伊勢神宮と元伊勢

普通の文字は黒字で、日本神話の神々と特徴などが赤字で、歴代天皇時代の全て対比した旧暦年と太陽暦の年代を緑字で記した。

伊勢神宮内宮(ないぐう)は、女性の太陽神の天照大神(あまてらすおおみかみ)を祭って、外宮が天照大神(あまてらすおおみかみ)の食事を受け持つ女神の豊受姫神(とようけひめのかみ)を祭って、それが正しい認識と思う人が多い。
伊勢神宮内宮(ないぐう)は、現在の場所に遷宮される前に幾つか場所を転々として、元々の伊勢神宮を意味して元伊勢と読んで、古代から連綿と祭り続けて、伊勢神宮の歴史をたどろうと思う。

日本最古の神社と疫病
古代太陽神の大物主神(おおものぬしのかみ)の祭祀(さいし;神や祖先を祭るためにする儀式(ぎしき)や行事:ぎょうじ)は、僕の最初の著書『古代日本史への挑戦』で、初代・大物主神(おおものぬしのかみ)を垂仁(すいにん)天皇時代の2代目・大物主神(おおものぬしのかみ)と勘違いしたが、その後に気付いて修正して、現在の記述につながる。

『ホツマツタエ』の神武(じんむ)天皇(崇神(すじん)天皇を祖先化)3年(西暦86年)に五月雨(さみだれ)は、40日も降(ふ)り続いて、疫病(えやみ)が流行して、稲が稲熱病(いもちびょう)になって、崇神(すじん)天皇の命令で、天種子(あめたねこ;誰か不明)と櫛甕玉(くしみかたま;彦坐王(ひこいますのみこ)を祖先化)が滋賀県の野洲川辺(やすかわべ)に仮屋(かりや)を建てて、祈祷(きとう)した神力で、5年後に疫病(えきびょう)が治(おさ)まった。

崇神(すじん)天皇3年(西暦86年)は、すでに滋賀県の野洲川辺(やすかわべ)を領土にして、早い段階から滋賀県の記述が日本神話などに見られて、疫病(えやみ)と稲熱病(いもちびょう)の流行が史実(歴史上の事実)と考えられる。
崇神(すじん)天皇3年(西暦86年)に起きた疫病(えやみ)は、古代中国の後漢王朝時代にパンデミック(病気の大流行)の記録がなくて、霊帝(れいてい)時代の西暦168年から180年代にかけて、大規模な疫病が起きて、多数の死者が出て、傷寒(しょうかん;発疹(はっしん)チフスの種類)や天然痘(てんねんとう)や麻疹(ましん)など諸説あって、疫病が一因で、西暦184年3月から185年の大規模な農民反乱の「黄巾(こうきん)の乱(らん)」が後漢王朝の衰退をもたらして、日本国内の倭国大乱(わこくたいらん)と同時期と考える説が存在するが、100%完全に僕が否定した。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の崇神(すじん)天皇3年(紀元前95年)は、完全な間違いで、僕の自論の崇神(すじん)天皇3年後半(西暦86年)が正しい。)

『ホツマツタエ』崇神(すじん)天皇4年10月23日(西暦87年11月頃)は、詔(みことのり;天皇の述べた言葉)があって、「御祖(みおや;先祖)より伝え授(さず)かった三種の神器が国常立尊(くにのとこたちのみこと)を神璽(かんをして)に付けて、天照神(あまてるかみ)を八咫鏡(やたのかがみ)に付けて、倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)を八重垣剣(やえがきのつるぎ)に付けて、常に祭って宮中に安置して、我が身と神々との境(さかい)もないほど身近にあった。三種の神器と共に暮らしたが、この頃はその神々の神威が偉大なのを畏(おそ)れ多く思って、心が休まらなくなった。
天照神(あまてるかみ)は、笠縫邑(かさぬいのむら)で豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に祭らせて、倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)を山辺里(やまのべのさと)で渟名城姫命(ぬなきひめのみこと)に祭らせることにする。
石凝姥命(いしこりどめのみこと;誰を神格化したか不明)の孫は神鏡で、天目一箇神(あまめひとつのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の孫(彦坐王(ひこいますのみこ)本人)が神剣を新しく造って、天照神(あまてるかみ)が著(あら)わした神璽(かんをして)の文(ふみ;八坂瓊勾玉:やさかにのまがたま)と共に、この三種を皇位継承の神宝にしようと思う」と。

(歴史学会(歴史書解釈)の定説の崇神(すじん)天皇4年10月23日(紀元前94年11月頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の崇神(すじん)天皇4年10月23日(西暦87年11月頃)が正しい。)

天照神(あまてるかみ)は、元々独立した日本神話の神様で、初めて祭った時に実在の人物を神格化せず、後世に太陽神の宮司の彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化したと考えられる。
国常立尊(くにのとこたちのみこと;崇神(すじん)天皇を神格化)は、神璽(かんをして)の八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)で、天照神(あまてるかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)を八咫鏡(やたのかがみ)で、倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)を八重垣剣(やえがきのつるぎ)で、それぞれを司(つかさど)ると考えられる。
三種の神器は、その神威が強大すぎて、それぞれバラバラの宮中に安置することにして、これが政教(政治と神道)分離の考え方の始まりで、八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)をまだ神器に加えず、出雲王家(物部(もののべ)氏)の宮殿で保管して、八重垣剣(やえがきのつるぎ)と八咫鏡(やたのかがみ)の二種の神器と考えられる。
八咫鏡(やたのかがみ)を作った女神の石凝姥命(いしこりどめのみこと;誰を神格化したか不明)は、鏡作部(かがみつくりべ)の祖先神で、鏡作部(かがみつくりべ)が鏡を製作した氏族で、八重垣剣(やえがきのつるぎ)を作った天目一箇神(あまめひとつのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)が鍛冶(かぬち)氏の祖先神で、鍛冶(かぬち)氏が金属を打ち鍛(きた)えて、道具を作る一族で、出雲(いずも)王家(物部(もののべ)氏)の遠縁(とおえん)である。
2026年2月19日のデイケア参加中の午後0時5分から8分は、『ホツマツタエ』崇神(すじん)天皇6年(西暦89年)に天目一箇神(あめまひとつのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の孫(彦坐王(ひこいますのみこ)本人)が八重垣剣(やえがきのつるぎ)の形代(かたしろ;神霊が依(よ)り憑(つ)く依代(よりしろ)の一種)を作って、崇神(すじん)天皇12年(西暦95年)に出雲(いずも;島根県東部)平定を報告して、出雲(いずも)が弥生時代後期に青銅器文化が衰退して、鉄器文化が隆盛して、出雲(いずも)の蹈鞴(たたら)製鉄と日本神話を結(むす)ぶ考古学的証拠(遺跡・遺物)と求めた。
『ホツマツタエ』のアメマヒトツ(天目一箇;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)は、6代目タカミムスビ(高皇産霊;景行(けいこう)天皇を神格化)の孫で、景行(けいこう)天皇の息子の武虎別皇子(たけこわけのみこ)が武渟川別(たけぬなかわわけ)に父で、武虎別皇子(たけこわけのみこ)を7代目タカミムスビと天津彦根命(あまつひこねのみこと)に神格化して、出雲王家(物部(もののべ)氏)の一番最初の先祖である彦坐王(ひこいますのみこ)と結(むす)び付いて、天目一箇神(あめまひとつのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の結論になった。


『ホツマツタエ』崇神(すじん)天皇5年(西暦88年)は、疫病(えやみ)が流行して、民の半分が死んで、古代太陽神3神(天照神(あまてるかみ)と倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)と初代・大物主神(おおものぬしのかみ)の3神)を祭って、神頼(かみだの)みで疫病(えきびょう)を鎮魂(ちんこん)することにした。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の崇神(すじん)天皇5年(紀元前93年)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の崇神(すじん)天皇5年(西暦88年)が正しい。)

『ホツマツタエ』崇神(すじん)天皇6年(西暦89年)は、民が離散して、村を離れ出てしまって、崇神(すじん)天皇が収集しがたい疫病(えやみ)が起こった罪(つみ)の許しを神様に乞(こ)い願って、2つの神社(大和(おおやまと)神社と笠縫邑;かさぬいのむら)を新しく造(つく)った。
崇神(すじん)天皇6年9月16日(西暦89年10月頃)の夜は、倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ;八重垣剣(やえがきのつるぎ)も奉納して)をその(山辺里(やまのべのさと)の大和(おおやまと)神社に)宮(みや)をお遷(うつ)しして、翌日17日の夜に天照神(あまてるかみ;八咫鏡(やたのかがみ)も奉納して)も(所在地不明の元伊勢内宮の笠縫邑;かさぬいのむら)また(宮(みや)を)お遷(うつ)し申(もう)し上(あ)げた。
豊明(とよあか)りの御饗(みあえ;ごちそう)を開(ひら)いて、その宴(うたげ)も盛(も)り上(あ)がって、天上の神々も降臨された如(ごと)くで、皆(みな)でイロのツヅ歌を歌った。

