都怒我阿羅斯等(蘇那葛叱智)と崇神天皇の後継者選び
黒字は、僕の自論や完全解釈などで、赤字が日本神話の神々と特徴などで、緑字が僕の修正した神武(じんむ)天皇から仁徳(にんとく)天皇の時代までの()内の年代である。
都怒我阿羅斯等(蘇那葛叱智)
『ホツマツタエ』の都怒我阿羅斯等(つのがあらしと)は、別人の蘇那葛叱智(そなかしち)と同一人物で、古代朝鮮国家の加羅国(からのくに)の王子で、父親が于斯岐阿利叱等(うしきありしと)と考えられて、都怒我阿羅斯等(つのがあらしと)が福井県敦賀(つるが)市の地名の由来(ゆらい)で、崇神(すじん)天皇58年(西暦141年)に加羅国(からのくに)の使者として来て、垂仁(すいにん)天皇7年(西暦158年)に断交するまで、歴史に登場した。
于斯岐阿利叱等(うしきありしと)の息子の都怒我阿羅斯等(つのがあらしと)は、『日本書紀』の都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が間違った呼び名で、于斯岐阿利叱等(うしきありしと)が加羅国(からのくに)の国王でなく、王族の一人の人名で、都怒我阿羅斯等(つのがあらしと;蘇那葛叱智(そなかしち)と同一人物)が古代天皇家の大和国(やまとのくに)に派遣された使者で、この時代に大和国(やまとのくに)が近畿(きんき)地方全体や鳥取県や島根県や岐阜県などを領土とした一大統一国家と考えられる。
垂仁(すいにん)天皇5年から7年(西暦156年から158年)の倭国大乱(わこくたいらん;狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱)は、2026年6月14日の午前5時台に加羅国(からのくに;任那国:みまなのくに)と敵国の新羅国(しらぎのくに)が参戦したと特定して、同盟国の邪馬台国(大和国;やまとこく)の垂仁(すいにん)天皇と加羅国(からのくに;任那国:みまなのくに)の都怒我阿羅斯等(つのがあらしと)が敵国(もう一つの同盟国)の出雲王国(物部(もののべ)氏)の狭穂彦王(さほひこのみこ)と新羅国(しらぎのくに)との対立を特定して、以前から参戦の可能性に気付いていた。
加羅国(からのくに)は、王都が釜山(プサン)市の近くの金海(キメ)市で、建国が西暦43年と伝承して、西暦146年に古代天皇家が任那国(みまなのくに)と国名を名付けて、記述の信頼性が高くて、『三国志・魏志倭人伝』の狗邪韓国(くやかんこく)に当たって、414年の広開土王碑(こうかいどおうひ)で、任那加羅(みまなから)が史料の初見となる。
弥生時代中期(紀元前4〜3世紀)以降の狗邪韓国(くやかんこく;金官国)となる地域は、従来の土器と様式の異なる弥生土器が急増して、狗邪韓国(くやかんこく;金官国)につながる日本人が進出したと考えられる。
1世紀中頃に社会統合は進んで、弁韓(べんかん)諸国が登場して、2〜3世紀に朝鮮半島東南部が辰韓(しんかん)と弁韓(べんかん)に分かれて、弁韓(べんかん)地域で一番有力なのが狗邪韓国(くやかんこく)で、金官国(きんかんこく)や駕洛国(からこく)とも言う。
4世紀末から5世紀前半に古代天皇家は、高句麗(こうくり)と激しく戦争して、新羅(しらぎ)と百済(くだら)と加羅(から)を巻き込んで、5世紀後半以降から大加羅国(だいからこく)を中心とする諸国の連合体(後期加羅連盟)ができて、6世紀の532年に任那(みまな)の金官国が新羅(しらぎ)に降伏して、562年に大加羅国(高霊)が新羅(しらぎ)に滅(ほろ)ぼされて、残る任那(みまな)諸国が新羅(しらぎ)に合併した。
加羅国(からのくに)と任那国(みまなのくに)は、同一国でもあるが、広義と狭義の意味で使われて、ややこしい研究結果で歴史が成立して、崇神(すじん)天皇58年8月(西暦141年9月頃)に都怒我阿羅斯等(つのがあらしと;蘇那葛叱智(そなかしち)と同一人物)が福井県敦賀(つるが)市に来日して、西暦141年以前から存在したと考えられる。
『ホツマツタエ』崇神(すじん)天皇58年8月(西暦141年9月頃)に崇神(すじん)天皇は、敦賀(つるが)の気比大神(けひおおかみ)の社(やしろ;福井県敦賀(つるが)市の気比(けひ)神宮)に参拝されて、諸臣が祝った時に頭に一つの角がある兜(かぶと)をかぶった者が敦賀(つるが)の松原に漂流して来て、船から上げて話しかけると言葉が全く聞き取れず、家臣の良武(よしたけ)がこの言葉をよく知っていたので質問させた。
