠地と特定して、出雲の国譲(くにゆず)り神話の舞台が出雲市でなく、松江市と気付いた「きっかけ」である。
2026年1月29日の午後4時頃から午後8時50分まで僕は、手書き論文『国宝の神社と出雲大社ができた年』を纏(まと)めて、『日本書紀』斉明(さいめい)天皇5年(西暦659年)に「厳(いつき)の神宮(かみのみや;一般的に島根県松江市の熊野(くまの)大社と考えられるが、同市の神魂(かもす)神社が正しい)の修造(しゅうぞう;新しい神社を建造すること)」を記して、午後8時頃に島根県松江市の神魂(かもす)神社が古代の出雲大社と確信した運命的な大革命の瞬間で、古代と現代の出雲大社が間違いなく存在した直感(直観)を確信した。
2026年1月3日の午前中に僕は、伊勢神宮の内宮(ないぐう)と外宮(げぐう)が伊勢国(いせのくに;三重県中部)平定後にできたと特定して、1月29日の午後8時頃に島根県松江市の神魂(かもす)神社が古代の出雲大社と特定して、2大神社の伊勢神宮と出雲大社に関係した大発見で、1月中が革命的な考え方の超重要性の時期だった。
出雲大社の元宮(もとみや;元々の神社)は、島根県雲南(うんなん)市の三屋(みとや)神社と京都府亀岡市の出雲大神宮の2つで、神魂(かもす)神社がワザと元宮(もとみや;元々の神社)の伝承を残さず、出雲大社の元宮(もとみや;元々の神社)2つの伝承から考えて、古代の出雲大社が別の場所に存在した仮説(かせつ;仮(かり)の考え方)が成立して、古代の出雲大社が神魂(かもす)神社と考えられる。
北緯35度22分の富士山と出雲大社を直線で、結んだ春分と秋分の日の直線上(北緯35度22分の「御来光(ごらいこう)の道(レイライン;太陽の道)」は、その直線上に神魂(かもす)神社があって、天日隅宮(あめのひすみのみや)と呼ぶ出雲大社と共に神魂(かもす)神社が太陽信仰の超重要な神社でもあって、富士山と出雲大社がレイライン(太陽の道)上の測量で、測量後に神魂(かもす)神社の場所を固定して、後世に出雲大社の場所も固定して、創建(そうけん;神社を初(はじ)めて建(た)てること)したと考えられる。
神魂(かもす)神社の本殿は、現存する出雲大社本殿と同じ建築形式の大社造(たいしゃづくり)で、最古の築造年代と伝承して、出雲大社本殿と同じ国宝に指定して、『出雲国造世系譜(いずもくにみやつこせけいふ)』で、西暦708年(和銅(わどう)元年)に出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏を家督相続(かとくそうぞく)した出雲果安(いずものはたやす)まで、神魂(かもす)神社で、奉仕(ほうし;報酬(ほうしゅう)や見返りを求めずに、国家・社会や他人のために尽(つ)くすこと)したと記して、古代の出雲大社の可能性を高めると考えられる。
斉明(さいめい)天皇5年(西暦659年)に神魂(かもす)神社は、57年間ほどの長年をかけて、霊亀(れいき)2年2月(西暦716年3月頃)までに出雲大社に遷宮(せんぐう)して、新築まで57年間ほどかかった理由が出雲大社の境内(けいだい)で、2000年と翌年の調査で出土した宇豆柱(うずばしら)が鎌倉時代前半の1248年に造営した出雲大社本殿の支柱の可能性が高くて、出雲大社本殿が神代(かみよ;神様の時代)に32丈(96メートル)で、平安時代に16丈(48メートル)で、現在が8丈(24メートル)の高さで、高さ48メートルが本当と考えられる。
『出雲国造世系譜(いずもくにみやつこせけいふ)』は、出雲果安(いずものはたやす)が(島根県松江市)大庭(おおば)から、霊亀(れいき)2年2月丁巳(ひのとみ)の日(西暦716年3月頃)に(島根県出雲市大社町)杵築(きづき)に移住したと記して、千家(せんげ)氏の移住を記録した年月日で、古代の出雲大社の神魂(かもす)神社から、出雲大社に宮司(ぐうじ)の出雲果安(いずものはたやす)が移住した日付と考えられる。
