藤原氏の系図

藤原氏の系図は、『ホツマツタエ』を基に2020年5月頃に初めて作成して、2022年6月1日に日本武尊(やまとたけのみこと)の不倫が確定して、兵主(つわものぬし)を知って、2023年1月24日にネット検索で、『富士宮下文書(ふじみやしたもんじょ)』が藤原氏と物部(もののべ)氏が同族と公表したと知って、2023年5月下旬に兵主(つわものぬし)の正体を稲背彦皇子(いなせひこのみこ)と確信して、2024年10月7日にこの系図を作成して、さらに2026年7月19日の午前9時46分に史料を統一した。
5代目・高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)は、彦坐王(ひこいますのみこ)と息子の丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)と山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)、彦坐王(ひこいますのみこ)の孫の垂仁(すいにん)天皇の4人などを神格化する場合がある。
5代目・高皇産霊尊(たかみむすびのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)や垂仁(すいにん)天皇などを神格化)の子孫は、津速産霊(つはやむすび;稲背彦皇子(いなせひこのみこ)を神格化)と稜威雄走�~(いつのおばしりのかみ;屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおこころのみこと)を神格化)で、6代目・高皇産霊尊(たかみむすびのみこと;景行(けいこう)天皇を神格化)とその息子の7代目・高皇産霊尊(たかみむすびのみこと;武虎別皇子(たけこわけのみこ)を神格化)も血筋がつながるが、上記の系図で省略した。
崇神(すじん)天皇時代の大鹿島(おおかしま)が彦坐王(ひこいますのみこ)に当たる可能性は、非常に可能性が高いが、自分の歴史研究に時間を割(さ)くため、後世の研究者に任(まか)せたいと思う。
全国の兵主(ひょうず)神社は、19社で兵庫県や山陰地方に集中して、古代中国の武神の兵主神(ひょうずのかみ)と勘違いして、日本古来の兵主神(つわものぬしのかみ)が出雲王家(物部(もののべ)氏)の血筋でない稲背彦皇子(いなせひこのみこ)を神格化して、他の藤原氏の祖先神が物部(もののべ)氏の血筋で、出雲大社の祭神の大国主神(おおくにぬしのかみ)と同一神とするが、現在の日本神話に登場しない謎(なぞ)の多い神様である。
兵主神(つわものぬしのかみ)は、別名が津速産霊神(つはやむすびのかみ)で、津速産霊神(つはやむすびのかみ)が「記紀」に登場しなくて、兵主神(つわものぬしのかみ)が『ホツマツタエ』に登場して、藤原氏の祖先神の武神として登場して、藤原氏の祖先神に神格化した人物が実在した年代や誕生日を求めて、細かく記すことで系図の信憑性(しんぴょうせい)を高めた。
この系図と『稲荷山鉄剣』の章は、系図の混乱が見られて、兵主神(つわものぬしのかみ)が別名を津速産霊(つはやむすび;稲瀬彦皇子(いなせひこのみこ)を神格化)で、天児屋命(あまのこやねのみこと;誰を神格化したか不明)が孫か曾孫か不明で、そもそも『ホツマツタエ』の間違いかも分からなくて、他の歴史書の記述が間違った可能性もあって、詳細な研究・分析が必要である。
垂仁(すいにん)天皇の息子の祖別命(みおやわけのみこと)は、花橘(はなたちばな)との間に弟橘姫(おとたちばなひめ)を生んで、祖別命(みおやわけのみこと)の死後に花橘(はなたちばな)が3代目出雲国王の野見宿禰(のみのすくね)と再婚して、野見宿禰(のみのすくね)が弟橘姫(おとたちばなひめ)の義父になった。
5代目タカミムスビ(高皇産霊;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の息子(子孫)のツワモノヌシ(ツハモノヌシ;兵主:稲瀬彦皇子(いなせひこのみこ)を神格化)は、別名がツハヤムスビ(津速産霊)で、兄のカンサヒ(神狭日;神櫛皇子(かんぐしのみこ)を神格化)がサホコチタルクニ(狭穂古千足国;出雲)のマスヒト(益人;6代目出雲国王)で、ツワモノヌシが副マスヒト(益人;副代官:出雲国王の次に偉い人物)になった。
景行(けいこう)天皇と3代目出雲国王の野見宿禰(のみのすくね)の養女であるクラコヒメ(椋子姫;弟橘姫(おとたちばなひめ)を神格化)は、シラヒト(白仁;景行(けいこう)天皇を神格化)と結婚して、長男のカンサヒ(神狭日;神櫛皇子(かんぐしのみこ)を神格化)を生んで、次男のツワモノヌシ(兵主;稲背彦皇子(いなせひこのみこ)を神格化)を生んで、2兄弟が九州で生まれたが、双子の可能性があって、後に生まれた可能性が高くて、神櫛皇子(かんぐしのみこ)が出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏の先祖で、稲背彦皇子(いなせひこのみこ)が藤原氏の先祖である。