いざ遠(とほ)しゆきの よろしも大夜(おほよ)すがらも
(遠(とお)き古(いにしえ)は、天照神(あまてるかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化した天照神(あまてるかみ)でなく、純粋な男性の古代太陽神の天照神(あまてるかみ)を指(さ)すと考えられる)が生まれた砌(みぎり;石畳(いしだたみ)や「その時」を意味する)、幸先(さいさき)が良(よ)いのを祝(いわ)って、夜通(よどお)し宴(うたげ)を催(もよお)した時のように目出度(めでた)いことである)
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の崇神(すじん)天皇6年(紀元前92年)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の崇神(すじん)天皇6年(西暦89年)が正しい。)

崇神(すじん)天皇6年9月16日(西暦89年10月頃)の夜は、皇女の渟名城姫命(ぬなきひめのみこと)が山辺里(やまのべのさと)の大和(おおやまと)神社に倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)と八重垣剣(やえがきのつるぎ)を祭って、翌日17日の夜に皇女の豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)が元伊勢内宮の笠縫邑(かさぬいのむら)に天照神(あまてるかみ)と八咫鏡(やたのかがみ)を祭って、倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)を女性皇族が祭ることで、疫病(えやみ)の流行が続くと信じて、男性皇族の彦坐王(ひこいますのみこ)が祭ることになった。

『古語拾遺(こごしゅうい)』の崇神(すじん)天皇時代は、更(さら)に斎部(忌部;いんべ)氏(彦坐王(ひこいますのみこ)の一族)をして、石凝姥神(いしこりどめのかみ;誰を神格化したか不明)の裔(すえ;末裔:まつえい)と天目一箇神(あめまひとつのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の裔(すえ;末裔:まつえい)の2氏族を率(ひき)いて、更(さら)に鏡を鋳(い)、剣を造(つく)らしめて、護(まも)りの御璽(みしるし)と為(な)す。

八咫鏡(やたのかがみ)と八重垣剣(やえがきのつるぎ)は、古代天皇家が古代日本にやって来た西暦81年以前に存在したか証明できず、崇神天皇6年(西暦89年)に神鏡と神剣のレプリカ(複製品)の形代(かたしろ;神宝の実物でなく、実物の代(か)わりになる儀式(ぎしき)に使用する物:代用品)を作って、オリジナル(現物)の実物がいつから存在するか不明で、大和(おおやまと)神社に二種の神器の八重垣剣(やえがきのつるぎ)を奉納して、八咫鏡(やたのかがみ)を元伊勢内宮の笠縫邑(かさぬいのむら)に奉納した。
『ホツマツタエ』の記述の史実・真実・事実は、大和(おおやまと)神社に八重垣剣(やえがきのつるぎ)のオリジナル(現物)を奉納して、元伊勢内宮と伊勢神宮内宮に八咫鏡(やたのかがみ)のオリジナル(現物)を奉納して、熱田(あつた)神宮に天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ;別名が草薙剣:くさなぎのつるぎ)のオリジナル(現物)を奉納して、現在の東京の皇居(昔の江戸城)に八咫鏡(やたのかがみ)と草薙剣(くさなぎのつるぎ)のレプリカ(複製品)の形代(かたしろ)を奉納したと伝(つた)える。
『ホツマツタエ』の八重垣剣(やえがきのつるぎ)は、斧や逆矛(さかほこ)など色々な形の武器に例(たと)えて、草薙剣(くさなぎのつるぎ)と別の神剣で、後世の摂政(せっしょう)3年1月3日(西暦263年2月上旬頃)に草薙剣(くさなぎのつるぎ)と入れ替わったと考えられる。
八咫鏡(やたのかがみ)と八重垣剣(やえがきのつるぎ)は、三種の神器でなく、八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)を除(のぞ)いた二種の神器が正しくて、二種の神器が正しい色々な理由がある。

奈良県天理市の大和(おおやまと)神社は、『ホツマツタエ』が記す日本最古の神社で、その翌日に最古の元伊勢内宮の笠縫邑(かさぬいのむら)を祭って、2番目に古い神社で、笠縫邑(かさぬいのむら)が奈良県桜井市や橿原(かしはら)市の付近に候補地が複数あって、所在地不明である。
天照神(あまてるかみ)は、『ホツマツタエ』の男性の古代太陽神で、女性の太陽神である天照大神(あまてらすおおみかみ)の母体で、天照大神(あまてらすおおみかみ)が古代に男性とする説が根強く、僕も大きく支持して、天照神(あまてるかみ)が古代天皇家の太陽神と考えられる。
『ホツマツタエ』成立の6世紀以降は、古代天皇家の実在した人物を神格化したのか、それとも崇神天皇時代から少しずつ神格化したのか、全く何の証拠もなく分からないが、天照神(あまてるかみ)が別格で、崇神(すじん)天皇時代からの太陽神と考えられる。天照神(あまてるかみ)は、世界中の太陽神や光の神様と同じ男性で、古代天皇家が皇族を神格化しなくても、元から崇(あが)めた古代の太陽神と考えられる。

倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)と天照神(あまてるかみ)は、元々独立した日本神話の神様で、初めて祭った時に実在の人物を神格化せず、倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)が後世に太陽神の宮司の彦坐王(ひこいますのみこ)と狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化して、天照神(あまてるかみ)が彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化したと考えられる。
倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)は、河内(かわち;大阪府東部)と大和と丹波(たには;古代の京都府北中部)と出雲を平定した彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化して、大国主神(おおくにぬしのかみ)や大物主神(おおものぬしのかみ)も同様の神名と考えられる。
伊勢神宮本殿の唯一神明造(しんめいづくり)の建築様式は、奈良県の弥生時代後期初頭(西暦100年頃)に発見しておらず、弥生時代後期の西暦80年頃から180年頃の滋賀県守山(もりやま)市の伊勢(いせ)遺跡で、神明造(しんめいづくり)に似(に)た構造の建物跡が出土して、元伊勢内宮の神明造(しんめいづくり)の建築様式がすでに完成して、伊勢(いせ)遺跡の神明造(しんめいづくり)に似(に)た構造の建物跡があくまで似(に)ただけで、弥生時代中期に出雲大社本殿の大社造(たいしゃづくり)の建築様式が田和山(たわやま)遺跡で出土して、大社造(たいしゃづくり)の神殿様式の方が古(ふる)いと考えられる。

『ホツマツタエ』崇神(すじん)天皇7年2月3日(西暦90年3月頃)の詔(みことのり;天皇の述べた言葉)は、「我が先祖の神々が開いた国が繁栄したのに、我が治世(ちせい)に汚(けが)れがあって、我が国政が神の御心に届かぬお咎(とが)めだ。
しかしながら、これより誠(まこと)を極(きわ)めれば神の許しが出るかもしれぬ」と言って、朝日原(あさひはら;場所不明)に行って、湯立(ゆだて)の神事をして神がかりの神託がされた。
初代・大物主神(おおものぬしのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、「国民の離散も神々を常に祭らないために、その汚(けが)れを受ける」と語って、その後にこの神が消えて、その夜に崇神(すじん)天皇が初代・大物主神(おおものぬしのかみ)の夢を見て、我が子孫の初代・大田田根子(おおたたねこ;彦坐王(ひこいますのみこ)を祖先化)に私を祭らせると、平和になると神託(しんたく)があった。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の崇神(すじん)天皇7年2月3日(紀元前91年3月頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の崇神(すじん)天皇7年2月3日(西暦90年3月頃)が正しい。)

我が治世の汚れは、初代・大物主神(おおものぬしのかみ)を祭って疫病を祓(はら)って、初代・大物主神(おおものぬしのかみ)の祟(たた)りと考えられる。

『ホツマツタエ』崇神(すじん)天皇7年8月7日(西暦90年9月頃)で、3人の家臣が崇神(すじん)天皇に告げて、「我ら3名の夢枕に同じように神が立たれて、初代・大田田根子(おおたたねこ;彦坐王(ひこいますのみこ)を祖先化)を初代・大物主神(おおものぬしのかみ)の斎主(いわいぬし)として、磯長尾市(しながおいち;彦坐王(ひこいますのみこ)と同一人物)を倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)の斎主(いわいぬし)とすれば、国の乱れが治まるだろうとお告げがあった」と。
崇神(すじん)天皇は、自分の夢合わせと同じことに驚いて、茅渟(ちぬ)の陶邑(すえむら;大阪府堺市東南部)にいる初代・大田田根子(おおたたねこ;彦坐王(ひこいますのみこ)を祖先化)を初代・大物主神(おおものぬしのかみ)の斎主(いわいぬし)として、磯長尾市(しながおいち;彦坐王(ひこいますのみこ)と同一人物)を倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)の斎主(いわいぬし)と定めた。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の崇神(すじん)天皇7年8月7日(紀元前91年9月頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の崇神(すじん)天皇7年8月7日(西暦90年9月頃)が正しい。)