良武(よしたけ)が答えて言うには、「私は加羅国(からのくに)の王子の都怒我阿羅斯等(つのがあらしと)で、父の名が于斯岐阿利叱等(うしきありしと)である。
伝え聞く所の東国仙境の聖(ひじり)の君に服従せんと穴門(あなと;山口県西半分)に着き、その地で伊都都比古(いつつひこ)なる者が私に申すには、『この国の君は私で、ここに居れ』と言ったが、人となりを見て全く君としての気品がなく、さらに進んで都路がどこかと津々浦々島々を訪ね歩きて、出雲を経てようやくここにたどり着いた。すると神祭りをする君がここにおられた」と。
これにより都怒我阿羅斯等(つのがあらしと)は、召(め)し仕えさせれば、大変に忠義深く、5年目(崇神(すじん)天皇63年;西暦146年)に都怒我阿羅斯等(つのがあらしと)の国を讃(たた)えて、崇神(すじん)天皇の国風諡号(しごう)の御間城入彦五十瓊殖尊(みまきいりひこいそにえのみこと)が「みま」の呼び方から、加羅国(からのくに)に任那(みまな)の国号を与えて、都怒我阿羅斯等(つのがあらしと)にカゾ峰錦(みねにしき)を国の土産(みやげ)として、母国に帰って行って、これが任那国(みまなのくに)の始まりである。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の崇神(すじん)天皇58年8月(紀元前40年9月頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の崇神(すじん)天皇58年8月(西暦141年9月頃)が正しい。)
『ホツマツタエ』崇神(すじん)天皇58年(西暦141年)は、垂仁(すいにん)天皇7年(西暦158年)とも合致して、『ホツマツタエ』が崇神(すじん)天皇58年と西暦158年を合致させて、垂仁(すいにん)天皇7年8月(西暦158年9月頃)に当てはまらないのが明白で、超天才の僕の解釈に間違いないと考えられる。
崇神(すじん)天皇58年頃(西暦141年頃)に穴門国(あなとのくに;山口県西半分)の国王の伊都都比古(いつつひこ)は、都怒我阿羅斯等(つのがあらしと;蘇那葛叱智(そなかしち)と同一人物)が出会った古代天皇家の大和国(やまとのくに)の敵対者で、大和国(やまとのくに)と外交する前に会った人物で、崇神(すじん)天皇58年8月(西暦141年9月頃)に出雲王国(物部(もののべ)氏)の初代出雲国王の彦坐王(ひこいますのみこ)が命令して、滅亡させらなかった敵国で、景行(けいこう)天皇12年(西暦202年)までに穴門国(あなとのくに)が滅亡したと考えられる。
崇神(すじん)天皇63年(西暦146年)に都怒我阿羅斯等(つのがあらしと;蘇那葛叱智:そなかしち)が帰国する時は、崇神(すじん)天皇の国風諡号(しごう)の御間城入彦五十瓊殖尊(みまきいりひこいそにえのみこと)が「みま」の呼び方から、加羅国(からのくに)に任那(みまな)の国号(任那国;みまなのくに)を与えて、崇神(すじん)天皇63年(西暦146年)と垂仁(すいにん)天皇5年(西暦156年)の年数が合致するように偽装工作して、混乱させたと考えられる。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の崇神(すじん)天皇63年(紀元前35年)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の崇神(すじん)天皇63年(西暦146年)が正しい。)
『ホツマツタエ』の気比大神(笥飯大神;けひおおかみ)は、福井県敦賀(つるが)市の気比(けひ)神宮の「けひのおおかみ」が正しい神名で、『日本書記』応神(おうじん)天皇時代に生まれたばかりの誉田別尊(ほむだわけのみこと;即位しない応神(おうじん)天皇)と笥飯大神(けひのおおかみ)の別名の去来紗別神(いざさわけのかみ)の名前を入れ替えて、元々の誉田別尊(ほむだわけのみこと)の人名の去来紗別尊(いざさわけのみこと)と伝えるが、そのような記録がなくて、正しいか分からないと記す。