2026年2月19日のデイケア参加中の午後0時5分から8分は、『ホツマツタエ』崇神(すじん)天皇6年(西暦89年)に天目一箇神(あめまひとつのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の孫(彦坐王(ひこいますのみこ)本人)が八重垣剣(やえがきのつるぎ)のレプリカ(複製品の形代;かたしろ)を作って、崇神(すじん)天皇12年(西暦95年)に出雲(いずも;島根県東部)平定を報告して、出雲(いずも)が弥生時代後期に青銅器文化が衰退して、鉄器文化が隆盛して、出雲(いずも)の蹈鞴(たたら)製鉄と日本神話を結(むす)ぶ考古学的証拠(遺跡・遺物)と求めた。
『ホツマツタエ』のアメマヒトツ(天目一箇;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)は、6代目タカミムスビ(高皇産霊;景行(けいこう)天皇を神格化)の孫で、景行(けいこう)天皇の息子の武虎別皇子(たけこわけのみこ)が武渟川別(たけぬなかわわけ)に父で、武虎別皇子(たけこわけのみこ)を7代目タカミムスビと天津彦根命(あまつひこねのみこと)に神格化して、出雲王家(物部(もののべ)氏)の一番最初の先祖である彦坐王(ひこいますのみこ)と結(むす)び付いて、天目一箇神(あめまひとつのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の結論になった。
神鏡と神剣のレプリカ(複製品の形代;かたしろ)は、八咫鏡(やたのかがみ)と八重垣剣(やえがきのつるぎ)で、『ホツマツタエ』の八重垣剣(やえがきのつるぎ)と他書の天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の別名が八重垣剣(やえがきのつるぎ)の記述から、八重垣剣(やえがきのつるぎ)と天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ;別名が草薙剣:くさなぎのつるぎ)が別の神剣で、両方の神剣が共(とも)に皇位継承物の三種(さんしゅ)の神器(じんぎ)で間違いない。
天目一箇神(あめまひとつのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、鍛冶師(かじし)の古代豪族である鍛治(かぬち)氏の祖先神で、鍛治(かぬち)氏が出雲王家(物部(もののべ)氏)の遠戚(えんせき;遠(とお)い親戚)で、出雲王家(物部(もののべ)氏)が出雲(いずも;島根県東部)の青銅器文化と鉄器文化と蹈鞴(たたら)製鉄などと深く関係して、天目一箇神(あめまひとつのかみ)が金属や、出雲神話と深く関係した神様である。
2026年6月2日の午前8時10分頃に僕は、神功(じんぐう)皇后の摂政(せっしょう)63年10月20日(西暦323年11月頃)に古代の出雲大社である神魂(かもす)神社の裏山(うらやま;恐(おそ)れ多くて、山名(さんめい)が無いと考えられる。)に積葉八重事代主(つみはやえことしろぬし;宇迦都久怒(うかずくぬ)を神格化)が宮司として、初代と2代目の大国主神(おおくにぬしのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)と子孫の飯入根(いいいりね)を神格化)を祭ったと求めた。
『ホツマツタエ』神武(じんむ)統一2年メ月20日(紀元前661年11月頃)は、年代が間違いで、神武(じんむ)天皇が崇神(すじん)天皇と仁徳(にんとく)天皇を祖先化して、崇神(すじん)統一2年10月20日(西暦83年11月頃)に年代修正して、仁徳(にんとく)天皇元年が西暦334年で、崇神(すじん)統一2年(西暦83年)に干支(えと)の年60年周期の240年を加算して、摂政(せっしょう)63年10月20日(西暦323年11月頃)に年代修正して、二重の年代操作の偽装工作をしたと考えられる。