『ホツマツタエ』崇神(すじん)天皇7年メ月1日(西暦90年11月頃)は、伊香色雄(いきしこお;彦坐王(ひこいますのみこ)と同一人物)が八十甍(やそひらか;やそいらか)を造(つく)って、これを使って初代・大田田根子(おおたたねこ;彦坐王(ひこいますのみこ)を祖先化)を大三輪神(おおみわのかみ;初代・大物主神(おおものぬしのかみ:彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の斎主(いわいぬし:さいしゅ:神事をする人)として、磯長尾市(しながおいち;彦坐王(ひこいますのみこ)と同一人物)が倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)の斎主(さいしゅ)と定(さだ)めた。
三諸山(みもろやま;三輪山(みわやま)のこと)の神々は、斎(いつ)き祭って、さらに普(あまね)く、天神地祇(てんじんちぎ)を崇(あが)めるようにお触(ふ)れを出して、神名を記した文(ふみ)を編纂(へんさん)して、神部(かんべ)をして八百万(やおよろず)の神々を祭らせて、すると流行を極(きわ)めていた疫病(えやみ)も、至誠(しせい)の行(おこ)ないが天に通(つう)じてか、治(おさ)まりを見せて、稲熱病(いもちびょう)も治(なお)って、穀物(こくもつ)が稔(みの)って、民(たみ)が元(もと)のように豊(ゆた)かになった。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の崇神(すじん)天皇7年10月1日(紀元前91年11月頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の崇神(すじん)天皇7年10月1日(西暦90年11月頃)が正しい。)

『ホツマツタエ』神武(じんむ)統一2年メ月20日(紀元前661年11月頃)は、摂政(せっしょう)63年10月20日(西暦323年11月頃)に年代修正して、大三輪(おおみわ)の神奈備山(かんなびやま;奈良県桜井市の御神体山の三輪山:みわやま)を島根県松江市大庭町(おおばちょう)の神魂(かもす)神社(出雲大社)の裏山(うらやま;恐(おそ)れ多くて、山名(さんめい)が無いと考えられる。)に修正した。
『ホツマツタエ』崇神(すじん)天皇7年メ月1日(西暦90年11月頃)に三諸山(みもろやま;三輪山(みわやま)のこと)の神々を斎(いつ)き祭って、神武(じんむ)天皇が崇神(すじん)天皇と仁徳(にんとく)天皇を祖先化した事実があっても、10月20日と10月1日で、同月でも日付が違って、三輪山(みわやま)の祭祀(さいし)が2度も登場すると考えられず、どちらかが解釈間違いと考えられる。
この結論は、崇神(すじん)天皇7年10月1日(西暦90年11月頃)に三輪山(みわやま)の神々を祭祀(さいし)して、摂政(せっしょう)63年10月20日(西暦323年11月頃)に神魂(かもす)神社(出雲大社)の裏山(うらやま;恐(おそ)れ多くて、山名(さんめい)が無いと考えられる。)に初代と2代目の大国主神(おおくにぬしのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)と子孫の飯入根(いいいりね)を神格化)を祭祀(さいし)したと考えられて、超天才の僕の能力が凄(すさ)まじすぎる証明である。

大物主神(おおものぬしのかみ)は、元々独立した日本神話の神様で、後世に太陽神の宮司で、初代出雲国王の彦坐王(ひこいますのみこ)から7代目出雲国王の飯入根(いいいりね)までを神格化したと考えられて、御神体山の三輪山(みわやま)と大神(おおみわ)神社が2代目・大物主神(おおものぬしのかみ;狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)と7代目・大物主神(おおものぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)を鎮魂して、出雲王家(物部(もののべ)氏)を祭る神社でもある。
崇神(すじん)天皇7年10月1日(西暦90年11月頃)は、御神体山の三輪山(みわやま)の山頂に磐座(いわくら;神様が降臨したり、宿(やど)ると考えられた巨石や岩場そのもの)を祭ったと考えられて、彦坐王(ひこいますのみこ)が大和(おおやまと)神社の倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)と共に祭り直して、天照神(あまてるかみ)を女性皇族が祭って、大物主神(おおものぬしのかみ)と倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)を男性の宮司(神主)が祭るべきと考えられる。
磯長尾市(しながおいち)は、倭国造(やまとくにみやつこ)と倭直(やまとのあたい)の先祖で、倭国造(やまとくにみやつこ)で海部(あまべ)氏の倭宿禰命(やまとすくねのみこと)と同一人物で、彦坐王(ひこいますのみこ)と考えられる。崇神(すじん)天皇6年9月16日(西暦89年10月頃)に渟名城姫命(ぬなきひめのみこと)は、倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)を祭ったが、崇神(すじん)天皇7年メ月1日(西暦90年11月頃)に磯長尾市(しながおいち)と交代したと考えられる。 『ホツマツタエ』崇神(すじん)天皇8年(西暦91年)は、高橋邑(たかはしむら;奈良市杏町高橋か天理市櫟本町(いちのもとちょう)付近)の活日(いくひ)と言う人物が初代・大物主神(おおものぬしのかみ)に酒を作って奉納した。
12月8日(西暦92年1月頃)に初代・大田田根子(おおたたねこ;彦坐王(ひこいますのみこ)を祖先化)を斎主として、初代・大物主神(おおものぬしのかみ)の祭礼をした時に崇神(すじん)天皇が来られて、活日の献上した神酒(みき)を飲む宴(うたげ)がされて、その宴で崇神(すじん)天皇が歌を詠まれた。

この神酒(みき)は わが神酒(みき)ならず 大和(やまと)なる 大物主(おおものぬし)の 神(かみ)の神酒(みき) 活日授(いくひさづ)くる 杉葉幾久(すきはいくひさ)
(この神酒は私のための神酒でなく、活日が献上した大物主神(おおものぬしのかみ)のための神酒である。杉の葉に囲まれた三輪山の守護が幾久しくありますように)

宴が終わって今度は臣たちが歌った。

うま酒(ざけ)や 身(み)は三輪(みわ)の殿(との) 朝戸(あさど)にも 出でで行(い)かなん 三輪(みわ)の殿戸(とのと)お
(ああ、うまい酒だった。朝早く三輪の殿戸から出ていこうよ。三輪の殿戸から)

すると垂仁天皇が返歌を作られた。

うま酒(さけ)に 身(み)は三輪(みわ)の殿(との) 朝戸(あさと)にも 押(お)し開(ひら)かねよ 三輪(みわ)の殿戸(とのと)お
(ああ、うまい酒だった。朝早く三輪の殿戸を押し開こうよ。三輪の殿戸を)

そう歌い終わって殿戸を押し開いて、天皇ご一行は皇居に帰って行かれた。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の崇神(すじん)天皇8年(紀元前90年)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の崇神(すじん)天皇8年(西暦91年)が正しい。)

『ホツマツタエ』崇神(すじん)天皇9年3月15日(西暦92年4月頃)の夜は、崇神(すじん)天皇の夢枕に神様が立たれて言って、赤と白と黄の矛を立てて、宇陀(うだ)や墨坂(すみさか)や大阪などの神々を残りなく祭って、死んだ罪人の霊が地上に留(とど)まるから祟(たた)ると言う。
崇神(すじん)天皇9年4月22日(西暦92年5月頃)は、大鹿島(おおかしま;誰か不明)と初代・大田田根子(おおたたねこ;彦坐王(ひこいますのみこ)を祖先化)が魂返(たまがえ)しの秘法で、迷う罪人の霊魂を祭り上げて、これでますます世が明るさを取り戻した。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の崇神(すじん)天皇9年3月15日と4月22日(紀元前89年4月頃と5月頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の崇神(すじん)天皇9年3月15日と4月22日(西暦92年4月頃と5月頃)が正しい。)

崇神(すじん)天皇9年3月15日(西暦92年4月頃)の夜に崇神(すじん)天皇は、疫病の死者の霊魂を祭り上げる夢を見て、4月22日(5月頃)に初代・大鹿島(おおかしま;誰か不明で、彦坐王(ひこいますのみこ)と同一人物か分からない)と初代・大田田根子(おおたたねこ)の彦坐王(ひこいますのみこ)が魂返(たまがえ)しの秘法で、何らかの疫病による死者の霊魂を祭り上げたと考えられる。

大鹿島(おおかしま;誰か不明)と初代・大田田根子(おおたたねこ;彦坐王(ひこいますのみこ)は、2人で登場して別人だが、大鹿島(おおかしま;誰か不明)の先祖の天種子(あめたねこ)が種子(たねこ)と記して、大田田根子(おおたたねこ;彦坐王(ひこいますのみこ)を連想して、同一人物か分からず、大鹿島(おおかしま)が祖父の祖別命(みおやわけのみこと)と娘の弟橘姫(おとたちばなひめ)と孫の稲瀬彦皇子(いなせひこのみこ)の先祖で、藤原氏の先祖に当たる。
藤原氏の先祖の天種子(あめたねこ)は、神武(じんむ)東征(仁徳(にんとく)東征)に登場して、神武(じんむ)天皇が初代の崇神(すじん)天皇と5代目の仁徳(にんとく)天皇を祖先化して、子孫の大鹿島(おおかしま)が色々な時代に登場して、天種子(あめたねこ)が彦坐王(ひこいますのみこ)でもおかしくないが、十分な研究・分析が必要である。

日本最古の神社と疫病(えやみ)は、古代天皇家の神道の母胎(ぼたい)と政教(政治と宗教)の分離で、疫病(えきびょう)の鎮魂(ちんこん)が目的で、崇神(すじん)天皇10年7月24日(西暦93年8月頃)から崇神(すじん)天皇12年3月11日(西暦95年4月頃)まで、京都府北部から島根県東部を平定して、崇神(すじん)天皇39年3月3日(西暦122年4月頃)から8月18日(9月中旬頃)に京都府宮津市の元伊勢真名井(まない)神社を祭って、京都府北部から島根県東部まで、古代太陽神を祭るための布石(ふせき)だった。