クラコヒメ(椋子姫;弟橘姫(おとたちばなひめ)を神格化)は、シラヒト(白仁;景行(けいこう)天皇を神格化)の妾(めかけ)で、コクミ(胡久美;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)と不倫して、孝元(こうげん)天皇(景行(けいこう)天皇を祖先化)と息子の開化(かいか)天皇(日本武尊(やまとたけのみこと)を祖先化)の妻である伊香色謎命(いかがしこめのみこと;弟橘姫(おとたちばなひめ)を祖先化)などで証明した。
景行(けいこう)天皇と弟橘姫(おとたちばなひめ)は、神櫛皇子(かんぐしのみこ)と稲背彦皇子(いなせひこのみこ)を生んで、2022年9月5日に系図を特定して、日本武尊(やまとたけのみこと)と弟橘姫(おとたちばなひめ)が7人の息子を生んだと『ホツマツタエ』で、前から気付いていた。
サホコチタルクニ(狭穂古千足国;出雲)の統治者は、5代目タカミムスビ(初代出雲国王の彦坐王(ひこいますのみこ)と2代目出雲国王の狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)で、次がアマテルカミ(天照神;景行(けいこう)天皇を神格化)だが、景行(けいこう)天皇が6代目出雲国王を神櫛皇子(かんぐしのみこ;彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)と同一人物)にして、弟のツワモノヌシ(稲瀬彦皇子(いなせひこのみこ)を神格化)を副マスヒト(副代官;出雲国王の次に偉い人物)にした。
6代目出雲国王の彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)は、景行(けいこう)天皇の息子の神櫛皇子(かんぐしのみこ)と同一人物で、弟の稲瀬彦皇子(いなせひこのみこ)が出雲国王に次ぐ副代官に任命されて、出雲の統治者の2兄弟が父親の景行(けいこう)天皇に任命されて、2兄弟が出雲王国(物部(もののべ)氏)の養子の血筋だからである。
サホコチタルクニ(狭穂古千足国;出雲)は、出雲王国(物部(もののべ)氏)の2代目出雲国王の狭穂彦王(さほひこのみこ)と名前が共通して、『ホツマツタエ』が正しい伝承の証明で、サホコ(狭穂古)の「コ(古)」の漢字が古(ふる)くからの王国の意味で、「チタルクニ(千足国)」の漢字が参考文献『完訳秀真伝』を参考にした。
景行(けいこう)天皇16年1月3日(西暦206年2月上旬頃)に景行(けいこう)天皇と弟橘姫(おとたちばなひめ)は、長男の神櫛皇子(かんぐしのみこ)を生んで、後で次男の稲背彦皇子(いなせひこのみこ)が大分県直入(なおいり)郡で生まれた可能性があって、3つ子の妹を宗像(むなかた)3神に神格化して、宗像(むなかた)3神が景行(けいこう)天皇19年(西暦209年)より前に生まれた。
景行(けいこう)天皇は、大分県直入(なおいり)郡で、大石の両翼に住吉神(すみよしのかみ)と直(なお)り中臣神(なかとみのかみ)を祭る社(やしろ)を建てて、直(なお)り中臣神(なかとみのかみ)が藤原氏の祖先神で、稲背彦皇子(いなせひこのみこ)を神格化して、直(なお)りが直入(なおいり)郡を指す可能性がある。
東海平定は、日本武尊(やまとたけのみこと)の武将に天児屋命(あまのこやねのみこと)の子孫の大鹿島(おおかしま)が御饗(みあえ)を捧(ささ)げて、日本武尊(やまとたけのみこと)を護衛する武将が稲背彦皇子(いなせひこのみこ)と求められた。
『ホツマツタエ』の原本『ミソギノフミ(禊(みそぎ)の文)』は、大鹿島(おおかしま)国摩(くになづ;100才近い稲背彦皇子(いなせひこのみこ)と同一人物)が花押(かおう;自著の代わりに用いる記号や符号)を押して、『ミソギノフミ(禊(みそぎ)の文)』を摂政(せっしょう)天皇46年(西暦306年)に神功(じんぐう)皇后に献上して、大鹿島国摩(おおかしまくになづ;国摩大鹿島:くになづおおかしま)の国摩(くになづ)が諱(いみな;本来は人の本名(ほんみょう)で、生前が口にするのを憚(はばか)れる名前を指(さ)す。)で、大鹿島国摩(おおかしまくになづ)の正体を2023年12月2日に特定したと思う。
景行(けいこう)天皇26年(西暦216年)以前に病没した義父の野見宿禰(のみのすくね)は、知った弟橘姫(おとたちばなひめ)が落ち込んで、景行(けいこう)天皇の息子の日本武尊(やまとたけのみこと)に慰(なぐさ)められて不倫して、景行(けいこう)天皇27年1月12日(西暦217年2月中旬頃)に不倫が発覚して、不倫の罰(ばつ)で、弟橘姫(おとたちばなひめ)が故郷の出雲に逃げて、日本武尊(やまとたけのみこと)も出雲に行って、弟橘姫(おとたちばなひめ)との間に7人の息子を生んだ。