ただし笥飯大神(けひのおおかみ)は、別名の去来紗別神(いざさわけのかみ)の神名から、天日槍(あめのひぼこ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の持って来た胆狭浅太刀(いであさのたち)を思わせて、超天才の僕が笥飯大神(けひのおおかみ;去来紗別神:いざさわけのかみ)の正体を奈良県天理市の東大寺山(古墳出土)鉄刀の可能性を指摘するが、笥飯大神(けひのおおかみ)が彦坐王(ひこいますのみこ)の亡くなる前に神格化された結果になって、未来の研究者たちにヒントを残(のこ)す。
『ホツマツタエ』で、時に都怒我阿羅斯等(つのがあらしと)は、母国に帰る途中で、崇神(すじん)天皇より拝領した土産(みやげ)の品を新羅国(しらぎのくに)の者に奪(うば)われて、新羅国(しらぎのくに)と戦争になった。
任那国(みまなのくに)の使者は、崇神(すじん)天皇に告(つ)げて、「我が国の東北は、上中下に広がり国土が広く四方に三百程(のり)の肥沃(ひよく)な土地を有して、国民が豊かに暮らす。今すでに新羅(しらぎ)の軍を鎮圧できなくて、戦いに明け暮れていれば、国民が苦しむばかりです。
臣(おみ)に願(ねが)わくは、国平(くにむ)けの勅使(ちょくし)を遣(つか)わして下さい」と。
崇神(すじん)天皇と家臣は、審議して崇神(すじん)天皇が言って、「彦国葺(ひこくにふく)の孫の潮乗津彦(しおのりつひこ)を差し向けよう。
これはよい家臣である」と言われて、そして潮乗津彦(しおのりつひこ)が頭に3つの瘤(こぶ)があって、松(まつ)の君(きみ)と呼ばれて、背丈が一丈五咫(ひたけいた)で、八十人力を誇りとして、勇猛なことこの上ない人物だった。
崇神(すじん)天皇は、「潮乗津彦(しおのりつひこ)が任那国(みまなのくに)を助ける将軍とする。
渡り行き外国を平定する道司(みちつかさ)という名を授ける。
無事に帰れば吉(よし)」と言われ、潮乗津彦(しおのりつひこ)に吉(よし)という姓(せい)を授(さず)けた。
崇神天皇63年(西暦146年)に都怒我阿羅斯等(つのがあらしと;蘇那葛叱智(そなかしち)と同一人物)は、加羅国(からのくに)に帰国する途中で、下賜品(かしひん)の土産(みやげ)を新羅国(しらぎのくに)に奪(うば)われて、新羅国(しらぎのくに)の軍勢を討伐する武将の潮乗津彦(しおのりつひこ)を派遣して、古代天皇家が初めて外国と戦争した。
古代の朝鮮半島南東部にあった新羅国(しらぎのくに)は、建国が紀元前57年で、当初が国名を斯蘆(しろ)と称して、西暦503年に正式な国名を新羅(しらぎ)にして、『三国史記』新羅本紀が辰韓(しんかん)の斯蘆国(しろのくに)時代から一貫した新羅(しらぎ)の歴史を記すが、4世紀の17代目・奈勿王(なもつおう)以降が史実(歴史上の事実)で、『ホツマツタエ』で、2世紀中頃の崇神(すじん)天皇63年(西暦146年)に実在して、国家の実在年代を引き上げて、西暦935年に滅亡した。
新羅(しらぎ)は、朝鮮半島北部の高句麗(こうくり)と朝鮮半島南西部の百済(くだら)との並立時代を経過して、7世紀中頃までに朝鮮半島中部以南をほぼ統一して、高麗(こうらい)と李氏(りし)朝鮮に続く後世の朝鮮半島国家の祖形となって、内乱や飢饉(ききん)で、国力を弱体化して、高麗(こうらい)に降伏して、国が滅亡した。
6世紀中頃に新羅(しらぎ)は、朝鮮半島中南部の加羅(から)諸国を滅亡させて、その支配下に置いて、7世紀に古代中国の唐(とう)が西暦660年に百済(くだら)で、西暦668年に高句麗(こうくり)を滅亡させる過程で、新羅(しらぎ)が唐(とう)軍の指揮下で、軍事的に協力した。
その後に唐(とう)は、吐藩(とばん;7世紀初めから9世紀中頃のチベットの統一王国)と戦争を開始すると、新羅(しらぎ)が反旗を翻(ひるがえ)して、旧百済(くだら)領の全域と旧高句麗(こうくり)の南半分を統治した唐(とう)の役所を襲撃して、官員を殺して、新羅(しらぎ)が朝鮮半島中南部の統一に成功して、首都(国都)がだいたい金城(現在の慶尚北道慶州市)に置いた。
9世紀末に新羅(しらぎ)の国力は、衰退して百済(くだら)と高句麗(こうくり)の再興を目指す勢力が台頭して、後百済(ごくだら)と後高句麗(ごこうくり)との三つ巴の抗争になって、最終的に新羅(しらぎ)が後高句麗(ごこうくり)から興(おこ)った高麗(こうらい)に帰順して、その歴史を終えた。