京都府北部の元伊勢
崇神(すじん)天皇39年3月3日(西暦122年4月上旬頃)は、巫女(みこ)の豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)が京都府宮津市の元伊勢真名井(まない)神社の土地を定めて、8月18日(9月中旬頃)に瑞籬(みずがき;石の祭壇)を作って、男性の古代太陽神の天照神(あまてるかみ)と男神(おがみ)の豊受大神(とようけおおかみ)を祭って、場所が判明した最古の元伊勢で、伊勢神宮内宮の最終遷宮よりも古くて、元伊勢(元々の伊勢神宮の意味)に間違いない。
京都府福知山市大江町の元伊勢の内宮(ないぐう)と外宮(げぐう)は、京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社宮司家である海部(あまべ)氏の先祖の大倉岐命(おおくらきのみこと)が西暦260年代から280年代頃に祭ったのが最古の可能性で、それ以降に海部(あまべ)氏が祭った可能性もあって、古代太陽神氏族の海部(あまべ)氏が祭ったのが確実である。
崇神(すじん)天皇11年4月13日(西暦94年5月中旬頃)は、丹波(たには;古代の京都府北中部)平定を報告して、京都府北部から兵庫県北部が弥生時代中期末に大規模集落遺跡の大半が消滅か断絶して、弥生時代後期初頭(西暦100年頃)に小規模集落遺跡が急増して、京都府が弥生時代後期に鉄製品が急増して、淡路島に弥生時代後期の鉄製品の集落遺跡が2つあって、古代天皇家が米と鉄を権力の象徴にしたと考古学(遺跡・遺物)で証明して、説明を『京都府北部の元伊勢』の章に任(まか)せる。

その後の元伊勢内宮
元伊勢は、元々の伊勢神宮内宮を意味して、岡山県と広島県の元伊勢が年代的な論理矛盾から否定して、岡山県と広島県の元伊勢内宮の創建時代が違って、愛知県の元伊勢内宮を創建した倭姫命(やまとひめのみこと)の年齢矛盾で否定されて、参考文献の正しい解釈が大切で、否定理由を下記する。
最古の元伊勢内宮は、崇神(すじん)天皇6年(西暦89年)創建の奈良県の笠縫邑(かさぬいむら;所在地不明)で、2番目の元伊勢内宮が崇神(すじん)天皇39年(西暦122年)創建の京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社で、京都府福知山市大江町の元伊勢の内宮と外宮が3世紀後半以降に創建して、これらを省(はぶ)いて、複数の参考文献が存在して、所在地不明な元伊勢内宮の複数の候補地があって、候補地や元伊勢内宮の遷宮年も複数あって、僕なりの自己分析をする。

『ホツマツタエ』で初代の斎王(さいおう;太陽神に仕(つか)える未婚の皇女)のトヨスキイリヒメは、元伊勢内宮を与謝(よさ;京都府与謝(よさ)郡)から篠畑宮(ささはたのみや)に帰って、そこでまた神託を受けて、天照神(あまてるかみ)の形見(八咫鏡;やたのかがみ)を持って、近江(おうみ;滋賀県)から美濃国(みののくに;岐阜県南部)を巡って、伊勢国(三重県中部)の飯野(いいの)に至って、高日小川(たかひおがわ)に鈴をとどめた。2代目の斎王(さいおう)のヤマトヒメは、元伊勢内宮を飯野(いいの)の高宮(たかみや)から出て、飯野(いいの)から磯部(いそべ;三重県志摩市磯部町)に遷宮した。
『ホツマツタエ』で他の元伊勢内宮は、景行(けいこう)天皇20年2月4日(西暦210年3月頃)に多気(たけ;三重県度会郡大紀町)の滝原宮(たきはらのみや)の宮居が登場するが、明確に元伊勢内宮と記されなくて、後世に元伊勢内宮とした可能性もある。
『ホツマツタエ』の元伊勢内宮は、2番目の京都府宮津市から奈良県宇陀(うだ)市の篠畑宮(ささはたのみや)が複数の候補地、滋賀県の甲賀(こうが)市か湖南(こなん)市の甲賀日雲宮(こうがひぐものみや;所在地不明)と滋賀県米原(よねはら)市の坂田宮(さかたのみや)の坂田神明宮(さかたしんめいぐう)、岐阜県瑞穂市の伊久良河宮(いくらがわのみや)天神(てんじん)神社、三重県松阪市の飯野高宮(いいのたかみや)が複数の候補地と考えられる。

『倭姫命世紀(やまとひめのみことせいき)』は、崇神(すじん)天皇43年(西暦126年)創建の倭国(やまとのくに;奈良県)の伊豆加志本宮(厳橿之本宮;いつかしもとのみや)で、奈良県桜井市に複数の候補地があって、崇神(すじん)天皇60年(西暦143年)創建の大和国(やまとのくに;奈良県)の佐々波多宮(ささはたのみや)が奈良県宇陀(うだ)市の篠畑(ささはた)神社である。
崇神(すじん)天皇43年(西暦126年)創建の篠畑宮(ささはたのみや;奈良県宇陀(うだ)市の篠畑(ささはた)神社)は、先に祭られて、次に同年(崇神(すじん)天皇43年の西暦126年)創建の伊豆加志本宮(いつかしもとのみや;奈良県桜井市に複数の候補地)に遷宮(せんぐう)したと記して、伊豆加志本宮(いつかしもとのみや)が最古の元伊勢の笠縫邑(かさぬいむら;所在地不明)と同じ神社とする説もあって、どれが正しい情報か分からなくて、超天才の僕でも自己分析できない。

『倭姫命世紀(やまとひめのみことせいき)』の元伊勢内宮は、崇神(すじん)天皇51年(西暦134年)創建の木乃国(きのくに;紀伊国:きいのくに)の奈久佐浜宮(名草浜宮;なぐさはまのみや)が和歌山市の濱宮(はまのみや;浜宮(はまみや)神社)で、西暦134年に和歌山県が確実に古代天皇家の領土で、崇神(すじん)天皇65年(西暦148年)創建の和歌山県田辺市の熊野本宮(ほんぐう)大社が証明されて、時系列順が正しいと考えられる。
『倭姫命世紀(やまとひめのみことせいき)』の元伊勢内宮は、崇神(すじん)天皇54年(西暦137年)創建の吉備国(きびのくに;岡山県と広島県東部)の名方浜宮(なかたはまのみや)が歴史学(歴史書解釈)で、吉備(きび)平定が垂仁(すいにん)天皇29年(西暦180年)と証明して、岡山県と広島県の元伊勢内宮を否定して、紀伊国(きいのくに;和歌山県)を吉備国(きびのくに)と書き間違えて、正式な和歌山県の元伊勢内宮の候補地が2神社である。

『倭姫命世紀(やまとひめのみことせいき)』の元伊勢内宮は、倭(やまと;奈良県)の弥和乃御室嶺上宮(美和之御諸宮;みわのみむろみねうえのみや)が崇神(すじん)天皇58年(西暦141年)創建の奈良県桜井市の三輪山(みわやま)山頂だが、『ホツマツタエ』で崇神(すじん)天皇7年メ月1日(西暦90年11月頃)創建の三輪山(みわやま)に当たって、『倭姫命世紀(やまとひめのみことせいき)』が完全な間違いと考えられる。
崇神(すじん)天皇60年(西暦143年)創建の大和国(やまとのくに;奈良県)の宇多秋宮(宇太阿貴宮;うだあきのみや)は、奈良県宇陀(うだ)市の元伊勢内宮の阿紀(あき)神社で、間違いなく正しいと考えられる。

『倭姫命世紀(やまとひめのみことせいき)』の元伊勢内宮は、崇神(すじん)天皇64年(西暦147年)創建の伊賀国(いがのくに;三重県北西部)の隠市守宮(なばりいちもりのみや)が三重県名張(なばり)市に候補地が複数あって、崇神(すじん)天皇66年(西暦149年)創建の伊賀国(いがのくに)の穴穂宮(あなほのみや)が三重県伊賀(いが)市に候補地が複数あって、垂仁(すいにん)天皇2年(西暦153年)創建の伊賀国(いがのくに)の敢都美恵宮(あえとみえのみや)が三重県伊賀(いが)市に候補地が2つあって、伊賀(いが;三重県北西部)の平定年代を証明した。
崇神(すじん)天皇64年(西暦147年)に伊賀国(いがのくに;三重県北西部)は、間違いなく古代天皇家の領土で、垂仁(すいにん)天皇7年6月頃(西暦158年7月頃;西暦147年から11年後)に終戦した倭国大乱(わこくたいらん;狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱)で、伊勢国(いせのくに;三重県中部)が古代天皇家の領土に編入して、垂仁(すいにん)天皇14年(西暦165年;西暦147年から18年後)に元伊勢内宮を伊勢国(いせのくに)に初(はじ)めて創建して、垂仁(すいにん)天皇26年(西暦177年;西暦147年から30年後)に伊勢神宮の内宮(ないぐう)と外宮(げぐう)を最終遷宮した。
天照神(あまてるかみ)は、元々独立した日本神話の神様で、初めて祭った時に実在の人物を神格化せず、崇神(すじん)天皇64年(西暦147年)の元伊勢内宮の隠市守宮(なばりいちもりのみや)で、三重県伊賀(いが)市に天照神(あまてるかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)を祭って、熊野本宮(くまのほんぐう)大社の創建年の崇神(すじん)天皇65年(西暦148年)と1年違いで、彦坐王(ひこいますのみこ)の死去年が崇神(すじん)天皇62年頃(西暦145年頃)で、崇神(すじん)天皇64年頃(西暦147年頃)以降に男性の古代太陽神と彦坐王(ひこいますのみこ)を同一視したと考えられる。