神櫛皇子(かんぐしのみこ)と稲背彦皇子(いなせひこのみこ)の兄弟は、父の景行(けいこう)天皇に命じられて、母の弟橘姫(おとたちばなひめ)と不倫相手で、異母兄の日本武尊(やまとたけのみこと)を監視するため、6代目出雲国王と副代官に任命されたと考えられる。
ツワモノヌシ(兵主;つわものぬしのかみ:稲瀬彦皇子(いなせひこのみこ)を神格化)の息子は不明で、孫がイチヂ(市千魂命;いちぢたまのみこと)で、曾孫がアマノコヤネ(天児屋根)とするが、ココトムスビ(興台産霊;こごとむすび)がツワモノヌシやイチヂと同一神としたり、『ホツマツタエ』の歴史書がツワモノヌシの孫がアマノコヤネとしたりして、藤原氏の系図の混乱が生まれた理由である。
『ホツマツタエ』に基づくのは、兵主神(つわものぬしのかみ;津速産霊神(つはやむすびのかみ)と同一神)の息子が興台産霊神(こごとむすびのかみ)で、孫が市千魂命(いちぢたまのみこと)で、曾孫が天児屋根命(あまのこやねのみこと)か、息子が市千魂命(いちぢたまのみこと)で、孫が天児屋根命(あまのこやねのみこと)の可能性が高いが、藤原氏の系図の混乱で、よく調べる必要がある。
稲背彦皇子(いなせひこのみこ)の息子は、御諸別命(みもろわけのみこと)で、孫が阿良都命(あらつのみこと)で、曾孫が記されず、藤原氏の系図がある程度を埋めて、息子の御諸別命(みもろわけのみこと)などが市千魂命(いちぢたまのみこと)や天児屋根命(あまのこやねのみこと)などに神格化したと考えられるが、証拠がなくて求められない。
3代目の景行(けいこう)天皇は、出雲王家(物部(もののべ)氏)の血筋でなく、弟橘姫(おとたちばなひめ)が3代目出雲国王の野見宿禰(のみのすくね)の養女で、稲背彦皇子(いなせひこのみこ)も物部(もののべ)氏の血筋でないが、出雲王家の武将で、武神の兵主神(つわものぬしのかみ)またの名を津速産霊(つはやむすび)に神格化した理由と考えられる。
兵主神(つわものぬしのかみ;稲背彦皇子(いなせひこのみこ)を神格化)の子の興台産霊(こごとむすび;誰を神格化したか不明)は、妻が経津主神(ふつぬしのかみ;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)の妹の浅加姫(あさかひめ;誰を神格化したか不明)で、武渟川別(たけぬなかわわけ)が物部(もののべ)氏の血筋で、浅加姫(あさかひめ)も同じ物部(もののべ)氏と考えられる。
太玉命(ふとだまのみこと;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)の妹の三穂津姫(みほつひめ;誰を神格化したか不明)は、夫が2代目・大物主神(おおものぬしのかみ)の事代主神(ことしろぬしのかみ;宇迦都久怒(うかずくぬ)を神格化)で、出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏の先祖で、武渟川別(たけぬなかわわけ)の2人以上の姉妹がいると確信した。
浅加姫(あさかひめ)か三穂津姫(みほつひめ)は、虚空津比売命(そらつひめのみこと)を神格化したと考えられる。『古事記』は、神功(じんぐう)皇后と虚空津比売命(そらつひめのみこと)の姉妹を記して、他に姉妹を記さず、神功(じんぐう)皇后の弟が武渟川別(たけぬなかわわけ)で、2人共に物部(もののべ)氏で、虚空津比売命(そらつひめのみこと)を浅加姫(あさかひめ)か三穂津姫(みほつひめ)に神格化したと考えられる。
素直(すなお)なツワモノヌシ(兵主;稲瀬彦皇子(いなせひこのみこ)を神格化)は、サホコチタルクニ(狭穂古千足国)の出雲の副代官で、サシミメ(指美女;花橘(はなたちばな)を神格化)とクラコヒメ(椋子姫;弟橘姫(おとたちばなひめ)を神格化)の母子の受難を解決するため、マスヒト(6代目出雲国王)で、兄のカンサヒ(神櫛皇子(かんぐしのみこ)を神格化)に代わって、副マスヒト(副代官;出雲国王の次に偉い人物)として、奈良県の朝廷に助けを求めた。
これを機にツワモノヌシ(稲瀬彦皇子(いなせひこのみこ)を神格化)は、サホコチタルクニ(狭穂古千足国)の出雲を離れて、ナカクニ(中国)の奈良県に来て、ナカクニ(奈良県)のクニカミ(国守)のカナサキ(金析;野見宿禰(のみのすくね)を神格化)の元で、教えを受けた。
6代目出雲国王の彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと;神櫛皇子(かんぐしのみこ)と同一人物)と出雲の副代官である稲瀬彦皇子(いなせひこのみこ)の兄弟は、景行(けいこう)天皇20年(西暦210年以降)に2兄弟の母である弟橘姫(おとたちばなひめ)の故郷の出雲王国(物部(もののべ)氏)に行った異母兄の日本武尊(やまとたけのみこと)の不倫に対処した。
幼い神櫛皇子(かんぐしのみこ)は、父の景行(けいこう)天皇に異母兄の日本武尊(やまとたけのみこと)と母の弟橘姫(おとたちばなひめ)の不倫を伝えて、不倫した夫婦が出雲に逃げて、大人になった神櫛皇子(かんぐしのみこ)と稲瀬彦皇子(いなせひこのみこ)の兄弟が不倫した夫婦の監視のため、出雲の統治者になって、それが上記の神話と考えられる。