彦国葺(ひこくにふく)は、和珥(わに)氏の人物で、彦坐王(ひこいますのみこ)に当たって、潮乗津彦(しおのりつひこ)が彦坐王(ひこいますのみこ)の孫で、実在したと考えられて、古代朝鮮国家の任那国(みまなのくに)と新羅国(しらぎのくに)が実在した国で、任那国(みまなのくに)と新羅国(しらぎのくに)がしばらく『ホツマツタエ』と「記紀」に登場しなくて、存在感を薄(うす)くした。
崇神天皇63年(西暦146年)に任那国(みまなのくに)の敵対国の新羅(しらぎ)は、『ホツマツタエ』から実在して、古代天皇家が任那国(みまなのくに;加羅国:からのくに)に援軍を差し向けたと考えられる。
2025年9月22日の昼食中に僕は、崇神(すじん)天皇58年8月(西暦141年9月頃)に朝鮮半島の任那国(みまなのくに;加羅国:からのくに)の王子の都怒我阿羅斯等(つのがあらしと;蘇那葛叱智(そなかしち)と同一人物)が来日して、朝鮮半島から鉄製品を輸入して、日本海側の京都府と兵庫県と鳥取県と島根県で、弥生時代後期に鉄製品が大量出土して、景行(けいこう)天皇12年から19年(西暦202年から209年)に九州全土を平定して、弥生時代の北九州の鉄製品が出土数を全国一位で、古墳時代初頭から奈良県周辺で、鉄製品が大量出土して、鉄製品急増の理由を求めた大革命である。
日本海側の京都府北部と兵庫県北部と鳥取県と島根県東部は、崇神(すじん)天皇11年から12年(西暦94年から95年)に統治下に入って、以前から朝鮮半島の鉄製品を仕入れたが、明確な外交関係がないために少量で、崇神(すじん)天皇58年8月(西暦141年9月頃)から任那国(みまなのくに;加羅国:からのくに)と外交を始めて、弥生時代後期の日本海側で、鉄製品が大量出土して、鉄製品が重くて運べないために奈良県周辺で出土せず、朝鮮半島と鉄器生産の関係を考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)で証明した。
古代天皇家と外交関係を結(むす)んだ古代朝鮮国家の任那国(みまなのくに;加羅国:からのくに)は、朝鮮半島から鉄製品を仕入れるルートが完成して、朝鮮半島との外交上の損得利益を考えて、王子の都怒我阿羅斯等(つのがあらしと;蘇那葛叱智(そなかしち)と同一人物)を好待遇したはずで、任那国(加羅国)の西南にある新羅国(しらぎのくに)に下賜品(かしひん)の土産(みやげ)を奪(うば)われて、新羅国(しらぎのくに)が古代天皇家と外交関係を結(むす)ぼうとしたが、強奪が判明して戦争状態に突入して、古代朝鮮国家との外交関係の縺(もつ)れと考えられる。
大きく取り上げない鉄製品は、崇神(すじん)天皇58年8月(西暦141年9月頃)から垂仁(すいにん)天皇7年7月(西暦158年8月)までの任那国(みまなのくに;加羅国:からのくに)との外交関係を考えると、朝鮮半島から鉄製品を仕入れるルートとして、他にも多くの利益を生む超重要な外交カードで、その意味・価値を正しく理解しないといけない。
『ホツマツタエ』崇神(すじん)天皇62年7月1日(西暦145年8月上旬頃)に詔(みことのり;天皇の述べた言葉)して、「国民は国の元力で、頼みとする所である。
しかし河内(かわち;大阪府東部)の狭山(大阪狭山市付近)が水不足で、国民が農耕をできずにいる。
日々の仕事ができなければやがて国の災いとなろう。依網(よさみ)と苅坂(かりさか)と反折(かえおり)に池を掘らせよう」と言われて、桑間(くわま)の宮(大阪市住吉区粉浜町付近か?)に崇神天皇が行かれた。
『日本書紀』崇神(すじん)天皇62年10月(西暦145年11月頃)は、依網(よさみ)の池を作って、苅坂(かりさか)と反折(かえおり)の池を作った。
弥生時代後期にため池掘りは、考古学的証拠の出土が難しいが、史実(歴史上の事実)と考えられる。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の崇神(すじん)天皇62年(紀元前36年)は、完全な間違いで、求めた僕の自論の崇神(すじん)天皇62年(西暦145年)が正しい。)