『倭姫命世紀(やまとひめのみことせいき)』の元伊勢内宮は、淡海国(おうみのくに;滋賀県)の甲賀日雲宮(こうがひぐものみや)が垂仁(すいにん)天皇4年(西暦155年)創建で、候補地が滋賀県甲賀(こうが)市か、湖南(こなん)市に複数あって、滋賀県守山(もりやま)市の伊勢(いせ)遺跡で出土した伊勢神宮本殿の神殿建築に似た構造の建物跡が元伊勢内宮の本殿でないと考えられて、滋賀県甲賀(こうが)市が滋賀県守山(もりやま)市に近くて、淡海国(おうみのくに)の坂田宮(さかたのみや)が垂仁(すいにん)天皇8年(西暦159年)創建で、滋賀県米原(まいばら)市の坂田神明宮(さかたしんめいぐう)に当たる。
滋賀県守山(もりやま)市の伊勢町(いせちょう)から阿村町(あむらちょう)にかけての伊勢(いせ)遺跡は、弥生時代後期の1世紀後半から2世紀後半(西暦80年から180年頃)の遺跡で、『ホツマツタエ』の神武(じんむ)天皇3年(崇神(すじん)天皇3年の西暦86年)から垂仁(すいにん)天皇29年頃(西暦180年頃)までの年代で、伊勢神宮本殿の建築様式の唯一神明造(しんめいづくり)に似た構造の建物跡が似ているだけで、神明造(しんめいづくり)でないことから、元伊勢内宮の本殿と断定できないが、神明造(しんめいづくり)が西暦80年から180年頃に存在したことを証明する超重要な発見である。
伊勢(いせ)遺跡は、元伊勢内宮と考えにくくて、甲賀日雲宮(こうがひぐものみや)の候補地が滋賀県甲賀(こうが)市に複数あって、坂田宮(さかたのみや)が滋賀県米原(まいばら)市の坂田神明宮(さかたしんめいぐう)に当たる時、滋賀県甲賀(こうが)市が滋賀県守山(もりやま)市の伊勢(いせ)遺跡に近くて、伊勢神宮本殿の建築様式の唯一神明造(しんめいづくり)に似た構造の建物跡でも、あくまで可能性にすぎないことを正しく考えるべきで、超天才の僕なりの判断である。
伊勢(いせ)遺跡の神明造(しんめいづくり)に似た構造の建物跡は、考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)で、伊勢神宮本殿の建築様式の唯一神明造(しんめいづくり)が天皇家誕生(日本国の建国)の西暦84年まで、遡(さかのぼ)る可能性を証明して、7世紀から8世紀頃にようやく神明造(しんめいづくり)を確認した考古学を覆(くつがえ)して、伊勢(いせ)遺跡の建物跡の詳細を以前から知っていたが、2026年7月23日の午前8時頃に特定した。

『倭姫命世紀(やまとひめのみことせいき)』の元伊勢内宮は、垂仁(すいにん)天皇10年(西暦161年)創建の美濃国(みののくに;岐阜県南部)の伊久良河宮(いくらがわのみや)が岐阜県瑞穂市の天神(てんじん)神社で、『ホツマツタエ』の元伊勢が…近江(おうみ;滋賀県)から美濃国(みののくに;岐阜県南部)を巡って、伊勢国(三重県中部)の飯野(いいの)に至ると記して、歴史学(歴史書解釈)で証明して、西暦161年に美濃(みの;岐阜県南部)が確実に古代天皇家の領土と考えられる。
垂仁(すいにん)天皇10年(西暦161年)の美濃(みの;岐阜県南部)の統治者は、彦坐王(ひこいますのみこ)の息子の神大根王(かみおおねのみこ)と崇神(すじん)天皇の息子の八坂入彦命(ややさいりひこのみこと)を任命して、『ホツマツタエ』の日本神話で、沫蕩尊(あわなぎのみこと;崇神(すじん)天皇を神格化)が根(ね)の国(岐阜県)を統治して、美濃(みの)の太陽信仰が2世紀中頃(西暦140年から160年頃)に岐阜県南部の考古学(遺跡・遺物)と合致して、古代太陽神氏族の和珥(わに)氏の神大根王(かみおおねのみこ)が古代太陽神を祭ったと考えられる。

『倭姫命世紀(やまとひめのみことせいき)』の元伊勢は、垂仁(すいにん)天皇14年(西暦165年)創建の尾張国(おわりのくに;愛知県西部)の中嶋宮(なかじまのみや;所在地不明)で、倭姫命(やまとひめのみこと)が創建したが、『ホツマツタエ』垂仁(すいにん)天皇12年9月16日(西暦163年10月頃)生まれのヤマトヒメが祭れず、西暦165年に尾張(おわり)氏が男性の古代太陽神を祭って、後世に元伊勢を語(かた)って、これ以前に尾張(おわり)平定が証明できないと考えられる。
垂仁(すいにん)天皇14年(西暦165年)の尾張国(おわりのくに;愛知県西部)は、太陽神を祭る京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社宮司家の海部(あまべ)氏から、分家した尾張(おわり)氏が統治して、2世紀中頃の西暦165年に尾張(おわり)氏の誰が統治したか不明で、西暦165年に愛知県が確実に古代天皇家の領土と考えられる。

『倭姫命世紀(やまとひめのみことせいき)』の元伊勢内宮は、垂仁(すいにん)天皇14年(西暦165年)創建の阿野国(あのくに)がどこに存在したのか、完全に謎(なぞ)である。『倭姫命世紀(やまとひめのみことせいき)』の元伊勢内宮は、垂仁(すいにん)天皇14年(西暦165年)創建の伊勢国(いせのくに;三重県中部)の阿佐加藤方片樋宮(あさかのふじかたかたひのみや;所在地不明)が三重県の津市と松坂市に候補地が4つある。
垂仁(すいにん)天皇25年(西暦176年)創建の伊勢国(いせのくに;三重県中部)の飯野高宮(いいのたかみや)は、三重県松坂市の元伊勢で、6つの候補地の神社があって、場所を断定できない。
『ホツマツタエ』の垂仁天皇25年(西暦176年)は、高宮(たかみや)から磯部(いそべ)…五十鈴川(いすずがわ)に至って、倭姫命(やまとひめのみこと)が元伊勢を飯野高宮(いいのたかみや)から、磯部(いそべ;三重県志摩市磯部町)の伊雑宮(いざわのみや)で、五十鈴宮(いすずのみや;伊勢神宮内宮)に遷宮したと解釈して、伊雑宮(いざわのみや)が伊勢神宮の別宮(べつぐう)と遙宮(とおのみや)で、非常に大切である。
垂仁(すいにん)天皇25年(西暦176年)の伊勢国(いせのくに;三重県中部)の佐々牟江宮(ささむえのみや)は、三重県多気(たき)郡明和町(めいわちょう)の竹佐々夫江(たけささふえ)神社に当たる。
垂仁(すいにん)天皇25年(西暦176年)の伊勢国(いせのくに;三重県中部)の伊蘇宮(いそのみや)は、僕が三重県伊勢市の磯(いそ)神社と考えて、三重県多気郡(たきぐん)多気町(たきちょう)の相鹿上(おおかがみ)神社も候補地だが、私見で省(はぶ)いた。
垂仁(すいにん)天皇25年(西暦176年)の伊勢国(いせのくに;三重県中部)の大河之滝原之国(おおかわのたきはらのくに)は、三重県多気郡(たきぐん)大紀町(たいきちょう)の瀧原宮(たきはらのみや)で、伊勢神宮の別宮(べつぐう)で遙宮(とおのみや)でもあって、内宮(ないぐう)と外宮(げぐう)に次(つ)ぐ3番目の社格だが、『ホツマツタエ』で景行(けいこう)天皇20年2月4日(西暦210年3月上旬頃)に初見して、伊勢神宮内宮以前の元伊勢(元々の伊勢神宮の意味)と100%証明できない。
垂仁(すいにん)天皇25年(西暦176年)の伊勢国(いせのくに;三重県中部)の矢田宮(やだのみや)は、三重県伊勢市の口矢田ノ森(くちやだのもり)で、社(やしろ)がなくて、神宮神田(じんぐうかんだ)として、伊勢神宮に米を奉納する。
垂仁(すいにん)天皇25年(西暦176年)の伊勢国(いせのくに;三重県中部)の家田々上宮(やだのたうえのみや)は、三重県伊勢市の大土御祖(おおつちみおや)神社か神宮神田(じんぐうかんだ)南の忌鍬山(ゆくわやま)山頂と考えられる。
垂仁(すいにん)天皇25年(西暦176年)の伊勢国(いせのくに;三重県中部)の奈尾之根宮(なおのねのみや)は、三重県伊勢市の那自賣(なじめ)神社と考えられて、最後の元伊勢である。