兵主神(つわものぬしのかみ)は、天岩戸隠(あまのいわとかく)れ神話とハタレ神話で活躍して、天岩戸隠(あまのいわとかく)れ神話が天皇不在の年10月7日(西暦251年11月上旬頃)のヤマトヒメの殺害と仲哀(ちゅうあい)天皇元年1月11日(西暦252年2月中旬頃)の神功(じんぐう)皇后が皇后になったことで、ハタレ神話の終わりが仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月17日(西暦260年11月中旬頃)の出雲王国(物部(もののべ)氏)の崩壊(出雲の国譲(くにゆず)り神話)に当たる。
ツワモノヌシ(稲瀬彦皇子(いなせひこのみこ)を神格化)は、天岩戸(あまのいわと)の前で、マサカキ(真榊)の枝の上にニタマ(丹玉)、中の方にマフツノカガミ(真経津鏡)、下の方にニキテ(幣;にぎて)を掛けて、トコヨ(常世)の祭りの舞台を作って、アマテルカミ(天照神;神功(じんぐう)皇后を神話化)が天岩戸(あまのいわと)から出て来る時、天岩戸(あまのいわと)にツワモノヌシが注連縄(しめなわ)を張り巡らせて、「な帰りましそ」とアマテルカミに申し上げた。
稲瀬彦皇子は、西暦250年から254年の中部地方より東の東国平定に出陣して、仲哀(ちゅうあい)天皇元年1月11日(西暦252年2月中旬頃)の神功(じんぐう)皇后が皇后になった時、奈良県にいなくて、天岩戸隠(あまのいわと)隠れ以後のアマテルカミ(天照神;神功(じんぐう)皇后を神話化)が摂政(せっしょう)元年10月2日(西暦261年11月上旬頃)に神功(じんぐう)皇后を摂政(せっしょう;天皇に代わって政治をする役職)に任命した時が正しい。
ハタレ神話は、邪神のハタレたちを捕らえた後で、その心の平安をどう実現するか、大問題が明らかになった時、ツワモノヌシ(兵主;稲瀬彦皇子(いなせひこのみこ)を神格化)が魂返(たまかえ)しの祭りをして、ツワモノヌシの息子か孫のココトムスビ(イチヂ)が祈りの言葉を書いて、父子(祖父と孫)で、乱(みだ)れた魂を天に帰るのを祈って、魂返(たまかえ)しの祭りが一般の人々の心にも平安を齎(もたら)した。
この時にアマテルカミ(天照神;神功(じんぐう)皇后を神話化)は、ツワモノヌシ(稲瀬彦皇子(いなせひこのみこ)を神格化)にアナシウヲカミ(穴師結神)の名前を与えて、アナシウヲカミの名称がアメ(天)までにもミチ(道)を及(およ)ぼした偉大な人物の意味で、そしてナカクニ(中国)の奈良県のクニカミ(国守)に任命した。
アナシウヲカミ(穴師結神)は、ツワモノヌシ(稲瀬彦皇子(いなせひこのみこ)を神格化)に父アマテルカミ(景行(けいこう)天皇を神格化)から与えられた讃(たた)え名で、奈良県桜井市穴師(あなし)の穴師坐兵主(あなしにますひょうず)神社が「あなしにますつわものぬしのかみのやしろ」と呼んだと考えられて、アナシウヲカミ(穴師結神)の兵主神(つわものぬしのかみ)を祭ったと考えられる。
この時にカナサキ(金析;物部夏花(もののべのなつはな)を神格化)の持っていたモリ(杜)は、ツワモノヌシ(兵主;稲瀬彦皇子(いなせひこのみこ)を神格化)に譲(ゆず)って、カスガノモリ(春日の杜)と改名して、奈良市の春日(かすが)大社の付近で、ツワモノヌシの息子か孫のイチヂ(市千魂命;いちぢたまのみこと)がカスガトノ(春日殿)という讃(たた)え名を与えられた。
ツワモノヌシ(兵主;稲瀬彦皇子(いなせひこのみこ)を神格化)が亡くなった後は、ナカクニ(中国;ほぼ近畿地方に匹敵)の奈良県のクニカミ(国守)を息子か孫のココトムスビ(イチヂ)が継いだが、稲瀬彦皇子(いなせひこのみこ)が奈良県を守る国守と考えられて、ココトムスビ(イチヂ)が本当に国守の役目にあったか確証がなくて、単なる神話の可能性もある。
兵主神(つわものぬしのかみ;稲背彦皇子(いなせひこのみこ)を神格化)の直系子孫は、重要な天児屋命(あまのこやねのみこと;誰を神格化したか不明)で、稲背彦皇子(いなせひこのみこ)の息子が御諸別命(みもろわけのみこと)で、孫が阿良都命(あらつのみこと)で、曾孫が記されず、藤原氏の系図がある程度を埋まると考えられる。
稲背彦皇子(いなせひこのみこ)は、母を弟橘姫(おとたちばなひめ)で、その父(祖父)が祖別命(みおやわけのみこと)で、祖別命(みおやわけのみこと)の3世代前が2例と4世代前が1例で、先祖を彦坐王(ひこいますのみこ)として、崇神(すじん)天皇時代の大鹿島(おおかしま)が彦坐王(ひこいますのみこ)本人か確信がない。
興台産霊(こごとむすび;誰を神格化したか不明)の子の天児屋命(あまのこやねのみこと;誰を神格化したか不明)は、妻が武甕槌神(たけみかづちのかみ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)の娘の比売神(ひめのかみ;誰を神格化したか不明)で、武甕槌神(たけみかづちのかみ)の父が稜威雄走�~(いつのおばしりのかみ;屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおこころのみこと;飯入根(いいいりね)と同一人物)を神格化)で、物部(もののべ)氏である。