『ホツマツタエ』崇神天皇65年7月(西暦148年8月頃)に任那国(みまなのくに)は、使者の蘇那葛叱智(そなかしち)を派遣して、貢物(みつぎもの)を贈って、任那国(みまなのくに)の位置が筑紫(つくし;九州)から北へ二千程(のり)の海をへだて、新羅国(しらぎのくに)の西南にある。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の崇神(すじん)天皇65年7月(紀元前33年8月頃)は、完全な間違いで、求めた僕の自論の崇神(すじん)天皇65年7月(西暦148年8月頃)が正しい。)
『ホツマツタエ』崇神天皇65年7月(西暦148年8月頃)は、任那国(みまなのくに;加羅国:からのくに)の使者の都怒我阿羅斯等(つのがあらしと;蘇那葛叱智:そなかしち)が貢物(みつぎもの)を贈って朝貢(ちょうこう)して、この年に古代天皇家が古代朝鮮国家の新羅国(しらぎのくに)と戦争したか分からず、任那国(みまなのくに;加羅国:からのくに)の西南に新羅国(しらぎのくに)があると記すだけで、拡大解釈してはならない。
都怒我阿羅斯等(蘇那葛叱)は、加羅国(からのくに;任那国:みまなのくに)の王子で、歴史学(歴史書解釈)に基づく記述から実在して、邪馬台国(大和国;やまとこく)を左右する超重要人物である。
崇神天皇の後継者選び
『ホツマツタエ』崇神(すじん)天皇48年1月10日(西暦131年2月上旬頃)の崇神天皇の後継者選びは、2026年6月14日の午前5時台に垂仁(すいにん)天皇5年から7年(西暦156年から158年)の倭国大乱(わこくたいらん;狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱)に加羅国(からのくに;任那国:みまなのくに)と敵国の新羅国(しらぎのくに)が参戦したと特定して、さらに崇神(すじん)天皇68年1月10日(西暦151年2月上旬頃)に年代修正したのが正しいと証明して、連鎖的な特定条件の判明だった。
崇神(すじん)天皇68年1月10日(西暦151年2月上旬頃)は、兄の豊城彦命(とよきひこのみこと)を秀真司(ほつまつかさ;出雲国(いずものくに)を統治する役人などの上司;じょうし)に任命して、弟の垂仁(すいにん)天皇を皇太子に任命して、2人が三輪山(みわやま)の大物主神(おおものぬしのかみ;出雲王国(物部(もののべ)氏)の夢を見て、垂仁(すいにん)天皇5年から7年(西暦156年から158年)の狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱で、豊城彦命(とよきひこのみこと)の息子の八綱田(やつなた)が武将で登場して、特定する条件が揃(そろ)った。
『ホツマツタエ』崇神(すじん)天皇48年1月10日に息子の豊城入彦(とよきいりひこ)と活目入彦(いくめいりひこ)に父親の崇神(すじん)天皇は、詔(みことのり;天皇の述べた言葉)して、「お前たち兄弟が備(そな)え持つ恵みが等(ひと)しく、どちらを世継ぎに立てるか判断しかねる。
そこで世継ぎに関する夢を見よ」と。
それで兄弟は、共(とも)に湯浴(やあ)びをして心身を清(きよ)めて、その夜に夢をご覧(らん)になって、翌日に兄の豊城入彦(とよきいりひこ)が「三諸山(みもろやま;三輪山(みわやま)のこと)の上で東に向(む)いて、8度矛(ほこ)で突(つ)いた」と言って、弟の活目入彦(いくめいりひこ)が「三諸山(みもろやま;三輪山(みわやま)のこと)の上に四方(しほう)へ縄(なわ)を張(は)って、雀(すずめ)を追(お)った」と言う。
崇神(すじん)天皇は、息子2人の夢を考えて、「兄が見た夢は、ただ東に向(む)いているばかりなので、東国(とうごく)の秀真国(ほつまこく;東海地方)を治(おさ)めよ。
また弟は、四方(しほう)に縄(なわ)を張(は)って、また雀(すずめ)を追(お)ったことが国民の穀物を守護するという兆(きざ)しである。
活目入彦(いくめいりひこ)は、四方(しほう)の国民を治める世継ぎ皇子(みこ;皇太子)とする」と。
4月19日(5月中旬頃)に父の崇神(すじん)天皇は、詔(みことのり;天皇の述べた言葉)して、「活目入彦五十狭茅(いくめいりひこいそさち;後の垂仁(すいにん)天皇)を立てて皇太子として、兄の豊城入彦(とよきいりひこ)を秀真司(ほつまつかさ;東海地方を統治する役人などの上司;じょうし)の統治者に任命する」と。