その後の元伊勢内宮は、ネット検索を中心に自分なりに自己分析して、色々と考えを巡(めぐ)らせて、納得できる結論を作り上げた。

王女の卑弥呼共立
西暦180年代頃に女王国の幼少の卑弥呼(ひみこ)は、女王に推薦(すいせん)して共立して、鬼道で民衆を惑(まど)わせたと勘違いした。

西暦170年代から180年代に倭国大乱(わこくたいらん)は、国が乱(みだ)れて、30近い国が女王の卑弥呼(ひみこ)を共立して、卑弥呼(ひみこ)の男弟(だんてい)が邪馬台国(やまたいこく)を直接統治して、70年から80年ほど女王の卑弥呼(ひみこ)の時代が続いたと勘違いした。
垂仁(すいにん)天皇5年から7年(西暦156年から158年)は、2代目出雲国王の狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱(倭国大乱(わこくたいらん)が起きて、垂仁天皇25年3月8日(西暦176年4月上旬頃)に卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)を伊勢神宮の正式な斎王(さいおう;太陽神に仕(つか)える未婚の皇女)にして、倭姫命(やまとひめのみこと)の異母弟の景行(けいこう)天皇が景行(けいこう)天皇元年7月11日(西暦191年8月中旬頃)に3代目天皇へ即位した。
邪馬台国(大和国;やまとこく)論争は、超天才の僕が100%完全に古代天皇家の歴史に間違いないと証明して、他の誰も絶対に口出しできない完璧(かんぺき)な自論が成立して、反論できる物なら100%否定すれば良い。

『新羅本紀(しらぎほんき)』8代目・阿達羅尼師今(アダラ・イサグム)20年5月(西暦173年6月頃)に「倭(わ)の女王の卑弥乎(ひみこ)が遣使して聘(め)して来た」と記して、卑弥乎(ひみこ)が卑弥呼(ひみこ)の書き間違いである。
『新羅本紀(しらぎほんき)』は、12世紀以降にできて、『三国志・魏志倭人伝』の影響で、使者が卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)の名前で朝貢して、斎王(さいおう;太陽神に仕(つか)える未婚の皇女)になる前だが、仮(かり)の卑弥呼(ひみこ)共立の前年で、3つ子の長子で特別視して、政治に参加した可能性も考えられる。

『ホツマツタエ』垂仁(すいにん)天皇22年12月28日(西暦174年1月下旬頃)に皇女の倭姫命(やまとひめのみこと)は、今年が数え年11歳で、実年齢10才で、2代目の伊勢神宮の斎王(さいおう;太陽神に奉仕する未婚の皇女)見習いとなるため、若子(わかご)親子が共に伊勢国(三重県中部)に向かった。
天鈿女命(あめのうずめのみこと)は、倭姫命(やまとひめのみこと)の髪を大垂髪(おおすべらかし)にゆい上げるために、髪をほどいて落とした間に年が明けて、初日(2月上旬頃)が明けると共に小原を立って、伊勢の高宮(たかみや)に入って、初代の斎王(さいおう)の豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に仕(つか)えた。
これは2代目の伊勢神宮斎王(さいおう)の見習い任命で、仮(かり)の卑弥呼(ひみこ)共立である。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の垂仁(すいにん)天皇23年1月1日(紀元前7年2月上旬頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の垂仁(すいにん)天皇23年1月1日(西暦174年2月上旬頃)が正しい。)

卑弥呼(ひみこ)が歴史に登場したのは、西暦173年の卑弥乎(ひみこ)の初見か、翌年174年の倭姫命(やまとひめのみこと)を伊勢神宮斎王の選定(仮の卑弥呼(ひみこ)共立)した時で、176年に倭姫命(やまとひめのみこと)を正式に2代目の伊勢神宮斎王に任命(正式な卑弥呼(ひみこ)共立)した。
若子(わかご)親子とは、伊勢神宮宮司家の度会(わたらい)氏の人物と考えられて、参考文献『新編 姓氏家系辞書』(著者・太田亮 発行・株式会社秋田書店)に大若子命(おおわかごのみこと)と弟の乙若子命(おとわかごのみこと)が記されて、この人物の関係が兄弟でなく、『ホツマツタエ』の親子の可能性が高い。
度会(わたらい)氏の祖先神は、天児屋命(あまのこやねのみこと)か天御雲命(あめのみくものみこと)の息子の天牟羅雲命(あめのむらくものみこと)で、平安時代の藤原氏と近縁氏族で、古代天皇家の派生氏族でもあって、京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社宮司家の海部(あまべ)氏が祖先神に天村雲命(あめのむらくものみこと)がいて、神名が同じだけで全く別の神様である。
伊勢の高宮(たかみや)は、元伊勢の飯野高宮(いいのたかみや)で、候補地が幾つもあって、どこが正しいか分からない。
大垂髪(おおすべらかし)は、「おすべらかし」とも言って、平安時代の貴族女性の髪形で、特別に何もせず長髪を垂(た)らした状態を差すこともあって、現在の皇室の宮中祭祀で皇族女性がする髪形でもあって、ツタンカーメンの黄金のマスクが表裏で大垂髪(おおすべらかし)の髪型とそっくりである。
『ホツマツタエ』垂仁(すいにん)天皇23年1月1日(西暦174年2月上旬頃)の天鈿女命(あめのうずめのみこと)は、天岩戸隠(あまのいわとかく)れ神話に猿田彦(さるたひこ;2代目・大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)の子供の誰かを神格化)の妻の天鈿女命(あめのうずめのみこと)で登場して、猿田彦神(さるたひこのかみ)も垂仁天皇26年(西暦177年)に登場して、猿田彦神(さるたひこのかみ)と天鈿女命(あめのうずめのみこと)の夫婦が2組を神格化した証拠である。
つまり西暦170年代と西暦263年頃の天岩戸隠(あまのいわとかく)れ神話は、時代的に考えておかしくて、2組の猿田彦神(さるたひこのかみ)と天鈿女命(あめのうずめのみこと)の夫婦を神格化したと考えられる。


『ホツマツタエ』垂仁天皇25年3月8日(西暦176年4月上旬頃)に天照神(あまてるかみ)の御霊(みたま)は、数え年103才で、実年齢102才の豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)から離して、幼少の倭姫命(やまとひめのみこと)に付けて、倭姫命(やまとひめのみこと)が念願だった大内(おうち)の大巫女(おみこ;正式な斎王)となった。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の垂仁(すいにん)天皇25年3月10日(紀元前5年4月上旬頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の垂仁(すいにん)天皇25年3月10日(西暦176年4月上旬頃)が正しい。)

卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)は、女王国(伊勢国)で正式な伊勢神宮の斎王(さいおう)になって、皇女を女王と勘違いして、鬼道(神道)で皆を導いて、正式な卑弥呼(ひみこ)共立である。
倭姫命(やまとひめのみこと)の伊勢神宮の斎王(さいおう)任命は、卑弥呼(ひみこ)共立で、皇女を女王と古代中国人が勘違いして、現代人がそれを受け継いで、僕が正しい事実を突き止めた。

王女の卑弥呼(ひみこ)共立は、倭姫命(やまとひめのみこと)の伊勢神宮の斎王(さいおう)任命で間違いなくて、『ホツマツタエ』を完全解釈できる僕以外に求められなかった。

伊勢神宮の最終遷宮
『ホツマツタエ』垂仁(すいにん)天皇25年2月8日(西暦176年3月上旬頃)は、武渟川別(たけぬなかわわけ)と彦国葺(ひこくにふく)と三笠臣(みかさとみ)大鹿島(おおかしま)と十市根(といちね)および武日(たけひ)に詔(みことのり;天皇の述べた言葉)した。
「我が父親の崇神(すじん)天皇は聡明(そうめい)で、天皇家の道理をよくご存じだった。
政治のあやまりを正して、神の前に謙遜(けんそん)して、あがめ献身された。ゆえに穀物も豊穣となり、国民も豊かににぎわった。
今我が世にもこれをおこたらず、父親のように神を祭ろうと思う」と。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の垂仁(すいにん)天皇25年2月8日(紀元前5年3月上旬頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の垂仁(すいにん)天皇25年2月8日(西暦176年3月上旬頃)が正しい。)

武渟川別(たけぬなかわわけ)は、この時代に生まれて無くて、祖母の高田媛(たかだひめ)の父である曾祖父の狭穂彦王(さほひこ)が亡くなって、その息子の野見宿禰(のみのすくね;高田媛(たかだひめ)の兄)に当たると考えられる。
彦国葺(ひこくにふく)は、彦坐王(ひこいますのみこ)の直系子孫で、物部(もののべ)氏と海部(あまべ)氏などに当たって、誰か断定できなくて、三笠臣(みかさとみ)大鹿島(おおかしま)が稲瀬彦皇子(いなせひこのみこ)の祖父の祖別命(みおやわけのみこと)に当たる。
十市根(といちね)は、物部十市根(もののべのといちね)で、この時代の人物だから間違いなくて、武日(たけひ)が大伴武日命(おおとものたけひのみこと)で、景行天皇60年(西暦250年)に東海平定の武将で登場して、武日(たけひ)の先祖の誰かと考えられる。