天児屋命(あまのこやねのみこと;誰を神格化したか不明)は、父方に稲背彦皇子(いなせひこのみこ)と武渟川別(たけぬなかわわけ)の姉妹で、妻に初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)の娘で、武神の兵主神(つわものぬしのかみ)と双璧の軍神(いくさがみ)の経津主神(ふつぬしのかみ)と武甕槌神(たけみかづちのかみ)がいて、藤原氏が物部(もののべ)氏と同族で間違いない。
『ホツマツタエ』のアマノコヤネ(天児屋根;あまのこやねのみこと;誰を神格化したか不明)は、別名が多くて、諱(いみな;生前の本名(ほんみょう)がワカヒコ(若彦)で、若い頃から優秀さが認められて、カスガマロ(春日麿)と呼ばれて、父のイチヂ(市千魂命;いちぢたまのみこと)がカスガトノ(春日殿)の讃(たた)え名を持つ。
カスガマロ(誰を神格化したか不明)は、アマテルカミ(天照神;神功(じんぐう)皇后を神格化)がヨツギノル(世継(よつ)ぎ子を乞(こ)い祈(いの)る)ことの講義をした時、この感動を和歌にして、「アマイノル コノテカシハユ オトオスグ…」と詠(よ)んで、アマテルカミがアマノコヤネ(天児屋根)の別名を与えて、コヤネ(児屋根;児屋)の意味が子供を宿(やど)す根本(こんぽん)である。
若い頃からカスガマロ(春日麿;誰を神格化したか不明)は、アマテルカミ(天照神;神功(じんぐう)皇后を神格化)の側(そば)に仕(つか)えて、アマテルカミのしつけを受けて成長して、オシホミミ(忍穂耳;仲哀(ちゅうあい)天皇を神格化)が天皇に即位する時、カスガマロがヲシカ(勅使;ちょくし)になって、ミクサタカラ(三種の神器)を届(とど)ける役目になって、アマテルカミの詔(みことのり;天皇の言葉)を代読した。
この後にカスガマロ(誰を神格化したか不明)は、アマテルカミ(神功(じんぐう)皇后を神格化)からアマノコヤネ(天児屋根)の別名を与えられて、コヤネ(児屋根;児屋)などの神名でも呼ばれる。
アマノコヤネ(天児屋根;誰を神格化したか不明)は、自分の縁談の話がまとまって、タケミカツチ(武甕槌;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)の娘ヒメ(比売神;ひめのかみ:誰を神格化したか不明)と結婚して、茨城県鹿島郡(かしまぐん)神栖町(かみすちょう)息栖(いきす)に息栖(いきす)神社があって、『ホツマツタエ』の伝承通りに社殿が西向きで、宮仕(みやづか)えに忙(いそが)しいアマノコヤネが常に西方に居住まいした名残(なご)りである。
アマノコヤネ(天児屋根;誰を神格化したか不明)は、アマテルカミ(天照神;神功(じんぐう)皇后を神格化)からホホデミ(火火出見;仁徳(にんとく)天皇を神格化)とその息子のウガヤフキアハセズ(鵜葺草葺不合;誉田別尊(ほむだわけのみこと;即位しない応神(おうじん)天皇)を神格化)まで仕(つか)えて、神功(じんぐう)皇后と孫で、西暦334年に即位した仁徳(にんとく)天皇まで仕(つか)えたと証明した。
神功(じんぐう)皇后から仁徳(にんとく)天皇まで仕(つか)えたアマノコヤネ(誰を神格化したか不明)は、西暦260年から334年まで生きて、長年を左大臣として、仕(つか)えた功績が大きくて、葬式がまるで天皇の葬礼を思わせたと言う。
アマノコヤネ(天児屋根;誰を神格化したか不明)の亡骸(なきがら)は、京都市左京区大原野南春日町(おおはらのみなみかすがちょう)の大原野(おおはらの)神社付近のオシホ(小塩山;おじおやま)に葬礼して、後に子供のオシクモ(忍雲;誰を神格化したか不明)が東大阪市出雲井町(いずもいちょう)のヒラオカ(枚岡)神社に移(うつ)して祭って、オシクモもこの地で亡くなった。
オシクモ(誰を神格化したか不明)は、枚岡(ひらおか)神社から少し行った大阪府八尾市(やおし)山畑(やまたけ)の春日戸社坐御子(かすかべのやしろにいますみこの)神社に祭ると考えられる。
天忍雲命(あめのおしくものみこと;誰を神格化したか不明)は、中臣(なかとみ)氏(藤原氏)の祖先神で、別名が天忍雲根命(あめのおしくもねのみこと)と天牟羅雲命(あめのむらくものみこと)で、伊勢神宮外宮の禰宜(ねぎ;宮司を補佐する者の職称)家である度会(わたらい)氏の祖先神でもある。
中臣(なかとみ)氏(藤原氏)と度会(わたらい)氏の祖先神の天牟羅雲命(あめのむらくものみこと;誰を神格化したか不明)は、海部(あまべ)氏の祖先神の天村雲命(あめのむらくものみこと;朝廷別王(みかどわけのみこ)を神格化)と同じ読み方だが、神格化した人物の時代が全く別で、全く別の神様で、正しい区別が必要である。