『ホツマツタエ』崇神(すじん)天皇48年1月10日(西暦131年2月上旬頃)は、崇神(すじん)天皇68年1月10日(西暦151年2月上旬頃)が正しくて、92才か102才で後継者を決めるべき時で、崇神(すじん)天皇が皇后との息子2人(豊城入彦(とよきいりひこ)と活目入彦(いくめいりひこ)に課題を出した。
一晩(ひとばん)考えた息子2人は、翌日1月11日に兄の豊城入彦(とよきいりひこ)が三輪山(みわやま)の大物主神(おおものぬしのかみ;出雲王国(物部(もののべ)氏)のこと)が東(出雲から見た大和)に向(む)かって、矛(ほこ)で突(つ)く(反逆する可能性)を父の崇神(すじん)天皇に伝えて、弟の活目入彦(いくめいりひこ)が三輪山(みわやま)の大物主神(おおものぬしのかみ;出雲王国(物部(もののべ)氏)のこと)に四方(しほう)へ監視網(かんしもう)を張(は)って、出雲王国(物部(もののべ)氏)の監視が大切と訴(うった)えた。
崇神(すじん)天皇は、息子2人の考えを聞いて、「兄の豊城入彦(とよきいりひこ)は、ただ東(西が正しい)に目を向(む)いているばかりなので、東国(とうごく)の秀真国(ほつまこく;東海地方でなく、西国(さいごく)である秀真国(ほつまこく;本当の真実の出雲王国(物部(もののべ)氏)の意味)を治(おさ)めよ。
また弟は、出雲王国(物部(もののべ)氏)を四方(しほう)へ監視網(かんしもう)を張(は)って、また出雲王国(物部(もののべ)氏)を注意することが国民の穀物を守護するという兆(きざ)しである。
活目入彦(いくめいりひこ)は、四方(しほう)の国民を治める皇太子とする」と。
4月19日(5月中旬頃)に父の崇神(すじん)天皇は、詔(みことのり;天皇の述べた言葉)して、「活目入彦五十狭茅(いくめいりひこいそさち;後の垂仁(すいにん)天皇)を立てて皇太子として、兄の豊城入彦(とよきいりひこ)を秀真司(ほつまつかさ;東海地方でなく、出雲王国(物部(もののべ)氏)を統治する役人などの上司;じょうし)の統治者に任命する」と。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の崇神(すじん)天皇48年(紀元前50年)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の崇神(すじん)天皇68年(西暦151年)が正しい。)
『ホツマツタエ』崇神(すじん)天皇26年11月1日(西暦109年12月上旬頃)に崇神(すじん)天皇と皇后の御井津比売(みいつひめ)は、長男の豊城彦命(とよきひこのみこと)が生まれて、崇神(すじん)天皇29年1月1日(西暦112年2月上旬頃)に次男の垂仁(すいにん)天皇が生まれて、崇神(すじん)天皇68年(西暦151年)に皇后の実子2人で、後継者選びをした。
豊城彦命(とよきひこのみこと)の子孫が統治した秀真国(ほつまこく;東海地方)は、上毛野氏(かみつけの;群馬県の統治氏族)と下毛野氏(しもつけの;栃木県の統治氏族)を指すが、東国(とうごく)の秀真国(ほつまこく;東海地方でなく、西国(さいごく)である秀真(ほつま;本当の真実の出雲王国(物部(もののべ)氏)の意味)から、『ホツマツタエ(秀真伝)』の本当の意味が秀真国(ほつまこく;東海地方(富士山)と出雲王国(物部(もののべ)氏)の2国)を指(さ)して、富士山と出雲大社や古代の出雲大社の神魂(かもす)神社を指(さ)すと考えられる。
『ホツマツタエ(秀真伝)』の本当の意味は、「真(まこと)の中の真(まこと)の出雲王国(物部(もののべ)氏)の言い伝え;本当の真実の出雲王国(物部(もののべ)氏)の伝承」を意味して、北緯35度22分の富士山と出雲大社を直線で、結(むす)んだ春分と秋分の日の直線上である「御来光(ごらいこう)の道」の直線上に神魂(かもす)神社があって、天日隅宮(あめのひすみのみや)と呼ぶ出雲大社と共に神魂(かもす)神社が太陽信仰の超重要な神社でもあって、富士山と神魂(かもす)神社と出雲大社の超関連性を指(さ)すと考えられる。