垂仁(すいにん)天皇は、父親の崇神(すじん)天皇を見習って、伊勢神宮内宮(ないぐう)と外宮(げぐう)を遷宮して、太陽神を安定して祭ろうと考えたのだろう。

『ホツマツタエ』垂仁天皇25年3月8日(西暦176年4月上旬頃)に天照神(あまてるかみ)の御霊(みたま)は、数え年103才で、実年齢102才の豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)から離して、幼少の倭姫命(やまとひめのみこと)に付けて、倭姫命(やまとひめのみこと)が念願だった大内(おうち)の大巫女(おみこ;正式な斎王(さいおう;太陽神に奉仕する未婚の皇女)となった。
倭姫命(やまとひめのみこと)は、八咫鏡(やたのかがみ)の入った御霊笥(みたまげ)をかついで、高宮(たかみや)を出て、飯野(いいの)から磯部(いそべ;三重県志摩市磯部町)の伊雑宮(いざわのみや)に遷宮して、御霊(みたま)を鎮めた。
するともっと良い宮所は、あると神託を得たため、若子(わかご)を派遣して、五十鈴川(いすずがわ)に至って、208万才(数え年)の猿田彦神(さるたひこのかみ)がいて、若子(わかご)に言った。
「私は昔、天照神(あまてるかみ)からの賜(たまわ)り物を賢釧宇治(さごくしろうぢ)の宮居(みやい;三重県伊勢市宇治館町の伊勢神宮内宮)に納(おさ)め奉(たてまつ)って、天照神(あまてるかみ)の荒御魂(あらみたま)を奉斎して、8万年間も神宝(かんだから)を授ける者を待った。皇位継承の逆矛木(さかほこぎ)、美しき鈴、時を待ってそれを授けて、神の道を現せよと思っていたが、なかなかそれに相応(ふさわ)しい者が現れなかった」と言って、若子(わかご)に神宝を授けられた。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の垂仁(すいにん)天皇25年3月8日(紀元前5年4月上旬頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の垂仁(すいにん)天皇25年3月8日(西暦176年4月上旬頃)が正しい。)

天照神(あまてるかみ)は、元々独立した日本神話の神様で、初めて祭った時に実在の人物を神格化せず、崇神(すじん)天皇64年(西暦147年)の元伊勢内宮の隠市守宮(なばりいちもりのみや)で、三重県伊賀(いが)市に天照神(あまてるかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)を祭って、熊野本宮(くまのほんぐう)大社の創建年の崇神(すじん)天皇65年(西暦148年)と1年違いで、彦坐王(ひこいますのみこ)の死去年が崇神(すじん)天皇62年頃(西暦145年頃)で、崇神(すじん)天皇64年頃(西暦147年頃)以降に男性の古代太陽神と彦坐王(ひこいますのみこ)を同一視したと考えられる。

15才頃の豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)は、崇神(すじん)天皇6年9月17日(西暦89年10月頃)の夜に男性の古代太陽神の天照神(あまてるかみ)と三種の神器の八咫鏡(やたのかがみ)を所在地不明の元伊勢内宮の笠縫邑(かさぬいのむら)に祭って、垂仁天皇25年3月8日(西暦176年4月上旬頃)に天照神(あまてるかみ)の御霊(みたま)を102才の豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)から離(はな)して、幼少の倭姫命(やまとひめのみこと)に付けて、亡くなった可能性が高い。
『ホツマツタエ』の豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)の年齢は、86年以上も男性の古代太陽神の天照神(あまてるかみ)を祭った独身の女性皇族の正式記録で、『日本書紀』ならば女性の太陽神の天照大神(あまてらすおおみかみ)を祭った巫女(みこ)で、歴代皇族の中で最長の天照神(あまてるかみ)と天照大神(あまてらすおおみかみ)を祭った超重要人物である。

三重県志摩市磯部町の伊雑宮(いざわのみや)の遷宮時期は、『ホツマツタエ』にちゃんと記して、僕の自論の元伊勢が正しいと考えられて、若子(わかご)を派遣した伊勢神宮内宮(ないぐう)が現在の伊勢神宮内宮(ないぐう)で、横を流れるのが五十鈴川(いすずがわ)で、京都府福知山市大江町の元伊勢内宮(ないぐう)にも五十鈴川(いすずがわ)がある。
賢釧宇治(さごくしろうぢ)の「宇治(うじ)」は、伊勢神宮内宮(ないぐう)の地名の三重県伊勢市宇治館町(うじやかたちょう)1番地を差して、天上界の高天原(たかまがはら;天津神(あまつがみ)の世界)を地上に移(うつ)した場所を「賢釧(さこくしろ)」で、その中心地を「賢釧宇治(さごくしろうぢ)」と言う。
猿田彦神(さるたひこのかみ)と妻の天鈿女命(あめのうずめのみこと)は、垂仁(すいにん)天皇時代の西暦170年代と天孫降臨神話の西暦263年頃に登場して、年代差から2組の夫婦を神格化したと考えられる。
伊勢神宮内宮(ないぐう)は、時代が変わっても三種の神器の八咫鏡(やたのかがみ)を納(おさ)めて、猿田彦の持つ神宝の逆矛木(さかほこぎ)が三種の神器の逆矛(さかほこ)を模(も)した木で、伊勢神宮正殿の下に立つ心(しん)の御柱(みはしら)と考えられる。

『ホツマツタエ』長田(ながた)生まれの猿田彦神(さるたひこのかみ)は、「我が元宮に帰られよ。この神宝を持ち帰って、その旨(むね)を倭姫命(やまとひめのみこと)に告げよ」と言って去って行かれた。
若子(わかご)は、倭姫命(やまとひめのみこと)にことの始終を報告すると、倭姫命(やまとひめのみこと)が宇治(うじ)に至って、辺りをご覧になって、「この神風の伊勢の宮居こそ、三種の神宝を祭る源である」と敬意を新たにされた。

猿田彦神(さるたひこのかみ)は、長田(ながた;滋賀県高島市の長田(ながた)神社か?)生まれで、若子(わかご)が度会(わたらい)氏の大若子命(おおわかごのみこと)か乙若子命(おとわかごのみこと)の兄弟のどちらかで、倭姫命(やまとひめのみこと)に神宝を届けて、現在の伊勢神宮に遷宮することを告げた。

『ホツマツタエ』大幡主(おおはたぬし;若子:わかご)と八十伴男(やそとものお)は、五十鈴川原の茅草(かやくさ)を刈らせて、遠近(おちこち)の山々の木を切らせて上下を逆さにして、真ん中の良い所を使って大宮柱(おおみやばしら)を敷き建て、千木(ちぎ)を空高く据え付けて宮を建てた。
その旨(むね)は、垂仁(すいにん)天皇に申し上げると詔(みことのり)して、大鹿島(おおかしま)を斎主(いわいぬし)として、度会臣(わたらいとみ)を神主、武渟川別(たけぬなかわわけ)を垂仁(すいにん)天皇の代理、彦国葺(ひこくにふく)を皇后の代理、物部十市根(もののべのといちね)を皇太后の代理、大伴武日(おおとものたけひ)を足彦(たりひこ;後の景行(けいこう)天皇)の代理として詣(もう)でた。
垂仁(すいにん)天皇26年9月16日(西暦177年10月中旬頃)は、倭姫命(やまとひめのみこと)の14才の誕生日で、天照神(あまてるかみ)の御霊(みたま)を五十鈴川辺の賢釧宇治(さごくしろうぢ)の宮居に遷宮した。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の垂仁(すいにん)天皇26年9月16日(紀元前4年10月中旬頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の垂仁(すいにん)天皇26年9月16日(西暦177年10月中旬頃)が正しくて、遷宮年を紀元前の創建2千年以上にしたのがヨーロッパの太陽暦を使用したからで、2年後の2027年10月頃に遷宮1850年目で、皇族を招(まね)く祭りをするため、西暦年月日の特定が急務である。
『日本書紀』の伊勢神宮内宮の遷宮日は、垂仁(すいにん)天皇26年10月甲子(きのえね)の日と記して、ネット検索で西暦177年11月19日になって、間違いの可能性が高いと考えられる。)


垂仁(すいにん)天皇12年9月16日(西暦163年10月中旬頃)は、卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)の生誕日で、垂仁(すいにん)天皇26年9月16日(西暦177年10月中旬頃)の14才の誕生日が伊勢神宮の内宮の最終遷宮日と合致して、誕生日と遷宮日が同日と2023年1月3日の午後2時40分頃に気付いた。
『日本書紀』の「一説に…垂仁(すいにん)天皇26年10月甲子(きのえね)の日」を伊勢神宮内宮(ないぐう)の最終遷宮日と記して、甲子(きのえね)が新しいことを始める縁起の良い干支(えと)で、『ホツマツタエ』垂仁(すいにん)天皇26年9月16日(旧暦)が10月甲子(きのえね)の日(西暦)と合致して、西暦年月日を正しく求めるヒントの可能性があって、2024年元旦も甲子(きのえね)の日である。
旧暦の西暦177年10月甲子(きのえね)の日は、ネット検索が177年11月19日で、西暦177年8月甲子(きのえね)の日が177年9月20日で、ネット検索か『日本書紀』の日付が当てにならない可能性を指摘する。
2027年10月頃は、おそらく僕の歴史研究が認められて、コロナも収束して、伊勢神宮内宮(ないぐう)の最終遷宮日も西暦年月日が判明して、皇族や各国の首脳や国民を集めて、祭りを行なうことを夢見て、僕が生きていたら、出席したいと思う。