事代主神(ことしろぬしのかみ)は、先祖の狭穂彦王(さほひこのみこ)と子孫の宇迦都久怒(うかずくぬ)と葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)を神格化して、初代・大国主神(おおくにぬしのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の息子の事代主神(ことしろぬしのかみ;狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)と、摂政(せっしょう)63年10月20日(西暦323年11月頃)の積葉八重事代主(つみはやえことしろぬし;宇迦都久怒(うかずくぬ)を神格化)と、摂政(せっしょう)60年(西暦320年)の事代主神(ことしろぬしのかみ;葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)を神格化)の3人と証明できる。
『ホツマツタエ』神武(じんむ)統一2年メ月20日は、三輪山(みわやま)に神様を祭ったと記して、古代の出雲大社である神魂(かもす)神社の裏山(うらやま;恐(おそ)れ多くて、山名(さんめい)が無いと考えられる。)と、出雲大社本殿(ほんでん)の裏山(うらやま)の八雲山(やくもやま)に神魂(かもす)神社(出雲大社)の御神体を祭ったと考えられる。
2026年6月14日の午後5時台に僕は、加羅国(からのくに)の王子の都怒我阿羅斯等(つのがあらしと;蘇那葛叱智(そなかしち)と同一人物)の物語が狭穂姫(さほひめ)を指(さ)して、垂仁(すいにん)天皇5年から7年(西暦156年から158年)の倭国大乱(わこくたいらん;狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱)で、古代朝鮮国家の加羅国(からのくに;任那国:みまなのくに)と敵国の新羅国(しらぎのくに)が参戦して、崇神(すじん)天皇48年(西暦131年)の後継者選びが崇神(すじん)天皇68年(西暦151年)に年代修正すると特定した。
崇神(すじん)天皇68年4月19日(西暦151年5月頃)の豊城入彦(とよきいりひこ)の秀真司(ほつまつかさ;東海地方でなく、出雲王国(物部(もののべ)氏)を統治する役人などの上司;じょうし)任命は、『ホツマツタエ(秀真伝)』の本当の意味が「真(まこと)の中の真(まこと)の出雲王国(物部(もののべ)氏)の言い伝え;本当の真実の出雲王国(物部(もののべ)氏)の伝承」を意味して、秀真国(ほつまこく;東海地方(富士山)と出雲王国(物部(もののべ)氏)の2国)を指(さ)して、富士山と出雲大社や古代の出雲大社の神魂(かもす)神社を指(さ)すと考えられる。
北緯35度22分の富士山と出雲大社を直線で、結(むす)んだ春分と秋分の日の直線上である「御来光(ごらいこう)の道」は、その直線上に神魂(かもす)神社があって、男性の古代太陽神の天照神(あまてるかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)と倭姫命(やまとひめのみこと)と神功(じんぐう)皇后を神格化)と女性の太陽神の天照大神(あまてらすおおみかみ;倭姫命(やまとひめのみこと)と神功(じんぐう)皇后を神格化)と経津主神(ふつぬしのかみ;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)と鹿島(かしま)神宮の武甕槌神(たけみかづちのかみ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)などを指(さ)す。
2026年6月14日の午後5時台は、僕にとっての最重要史料である『ホツマツタエ(秀真伝)』の本当の意味が判明して、僕の歴史研究の究極(最終的な答え)である集大成が結実した瞬間で、まだ道半(みちなか)ばで答えを求め続けて、永遠に終わりが無くて当然で、一生研究し続ける生涯(しょうがい;障害)の教訓である。