アマノコヤネ(天児屋根;誰を神格化したか不明)とタケミカツチ(武甕槌;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)の一人娘であるヒトリヒメ(一人姫;誰を神格化したか不明)の息子のオシクモ(忍雲;誰を神格化したか不明)は、ウガヤフキアハセズ(鵜葺草葺不合;誉田別尊(ほむだわけのみこと;即位しない応神(おうじん)天皇)を神格化)の左大臣を務(つと)めた。
祖父のタケミカツチ(初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)は、孫のオシクモ(誰を神格化したか不明)に良くして成長して、母のヒトリヒメ(誰を神格化したか不明)が関東に暮らして、父のアマノコヤネ(誰を神格化したか不明)が忙(いそが)しくて、全国を駆(か)け回る生活をした。
ヒトリヒメ(誰を神格化したか不明)の宮は、茨城県神栖市(かみすし)息栖(いきす)の息栖(いきす)神社で、おそらくここで息子のオシクモ(誰を神格化したか不明)が育って、ヒトリヒメの別名が比売神(ひめのかみ)で、天児屋根命(あまのこやねのみこと;誰を神格化したか不明)の妻である。
ホホテミ(火火出見;仁徳(にんとく)天皇を神格化)の時代にオシクモ(忍雲;誰を神格化したか不明)は、祖父のタケミカツチ(武甕槌;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)の尊称であるカシマカミ(鹿島神)から、カシマ(鹿島)の称号を名乗って、富士山の南麓(みなみふもと)のハラミノミヤ(原見宮)で、関東地方の政治を任(まか)された。
オシクモ(誰を神格化したか不明)は、やがて父のアマノコヤネ(天児屋根;誰を神格化したか不明)の代理を務(つと)めるようになって、ウガヤフキアハセズ(鵜葺草葺不合;誉田別尊(ほむだわけのみこと)を神格化)から左大臣に任命された。
ウガヤフキアハセズ(誉田別尊(ほむだわけのみこと)を神格化)に子供ができるようにオシクモ(誰を神格化したか不明)は、ヨツギヤシロ(世継ぎ社)を建てて、ヨツギフミ(世継ぎ文)に拠(よ)って、祈願(きがん)したおかげで、神武(じんむ)天皇が誕生した。
天児屋命(あまのこやねのみこと)と比売神(ひめのかみ)の子の天忍雲命(あめのおしくものみこと;誰を神格化したか不明)は、天種子(あめたねこ;誰を神格化したか不明)を息子で、天種子(あめたねこ)が神武(じんむ)東征(仁徳(にんとく)東征)で、大分県宇佐市で、宇佐津彦(うさつひこ;誰を神格化したか不明)の娘の宇佐子姫(うさこひめ;誰を神格化したか不明)を妻にした。
宇佐津彦(うさつひこ;誰を神格化したか不明)の両親は、伊吹戸主(いぶきどぬし;武虎別皇子(たけこわけのみこ)を神格化)と市杵島姫(いちきしまひめ;誰を神格化したか不明)で、伊吹戸主(いぶきどぬし)の両親が月読尊(つくよみのみこと;景行(けいこう)天皇を神格化)と伊予津姫(いよつひめ;高田媛(たかだひめ)を神格化)で、物部(もののべ)氏の血筋を証明した。
天種子(あめたねこ;誰を神格化したか不明)は、武甕槌神(たけみかづちのかみ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)の子孫の何代目かの武内宿禰(たけのうちのすくね)だとしたら、2代目・大田田根子(おおたたねこ;2代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)を祖先化)以降の子孫の血筋が藤原氏の先祖だが、あくまで可能性である。
『日本書紀』の宇佐津彦(うさつひこ;誰を神格化したか不明)の娘は、宇佐津姫(うさつひめ)だが、『ホツマツタエ』の宇佐子姫(うさこひめ)が正しい神名である。
天種子(あめたねこ)と宇佐子姫(うさこひめ)の息子の宇佐麿(うさまろ;誰を神格化したか不明)は、子孫が垂仁(すいにん)天皇9年と25年の大鹿島(おおかしま)が誰か不明で、関東地方の平定神話と『ホツマツタエ』に署名した大鹿島(おおかしま)が稲背彦皇子(いなせひこのみこ)で、西暦250年から東海地方の平定に参加した武将と考えられる。
伊吹戸主(いぶきどぬし)が武虎別皇子(たけこわけのみこ)を神格化したのは、『ホツマツタエ』で伊吹戸主(いぶきどぬし)が出雲神話に登場して、日本武尊(やまとたけのみこと)が伊吹山(いぶきやま)で毒蛇に咬(か)まれて、三重県の能褒野(のぼの)で死んで、武虎別皇子(たけこわけのみこ)が日本武尊(やまとたけのみこと)を出雲に亡命させたなど、つながるからである。
市杵島姫(いちきしまひめ;誰を神格化したか不明)の両親は、天照神(あまてるかみ;景行(けいこう)天皇を神格化)と早子(はやこ;弟橘姫(おとたちばなひめ)を神格化)で、市杵島姫(いちきしまひめ)が誰か不明で特定できない。