『ホツマツタエ(秀真伝;真(まこと)の中の真(まこと)の言い伝え:本当の真実の伝承)』の本当の意味は、「真(まこと)の中の真(まこと)の東海地方(富士山)と出雲王国(物部(もののべ)氏)の2国の言い伝え;本当の真実の富士山と出雲王国(物部(もののべ)氏)の伝承」と考えられて、北緯35度22分の富士山と出雲大社を直線で、結(むす)んだ春分と秋分の日の直線上(北緯35度22分の「御来光(ごらいこう)の道」)が超重要で、日本国(邪馬台国;大和国:やまとこく)のレイライン(太陽の道)の本質と考えられる。
北緯35度22分の「御来光(ごらいこう)の道」は、富士山と出雲大社と古代の出雲大社の神魂(かもす)神社を結(むす)ぶ直線(太陽の道のレイライン)で、男性の古代太陽神の天照神(あまてるかみ;先祖の彦坐王(ひこいますのみこ)と子孫の倭姫命(やまとひめのみこと)と神功(じんぐう)皇后を神格化)と女性の太陽神の天照大神(あまてらすおおみかみ;卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)と台与(とよ)の神功(じんぐう)皇后を神格化)を指(さ)して、新旧の太陽神と古代太陽信仰の痕跡(こんせき)である。
出雲王国(物部(もののべ)氏)の子孫である香取(かとり)神宮の経津主神(ふつぬしのかみ;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)と鹿島(かしま)神宮の武甕槌神(たけみかづちのかみ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)は、日本武(やまとたけ)天皇元年(西暦252年)に中部(東海)地方の富士山を統治下に置いて、仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月10日から17日(西暦260年11頃)に出雲王国(物部(もののべ)氏)を崩壊(ほうかい)させて、秀真国(ほつまこく;東海地方(富士山)と出雲王国(物部(もののべ)氏)の2国)を指(さ)す。
経津主神(ふつぬしのかみ;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)と武甕槌神(たけみかづちのかみ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)は、東日本平定(中部地方から東北地方南部の平定)と出雲王国(物部(もののべ)氏)の崩壊(ほうかい)で、活躍した武神(軍神;いくさがみ)で、太陽神で母方の天照大神(あまてらすおおみかみ;台与(とよ)の神功(じんぐう)皇后を神格化)を支(ささ)えた忠臣(ちゅうしん;真心(まごころ)を尽(つ)くして、主君に仕(つか)える家臣)で、邪馬台国(大和国;やまとこく)の基盤を作った。
鹿島(かしま)神宮のレイライン(太陽の道)は、鹿島(かしま)神宮の「東の一の鳥居(とりい)」から昇(のぼ)る夏至(げし)の朝日の延長線が天皇陛下の住む皇居、日本の霊峰の富士山、太陽神の天照大神(あまてらすおおみかみ;倭姫命(やまとひめのみこと)と神功(じんぐう)皇后を神格化)を祭る伊勢神宮、標高1955メートルの剣山(つるぎさん)、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと;誉田別尊:ほむだわけのみこと:即位しない応神(おうじん)天皇)が天孫降臨した山の高千穂峰(たかちほみね)、標高1592メートルの活火山の阿蘇山(あそざん)が位置して、パワースポット(強力で神秘的な場所)とされる。
『日本書紀』安閑(あんかん)天皇元年(西暦534年)は、武蔵国造(むさしくにみやつこ;東京都と埼玉県の全域と神奈川県東部の統治者で、天穂日命(あめのほひのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)を祖先神とする。)の子孫の笠原直使主(かさはらのあたいのおみ)と同族の小杵(おき)が国造(くにみやつこ;統治者)の地位を争(あらそ)って、長年を決着しなくて、これを武蔵国造(むさしくにみやつこ)の乱(らん)と言う。