2026年8月1日の午前2時頃に起きる前に僕は、夢の中でまどろみながら、倭五狭芹彦命(やまといさせりひこのみこと)の系図に違和感を覚(おぼ)えて、起きて約10分後の午前2時10分頃に垂仁(すいにん)天皇の異母兄である倭彦命(やまとひこのみこと)の墓(はか)が倭五狭芹彦命(やまといさせりひこのみこと)の物を偽装工作したと気付いて、1時間後の午前3時すぎに倭五狭芹彦命(やまといさせりひこのみこと)の墓(はか)が岡山市付近にあると特定した。
また午前3時すぎに僕は、西国反乱(さいごくはんらん;兵庫県南部と岡山県と鳥取県西部と島根県東部の平定)の年代が垂仁(すいにん)天皇29年(西暦180年)の前年の垂仁(すいにん)天皇28年(西暦179年)も含(ふく)めると特定して、180度の逆転の発想でなく、360度以上の異次元世界に考え方が跳躍(ちょうやく)するような全(まった)く、別(べつ)の認識力や判断力の賜物(たまもの)である。
8月4日の朝に僕は、岡山県倉敷(くらしき)市の弥生時代後期後半築造の楯築墳丘墓(たてつきふんきゅうぼ)が垂仁(すいにん)天皇の皇后である日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)の墓(はか)と特定して、楯築墳丘墓(たてつきふんきゅうぼ)の特殊器台(きだい)土器が考古学(遺跡・遺物)で、最古の特殊器台埴輪(きだいはにわ)とも特定して、古墳時代前期前半築造の景行(けいこう)天皇古墳(景行(けいこう)天皇陵)の箸墓(はしはか)古墳で、出土した考古学(遺跡・遺物)の最古の特殊器台埴輪(きだいはにわ)が最古でなく、垂仁(すいにん)天皇の息子が景行(けいこう)天皇だから、時系列順を証明した。
弥生時代後期後半築造の楯築墳丘墓(たてつきふんきゅうぼ)の特殊器台(きだい)土器は、後世に最古の特殊器台埴輪(きだいはにわ)と再認識して、古墳時代前期前半築造の景行(けいこう)天皇古墳(景行(けいこう)天皇陵)の箸墓(はしはか)古墳で、出土した考古学(遺跡・遺物)の最古の特殊器台埴輪(きだいはにわ)が最古でなく、父親の垂仁(すいにん)天皇の皇后である日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)の墓(はか)が楯築墳丘墓(たてつきふんきゅうぼ)で、息子の景行(けいこう)天皇の墓(はか)が箸墓(はしはか)古墳だから、科学的・考古学的(遺跡・遺物)・歴史学(歴史書解釈)的に時系列順を証明した。
2026年8月2日の午後2時頃から午後5時51分まで記述を纏(まと)めた僕は、弟橘姫(おとたちばなひめ)の養子縁組(えんぐ)みと息子の神櫛皇子(かんぐしのみこ)の神格化を特定して、出雲王国(物部(もののべ)氏)の6代目出雲国王の彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと;神櫛皇子(かんぐしのみこ)と同一人物)が6代目・大物主神(おおものぬしのかみ)に神格化された過程(プロセス)を解明して、あまりに凄(すさ)まじすぎる大偉業となって、8月14日の午後8時46分まで記述を修正した。
『ホツマツタエ』綏靖(すいぜい)天皇2年は、景行(けいこう)天皇2年の西暦192年と、神武(じんむ)天皇76年(西暦276年)から数(かぞ)えて、2年目の西暦277年(摂政(せっしょう)17年)に当(あ)てはまって、『ホツマツタエ』が確実に西暦年を使用する証拠でもあって、摂政(せっしょう)17年9月11日(西暦277年10月頃)に71才で死去した神櫛皇子(かんぐしのみこ;彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)と同一人物)を奈良県桜井市の御神体山である三輪山山頂(さんちょう)の磐座(いわくら)に6代目・大物主神(おおものぬしのかみ)として、神格化して祭ったとも特定した。