宇佐津彦(うさつひこ)の両親は、伊吹戸主(いぶきどぬし;武虎別皇子(たけこわけのみこ)を神格化)と市杵島姫(いちきしまひめ;誰を神格化したか不明)で、伊吹戸主(いぶきどぬし)の両親が月読尊(つくよみのみこと;景行(けいこう)天皇を神格化)と伊予津姫(いよつひめ;高田媛(たかだひめ)を神格化)で、物部(もののべ)氏の血筋を証明した。
伊吹戸主(いぶきどぬし)が武虎別皇子(たけこわけのみこ)を神格化したのは、『ホツマツタエ』で伊吹戸主(いぶきどぬし)が出雲神話に登場して、日本武尊(やまとたけのみこと)が伊吹山(いぶきやま)で毒蛇に咬(か)まれて、三重県の能褒野(のぼの)で死んで、武虎別皇子(たけこわけのみこ)が日本武尊(やまとたけのみこと)を出雲に亡命させたなど、つながるからである。
市杵島姫(いちきしまひめ;誰を神格化したか不明)の両親は、天照神(あまてるかみ;景行(けいこう)天皇を神格化)と早子(はやこ;弟橘姫(おとたちばなひめ)を神格化)で、市杵島姫(いちきしまひめ)の系譜が不明で、特定できないかもしれない。
天忍雲命(あめのおしくものみこと;誰を神格化したか不明)の先祖は、父方に軍神(いくさがみ)の武甕槌神(たけみかづちのかみ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)と経津主神(ふつぬしのかみ;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)の妹などで、母方に武神の伊吹戸主(いぶきどぬし;武虎別皇子(たけこわけのみこ)を神格化)がいて、藤原氏が物部(もののべ)氏と同族である。
オシクモ(忍雲;誰を神格化したか不明)がミカサヤシロ(三笠社;今の春日(かすが)大社)に奉納したヨツギフミ(世継ぎ文)は、ナガスネ(長骸;仁徳(にんとく)天皇の異母兄弟の大山守皇子(おおやまもりのみこ)を神格化)が盗み写(うつ)して、世の中に混乱(神武(じんむ)東征)を生み出した。
オシクモ(忍雲;誰を神格化したか不明)は、右大臣のクシミカタマ(櫛甕玉;物部(もののべ)氏の誰かを神格化)と共にナガスネ(長骸;仁徳(にんとく)天皇の異母兄弟の大山守皇子(おおやまもりのみこ)を神格化)を迎撃(げいげき)して、奈良盆地に追い返すことに成功して、ここでオシクモの寿命が尽(つ)きて亡くなった。
東大阪市出雲井町(いずもいちょう)の枚岡(ひらおか)神社の若宮社は、天忍雲命(あめのおしくものみこと;誰を神格化したか不明)が祭られて、住んだ頃を懐(なつ)かしんで、枚岡(ひらおか)神社から4キロメートルほど南にある春日戸社坐御子(かすかべのやしろにいますみこの)神社がオシクモの亡くなった場所の有力な候補地である。
オシクモ(忍雲;誰を神格化したか不明)の息子のアメタネコ(天種子;アマノタネコ:誰を神格化したか不明)は、別名がタネコ(種子)で、神武(じんむ)天皇(仁徳(にんとく)天皇を祖先化)の御守(おおんもり;お守(も)り)の役目で、神武(じんむ)天皇の即位後に左大臣を務(つと)めて、立派な働きをした。
6代目出雲国王の彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)は、景行(けいこう)天皇16年1月3日(西暦206年2月上旬頃)生まれの神櫛皇子(かんぐしのみこ)と同一人物で、息子の稜威雄走神(いつのおばしりのかみ;屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおこころのみこと;飯入根(いいいりね)と同一人物)を神格化)が西暦220年頃の生まれで、孫の武甕槌神(たけみかづちのかみ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)が景行天皇45年11月15日(西暦235年12月中旬頃)生まれで、計算が正しい。
景行(けいこう)天皇と物部(もののべ)氏)の養女の弟橘姫(おとたちばなひめ)は、息子の6代目出雲国王の彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと;神櫛皇子:かんぐしのみこ))を生んで、その妻がワザと名前を消して、物部(もののべ)氏の出身と悟(さと)らせず、孫の屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおこころのみこと;飯入根:いいいりね)と曾孫の初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)が物部(もののべ)氏の血筋である。
伊吹戸主(いぶきどぬし;武虎別皇子(たけこわけのみこ)を神格化)は、両親が月読尊(つくよみのみこと;景行(けいこう)天皇を神格化)と伊予津姫(いよつひめ;高田媛(たかだひめ)を神格化)で、景行(けいこう)天皇5年6月(西暦195年7月頃)に生まれて、藤原氏の祖先神の一人で、高田媛(たかだひめ)が物部(もののべ)氏の血筋である。