小杵(おき)は、性格が激(はげ)しくて、人に逆(さか)らって、傲慢(ごうまん)で素直(すなお)でなく、密(ひそ)かに上毛野小熊(かみつけののおくま;豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の子孫)に助力を求めて、使主(おみ;笠原直使主)を殺そうとして、垂仁(すいにん)天皇5年から7年(西暦156年から158年)の倭国大乱(わこくたいらん;狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱)で、小杵(おき)の先祖の狭穂彦王(さほひこのみこ)が上毛野小熊(かみつけののおくま)の先祖の豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の軍勢に殺された因縁(いんねん)が発生した。
使主(おみ;笠原直使主)は、それに気付いて逃(に)げ出して、京(みやこ;皇居)に至(いた)って、罪状を言上(げんじょう)して、朝廷で裁断を下(くだ)して、使主(おみ;笠原直使主)を国造(くにみやつこ;武蔵国造:むさしくにみやつこ)として、小杵(おき)を誅(ちゅう)された(殺された)。
国造(くにみやつこ;武蔵国造:むさしくにみやつこ)の使主(おみ;笠原直使主)は、恐懼(きょうぐ;「恐(おそ)れた」の意味)感激して、黙(だま)っていられなくて、帝(みかど;安閑(あんかん)天皇)のために横渟(よこぬ)・橘花(たちばな)・多氷(おおひ)・倉樔(くらす)の4ヶ所の屯倉(みやけ;天皇や大和朝廷が直接支配した直轄(ちょっかつ)の農業経営地と、その拠点となる倉庫・役所施設)を設(もう)けて奉(たてまつ)った。
天穂日命(あめのほひのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)を祖先神とする武蔵国造(むさしくにみやつこ;東京都と埼玉県の全域と神奈川県東部の統治者)の子孫の笠原直使主(かさはらのあたいのおみ)と同族の小杵(おき)は、2代目出雲国王の狭穂彦王(さほひこのみこ)の直系子孫で間違いなくて、日本武尊(やまとたけのみこと)の直系子孫と証明できず、上毛野小熊(かみつけののおくま)が間違いなく、豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の直系子孫と考えられて、天穂日命(あめのほひのみこと)が出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏の祖先神で、千家(せんげ)氏の先祖が出雲王家(物部(もののべ)氏)である。
4ヶ所の屯倉(みやけ;天皇や大和朝廷が直接支配した直轄(ちょっかつ)の農業経営地と、その拠点となる倉庫・役所施設)は、横渟屯倉(よこぬのみやけ)が武蔵国横見郡(おそらく現在の埼玉県比企郡吉見町)、橘花屯倉(たちばなのみやけ)が武蔵国橘樹郡御宅郷(現在の神奈川県川崎市幸区北加瀬から横浜市港北区日吉の付近か?)、多氷屯倉(おおひのみやけ)が武蔵国多磨郡(たまぐん;のちの多摩郡:現在の東京都あきる野市か?)、倉樔屯倉(くらすのみやけ)の「倉樔」が「倉樹」の書き間違いなら、武蔵国久良郡(くらきぐん;のちの久良岐郡:現在の神奈川県横浜市で、特に南東部か?)と考えられて、ウィキペディアを参照した。
崇神(すじん)天皇の後継者選びは、崇神(すじん)天皇68年(西暦151年)に大和国(やまとのくに)の崇神(すじん)天皇が属国の出雲王国(物部(もののべ)氏)を監視する息子の豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)を任命して、内乱(皇位継承権争い)を防止する意味だが、結果的に垂仁(すいにん)天皇5年(西暦156年)の倭国大乱(わこくたいらん;狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱)が起きた。
<参考文献>
『古代日本史への挑戦』
著者・僕 発行・株式会社オカムラ
『続・私の半生と古代日本史』
著者・僕 発行・株式会社オカムラ
『日本書紀(上)(下)全現代語訳―全二巻―』
著者・宇治谷孟 発行・株式会社講談社
『古事記(上)(中)(下)―全三巻―』
著者・次田真幸 発行・株式会社講談社
『完訳秀真伝(上巻)(下巻)』
編著者・鳥居礼 発行・八幡書店
『ホツマ辞典』
著者・池田満 発行・ホツマ刊行会
インターネットの不明サイトから少々拝借
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