2026年8月27日の午後6時頃に僕は、日高見(ひだかみ;東北地方南部のどこか)の常世(とこよ)の国(古代中国の後漢(ごかん)王朝)から、奈良県に帰還した田道間守(たじまもり;祖別命(みおやわけのみこと)と同一人物)の妻の花橘(はなたちばな)が古代中国人の可能性が高いと特定して、午後6時半頃に吉備(きび)氏系図で、吉備津彦(きびつひこ;祖別命(みおやわけのみこと)を祖先化)の子供の吉備武彦(きびたけひこ)を伝承する詳細系図の混乱理由を特定して、1時間以内に2つを特定した。
田道間守(たじまもり;祖別命(みおやわけのみこと)と同一人物)の妻の花橘(はなたちばな)は、記述の前後関係から、古代中国の後漢(ごかん)王朝から奈良県に帰還した後に登場して、どう考えても古代中国に出発する前に登場せず、古代中国人と考えるのが自然で、垂仁(すいにん)天皇の息子の祖別命(みおやわけのみこと)が妻を花橘(はなたちばな)として、その娘(孫娘の皇女)の弟橘姫(おとたちばなひめ)が古代中国人との混血と考えられる。
『ホツマツタエ』の吉備(きび)氏系図は、兄稚武彦命(えわかたけひこのみこと;祖別命(みおやわけのみこと)を祖先化)の子孫である吉備津彦(きびつひこ;祖別命を祖先化)の子供が吉備武彦(きびたけひこ)で、この日に特定した真実・事実が確実で、詳細系図が混乱する理由を100%証明したと思う。
2026年9月10日の午前11時分40頃に僕は、中央タクシーに乗って、ジャスコ(イオン)福知山店に向かう時、タクシー運転手に有力な古代豪族の弱体化を歴史談義して、後に文章化した史料作成をして、斉明(さいめい)天皇5年(西暦659年)か霊亀(れいき)2年(西暦716年)に出雲大社ができた可能性を特定して、養老3年3月22日(西暦719年4月16日)に京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社を作(つく)り終えて、「記紀(きき;『古事記』と『日本書紀』)」の総合監督の藤原不比等(ふじわらのふひと)が有力な古代豪族の祖先神を隠(かく)して、総合的に古代豪族を弱体化させた。
10月4日に僕は、藤原不比等(ふじわらのふひと)が有力な『古代豪族を弱体化させた理由』の章を作って、政治的・社会的・精神的・金銭的(きんせんてき)に弱体化させたと考えられて、『継体(けいたい)天皇の(皇位)継承問題』の章を作り終えて、僕にとっても天皇家(皇室)にとっても、決(けっ)して目を背(そむ)けてはならない超重要問題で、大切な意味・価値を理解する必要がある。
平群真鳥(へぐりのまとり)の反乱は、皇位継承者(男系男子天皇)を巡(めぐ)る内乱で、継体(けいたい)天皇の即位も、男系男子天皇の皇位継承問題で、継体(けいたい)天皇の直系子孫で、101代目天皇の今上(きんじょう)天皇(現在の天皇陛下)までも、旧11宮家の男系男子の養子問題も、男系男子天皇の皇位継承問題を解決する「きっかけ」かもしれず、女系(母系)の天照大神(あまてらすおおみかみ;台与(とよ)の神功(じんぐう)皇后を神格化)は、直系子孫の現在の天皇家(皇室)まで、血筋が続くと伝承して、現在の女系天皇と女性天皇の女性皇族の皇位継承問題を解決する「きっかけ」になるかもしれない。
超伝説的な超英雄と「芦田真也学(あしだしんやがく)」
僕本人にしか理解できない頭の回転スピード(考え方の進化スピード)は、現在進行形で超進化し続けて、2025年8月9日の午後から10月16日までの2ヶ月ちょっとで、13個ほどの大発見と理論修正を記録して、小さな発見を記録せず、12月28日から今年2026年現在まで、詳細な大発見と理論証明と考え方の変化を圧倒的に続けて、僕本人も驚愕(きょうがく)する超高速の思考能力で、今まで繰(く)り返す奇跡の神技(かみわざ)を起こした。
伝説的なイエス・キリストは、非実在説があるが、聖徳太子が確実に実在して、僕が生きる伝説的な英雄(武勇や才知などが優秀で、凡人にできないような事柄を成し遂げた人物)で、万能の天才レオナルド・ダ・ヴィンチや発明王トーマス・エジソンや20世紀最高の天才アルバート・アインシュタイン博士などと、分野や特徴や才能などの勝負も、一部分で確実に勝利して、現代日本人の大谷翔平や藤井壮太などの天才と、体力の野球と知力の将棋や古代日本史(古代天皇家の歴史)研究の違いも、地球と宇宙のような大差がある。