景行(けいこう)天皇5年6月(西暦195年7月頃)生まれの武虎別皇子(たけこわけのみこ)は、息子の経津主神(ふつぬしのかみ;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)が230年以降の生まれで、その妹の浅加姫(あさかひめ;誰を神格化したか不明)が藤原氏の祖先神の興台産霊(こごとむすび;誰を神格化したか不明)と結婚した。
景行(けいこう)天皇は、西暦191年から250年まで60年間を在位して、息子の稲背彦皇子(いなせひこのみこ)と武虎別皇子(たけこわけのみこ)と神櫛皇子(かんぐしのみこ;彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)と同一人物)で、孫の屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおこころのみこと)と曾孫の初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)まで求めて、実在した年代や誕生日などを特定して、しっかり求められた。
景行(けいこう)天皇の子孫は、息子の稲背彦皇子(いなせひこのみこ)だけが物部(もののべ)氏の血筋でなく、孫の屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおこころのみこと)と曾孫の初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)が物部(もののべ)氏の血筋で、火の神様の甕速日神(みかはやひのかみ)と樋速日神(ひはやひのかみ)に神格化して、物部(もののべ)氏の直系だけが火の神様に神格化して、血筋の特定に役立った。
藤原氏の祖先神は、父方に軍神(いくさがみ)の武甕槌神(たけみかづちのかみ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)と経津主神(ふつぬしのかみ;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)の妹などで、母方に武神の伊吹戸主(いぶきどぬし;武虎別皇子(たけこわけのみこ)を神格化)がいて、藤原氏が物部(もののべ)氏と同族で、この系図を「記紀」で隠して、史実・真実・事実を求められなくした。
『富士宮下文書(ふじみやしたもんじょ)』は、日本に富士山の富士王朝が存在して、「記紀」に反する内容と評価して、出版当時の官界と政界と学会の有力者たちが徹底的かつ迅速に弾圧したが、藤原氏と物部(もののべ)氏が同族と公表したと2023年1月24日に知って、僕の自論がどんどん進化して、完全な史実・真実・事実と証明した。
西暦665年(7世紀中頃)に中臣藤原物部麿(なかとみのふじわらのもののべのまろ)と言う謎(なぞ)の人物は、藤原氏と物部(もののべ)氏を思わせる偽名で、『富士宮下文書(ふじみやしたもんじょ)』の副書(原本の写し)を作って、8世紀前半に「記紀」を編集した総合監督の藤原不比等(ふじわらのふひと)が当時の最高権力者で、藤原氏と物部(もののべ)氏を同族とする事実を隠したと考えられる。
物部(もののべ)氏と同族の藤原氏は、藤原氏の祖先神の系図特定で求められて、日本神話を完全解釈した僕の自論を100%否定できなくて、根本的な否定が不可能で、どれほど研究しても、同族と証明できる史料が正しい。
藤原氏の祖先神の天児屋命(あまのこやねのみこと;誰を神格化したか不明)は、祭祀(さいし;神様や先祖を祭ること)の神様で、中臣(なかとみ)氏が祭祀(さいし)の古代豪族で、中臣鎌足(なかとみのかまたり)が蘇我(そが)氏討伐の功績で、藤原姓を賜(たまわ)って、平安時代に天皇家との婚姻関係で勢力を伸ばしたが、後世に衰退したと勘違いする。
藤原氏は、後世に五摂家(ごせっけ;近衛(このえ)氏・一条氏・二条氏・九条氏・鷹司(たかつかさ)氏)と名前を変えて、天皇家や有力な豪族や将軍家などと婚姻関係を結んで、現在まで重要な地位を維持し続けた。
現在まで藤原氏の亡霊の一族(五摂家;ごせっけ)は、皇室と深く結び付いて、明治天皇と大正天皇の皇后が五摂家(ごせっけ)で、美智子様(上皇后)が初めて五摂家(ごせっけ)以外で皇后になって、重要な意味である。
藤原氏は、千年以上に渡って、皇室と深く結び付いた中世からの亡霊で、古代天皇家と出雲王家(物部(もののべ)氏)の子孫で、古代からの血筋を超天才の僕が解明して、大きな謎(なぞ)をひもといた。
<参考文献>
『ホツマ辞典』
著者・池田満 発行・ホツマ刊行会
『完訳秀真伝(上巻)』
編著者・鳥居礼 発行・八幡書店
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
著者・宇治谷孟 発行・株式会社講談社
インターネットの不明サイトから少々拝借
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