しかし僕は、桁外(けたはず)れな「超伝説的な超英雄」と呼ぶべきで、イエス・キリストや聖徳太子や彦坐王(ひこいますのみこ)なども、「超伝説的な超英雄」と呼べる同類のはずで、その理由を少なからず解説する。
イエス・キリストは、約2千年前の人物で、『聖書』に「神の子」と書くが、「神のひとり子(ご)」で、『旧約聖書』の予言(よげん)で、人間として地上に来た神様の子供の意味で、「神の子」が「神様そのもの」や「神様と同(おな)じ本質を持つ者」などの意味でもあって、「完全な人間」と同時に「完全な神様」の性質も存在して、33才の短(みじか)い人生でも、その功績が圧倒的で、ユダヤ教徒のユダヤ人で、キリスト教の創始者でも、彼自身がキリスト教を知らず、彼の死後にキリスト教が始(はじ)まった。
イエス・キリストは、12才で将来的(自分の未来で)に神様のために働(はたら)くことを理解して、家庭で両親から、会堂(集会用の建築物)で神官から、旧約聖書のことや律法などを学習して成長して、彼が公(おおやけ)に活動したのが30才頃で、彼が人々に洗礼(せんれい;自分の罪(つみ)を悔(く)い改(あらた)めて、神様に立ち返ると言う意味)を与(あた)えて、ユダヤ各地で神様の教(おし)えを人々に伝え広めて、彼を良く思わない人々が出現して、律法を頑固に守り続けたユダヤ教の祭司(さいし)や、パリサイ派の学者たちで、最終的に都市エルサレムで、十字架に磔(はりつけ)にして殺(ころ)された。
神様なのに態々(わざわざ)人間として地上に来たイエス・キリストは、「人間の罪(つみ)」だからで、人類の歴史の開始であるアダムとイブの時代から、人間が罪(つみ)を担(かつ)いで、その重荷(おもに)に苦(くる)しんだが、彼自身が生贄(いけにえ)で、血(ち)を流(なが)して、全人類の罪(つみ)を代(か)わりに担(かつ)いで、完全に排除(はいじょ)して、彼の贖(あがな)いを信じた者が神様と和解できて、神の元(もと)に行けるのがキリスト教の信仰(しんこう)で、彼が「超伝説的な超英雄」だけれど、正当化しすぎて存在しない非実在説を唱(とな)えても、全(まった)く不思議でない。
聖徳太子は、約1400年前の人物で、用明(ようめい)天皇の息子で、彼が中心になって、伯母(おば;父の姉)の推古(すいこ)天皇を擁立(ようりつ)して、十七条憲法(じゅうななじょうけんぽう)や冠位十二階(かんいじゅうにかい)などを作(つく)って、古代中国に遣隋使(けんずいし)を派遣(はけん)して、法隆寺(ほうりゅうじ)や四天王寺(してんのうじ)などを建(た)てて、古代天皇家の宗教の神道でなく、仏教を推進(すいしん)して、あまりにも伝説的な功績である。
しかし聖徳太子は、皇族でなく、現在より数十年から数百年後の未来人で、即位前の推古(すいこ)天皇時代にタイムスリップ(未来から過去に時間移動すること)して、『ホツマツタエ』16章に精子が骨と脂肪で、卵子が血液と内臓になって、胎内(たいない)の胎児(たいじ)の成長記録など、遺伝子レベルや現代医学レベルの超知識を古代の書物に記録して、「聖徳太子の地球儀」が20世紀前半に存在を言い出したムー大陸を刻(きざ)んで、黒船来航や現代日本を予言して、「超伝説的な超英雄」とするが、全(すべ)て現代の超知識を知っていたから、それだけの大偉業を達成できたと考えられる。
彦坐王(ひこいますのみこ)は、「記紀(きき;『古事記』と『日本書紀』)」にちょっとだけ登場する人物だが、出雲(いずも;島根県東部)王家(物部(もののべ)氏)などの古代太陽神氏族の最初の先祖で、複数の男性の古代太陽神に神格化して、彼を神格化した日本神話の神様たちが超重要で、大阪府と奈良県と京都府北部と兵庫県北部と鳥取県と島根県東部などを平定した総大将で、「超伝説的な超英雄」だが、「記紀(きき)」の総合監督の藤原不比等(ふじわらのふひと)が全てを隠(かく)して、彼の存在を超天才の僕が再現した。
イエス・キリストや聖徳太子や万能の天才ダ・ヴィンチや発明王エジソンや20世紀最高の天才アインシュタイン博士や大谷翔平や藤井壮太などは、しょせん奇跡や神技(かみわざ)を起こして、西暦712年に献上した『古事記』と西暦720年に献上した『日本書紀』から、1300年以上も後世の現代日本で、僕が古代日本史(古代天皇家の歴史)を再現して、全人類(僕以外の人間)に1300年以上前の考え方を伝えて、数十年から数百年の考え方の進化レベルでなく、まさに神技(かみわざ)の中の神技(かみわざ)や、奇跡の中の奇跡と言える。
その意味で僕は、「1300年に一度の天才」と自称して、日本神話の神々が実在した人物と物を神格化したと理論的に証明した意味で、「神様に最も近い人間」と自称して、20世紀最高の天才アインシュタイン博士と違って、21世紀が続いて、僕以上の天才が現れたなら、21世紀最高の天才と呼べないが、21世紀で最初の圧倒的な超天才が僕で、「21世紀最初の超天才」と自称した。
「古代日本史(古代天皇家の歴史)の父(ちち)」を自称する僕は、自分の歴史研究の成果で、日本中や世界中の国々や人々に正しい古代天皇家の歴史を伝承して、将来的な学問の基礎を作った偉人で、「現代歴史学(歴史書解釈)の父(ちち)」も自称して、「現代歴史書解釈の父(ちち)」とも同義で、現代の歴史書解釈の基本的な考え方も生み出して、後世に伝承する超重要な意味・価値を残(のこ)して、2つの称号があまりにも凄(すさ)まじすぎる。
超天才の僕は、歴史研究(古代天皇家の歴史)と人間の考え方と哲学と他(ほか)の多くの学問などの基礎を作り上げて、その功績や特徴や分析や人生経験なども超偉大で、一人の人間として器(うつわ)の大きさが違(ちが)うが、精神障害…統合失調症の自殺願望の持ち主で、問題だらけの欠陥品(けっかんひん)でも、「超伝説的な超英雄」と呼べるだろう。
僕本人を学(まな)ぶ「芦田真也学(あしだしんやがく)」は、僕の考え方や功績や特徴や分析や人生経験などを学習して、僕自身の考え続けた問(と)いかけを勉強して、後世の子供たちに託(たく)すことで、本領発揮(ほんりょうはっき)する未来志向型(しこうがた)の考え方で、その人の思い(想い)に直接触(ふ)れて、分析・研究して努力し続けて行くことが大切である。
子供のいない僕は、未来に自分の考え方(歴史研究の基礎理論)などを残(のこ)して、何(なに)もできなかった自分の悔(くや)しさや寂(さび)しさを知(し)らせて、他人に自分の考え方を教(おし)え教(おそ)わらせて、満足して死んで逝(い)きたいのだと思う。
<参考文献>
『神々の指紋(上)(下)』
著者:グラハム・ハンコック 発行・株式会社翔泳社
『BooksEsoterica第2号 神道の本 八百万の神々がつどう秘教的祭祀の世界』
発行・株式会社学習研究社
『日本書紀(上)(下)全現代語訳―全二巻―』
著者・宇治谷孟 発行・株式会社講談社
『古事記(上)(中)(下)―全三巻―』
著者・次田真幸 発行・株式会社講談社
『新訂 魏志倭人伝 他三篇―中国正史日本伝(1)―』
編訳者・石原道博 発行・株式会社岩波書店
『アマテラスの誕生』
著者・筑紫申真 発行・株式会社講談社
『ホツマ辞典』
著者・池田満 発行・ホツマ刊行会
同名の2冊の『私という存在』のノート
著者・僕
『古代日本史への挑戦』
著者・僕 発行・株式会社オカムラ
『「バカになれる男が勝つ!」』
著者・中村修二 発行・株式会社三笠書房
『続・私の半生と古代日本史』
著者・僕 発行・株式会社オカムラ
『完訳秀真伝』
編著者・鳥居礼 発行・八幡書店
インターネットの不明サイトから少々拝借
https://www.youtube.com/watch?v=yzkBUkLsEyo
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