『ホツマツタエ』垂仁(すいにん)天皇26年9月17日(西暦177年10月中旬頃)の夜、御丈柱(みたけばしら;心(しん)の御柱(みはしら)か?)を納(おさ)めて、垂仁(すいにん)天皇は御親(みおや)ら伊勢にて、五穀豊穣をお祈りになると、雨風も順調となって、垂仁(すいにん)天皇が国民も豊かになれと政治を休み、伏(ふ)して願い敬(うやま)い申し上げられた。
この垂仁(すいにん)天皇の篤(あつ)い恵みに天照神(あまてるかみ)も喜び神託を下されて、「昔に私が住んだ賢釧(さごくしろ)の重浪(しきなみ)寄せる伊勢の宮居を長く鎮め守れよ。我も豊受(とよけ)と諸共(もろとも)に守護するだろう」と。
垂仁(すいにん)天皇は、恐れ多いお言葉に心より喜んで、和幣(にぎて)を献じて、トホカミエヒタメ8神(誰を神格化したか不明)が大御気持(おおみけもち)をして、豊受(とよけ)の御霊を遷宮して、また祝人(はふりと;神社に奉仕する人)を丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)とした。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の垂仁(すいにん)天皇26年9月17日(紀元前4年10月中旬頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の垂仁(すいにん)天皇26年9月17日(西暦177年10月中旬頃)が正しい。)

『ホツマツタエ』垂仁(すいにん)天皇26年9月16日(西暦177年10月中旬頃)は、伊勢神宮の内宮の(ないぐう)の遷宮日で、翌日17日が伊勢神宮の外宮(げぐう)の遷宮日で、伊勢神宮の内宮の(ないぐう)と外宮(げぐう)の遷宮日が一緒でなく、違うと『ホツマツタエ』がしっかりと記す。
垂仁(すいにん)天皇26年9月17日(西暦177年10月中旬頃)の天照神(あまてるかみ)の神託は、豊受大神(とよけ;とようけおおかみ)を近くで祭ることで、天照神(あまてるかみ)と豊受大神(とようけおおかみ)が男神(おがみ)で、後世に女神に性別変更して、神格化した人物の特定を混乱させた。
伊勢神宮の内宮(ないぐう)と外宮(げぐう)は、西暦177年に初めて登場して、内宮(ないぐう)と外宮(げぐう)に分かれたことを意味して、卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)の遺産である。
伊勢神宮外宮(げぐう)に豊受大神(とようけおおかみ)を祭る理由は、『ホツマツタエ』が大量に記して、「記紀」がほとんど記さず、『ホツマツタエ』の豊受大神(とようけおおかみ)を研究する必要がある。
伊勢神宮外宮(げぐう)の遷宮は、『止由気宮儀式帳(とゆけぐうぎしきちょう)』で雄略(ゆうりゃく)天皇22年7月だが、『ホツマツタエ』の垂仁(すいにん)天皇26年9月17日(西暦177年10月中旬頃)が正しい。
大御気持(おおみけもち)は、大田田根子(おおたたねこ;彦坐王(ひこいますのみこ)を祖先化)と美気姫(みけひめ;誰か不明)の息子で、三輪(みわ)氏の先祖で、彦坐王(ひこいますのみこ)の息子の誰かである。
西暦177年に丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)は、100才以上の年齢で、実妹の御井津比売(みいつひめ)が崇神(すじん)天皇元年2月16日(西暦84年3月中旬頃)に10才で皇后になって、そこから年齢を計算できる。

倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の神託の教えは、「天照神(あまてるかみ)が子孫繁栄(はんえい)を願って、伊勢国で伊勢の道(結婚の心得)を説(と)いて、諸民を活(い)かし恵む。
ゆえに八民(やたみ)の八をもって、鰹木(かつおぎ)を八本として、千木(ちぎ)の内を削(そ)ぎ内宮(うちみや)とする。
内を削ぐは軽く優しい神恵みによって、八民を豊かにするためである。
またトヨケの社(やしろ)は、逆矛(さかほこ)の法をもって天の九星(こほし)、すなわち天御祖(あめみおや)とトホカミエヒタメ8神の計九柱を表わす鰹木(かつおぎ)九本とし、千木(ちぎ)の外を削(そ)ぐ。
ゆえに外宮(とみや)と讃(たた)えて、内にあつい恵みを、外に尊厳なる神威をもって治める。
民の父として恐れかしこみ、神の道を得よ。
内宮は天皇や人の母が民や子を慈しみ育てる神徳をいただく」と。

『ホツマツタエ』で伊勢神宮の内宮(ないぐう)と外宮(げぐう)は、内宮(うちみや)と外宮(とみや)と呼んで、内側と外側の区別と考えられる。
古代太陽神の倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)の教えは、伊勢神宮内宮(ないぐう)が子孫繁栄(はんえい)を願って、結婚の心得を説(と)いて、国民を守って、伊勢神宮外宮(げぐう)が内宮(ないぐう)を支え守ると考えられる。
伊勢神宮内宮(ないぐう)の鰹木(かつおぎ)八本と伊勢神宮外宮(げぐう)の鰹木(かつおぎ)九本は、現在の伊勢神宮内宮(ないぐう)が鰹木(かつおぎ)十本で、伊勢神宮外宮(げぐう)が鰹木(かつおぎ)九本で、内宮が変化したと考えられる。
天御祖(あめみおや)は、天空にいる天皇家の祖先神のことで、トホカミエヒタメ8神が地球八方の8つの国を治める8人の神様だが、誰を神格化したか分からない。

伊勢神宮の内宮(ないぐう)と外宮(げぐう)は、同時に成立してなくて、『ホツマツタエ』の京都府宮津市の元伊勢に外宮(げぐう)がなくて、初めての外宮の登場が垂仁(すいにん)天皇26年9月17日(西暦177年10月中旬頃)で、京都府福知山市大江町の元伊勢外宮(げぐう)の登場が3世紀後半以降である。
京都府宮津市の元伊勢は、天照神(あまてるかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)と豊受大神(とようけおおかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)を共に祭って、伊勢神宮の内宮(ないぐう)と外宮(げぐう)で、初めて天照神(あまてるかみ;倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)と豊受大神(とようけおおかみ;山代大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)を神格化)が別々に祭られた。

伊勢神宮内宮(ないぐう)は、素戔嗚尊(すさのおのみこと;甥(おい)の日本武(やまとたけ)天皇を神格化)に殺された父方の天照大神(あまてらすおおみかみ;伯母(おば)の倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)を怨霊(おんりょう;祟(たた)り怨(うら)む霊魂)として鎮魂して、皇祖神(こうそしん;皇室の祖先神)で、母方の天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)の2神を崇拝(すうはい)する神社である。
伊勢神宮外宮(げぐう)の祭神の豊受大神(とようけおおかみ;実兄で初代出雲国王の彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと;実弟の崇神(すじん)天皇を神格化)と同一神だが、実兄と実弟を同一神に神格化して、僕以外に誰も特定できなかった。

太陽神の天照大神(あまてらすおおみかみ)は、父方の卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化して、皇祖神(こうそしん;皇室の祖先神)の天照大神(あまてらすおおみかみ)が母方の台与(とよ)の神功(じんぐう)皇后を神格化して、邪馬台国(大和国;やまとこく)論争の卑弥呼(ひみこ)と台与(とよ)を神格化したのが100%間違いない。
古代太陽神の天照神(あまてるかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、子孫が父方の天照大神(あまてらすおおみかみ;倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)と母方の天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)で、先祖の彦坐王(ひこいますのみこ)と子孫の倭姫命(やまとひめのみこと)と神功(じんぐう)皇后の3人だけが天照(あまてる;あまてらす)の神名の太陽神に神格化された。
男性の古代太陽神の天照神(あまてるかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)と女性の太陽神の天照大神(あまてらすおおみかみ;倭姫命(やまとひめのみこと)と神功(じんぐう)皇后を神格化)は、『ホツマツタエ』と「記紀」を完全解釈した超天才の僕が証明して、世界中の国々や人々の太陽(希望の光)にした。
皇祖神(こうそしん;皇室の祖先神)で母方の天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)は、女系天皇と女性天皇と女性宮家の根拠で、今までの女系男子天皇を認める理由でもあって、初代天皇の崇神(すじん)天皇の男系男子天皇より古い神様の系譜の女系男子天皇を認めて、日本国政府も日本国民も世界中の人々も認めさせられるだろう。

古代太陽神の天照神(あまてるかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、子孫の父方の天照大神(あまてらすおおみかみ;倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)が彦坐王(ひこいますのみこ)を始祖(しそ;始まりの先祖)とする古代太陽神氏族の和珥(わに)氏(物部(もののべ)氏を含む)の出身で、同じく子孫の母方の天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)が物部(もののべ)氏の出身である。
彦坐王(ひこいますのみこ)と袁祁都比売命(おけつひめのみこと)は、長男の山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)を生んで、その子孫を省略して、山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)と大筒木垂根王(おおつつきたるねのみこ)が同一人物で、超天才の僕を騙(だま)せない。
比古由牟須美命(ひこゆむすみのみこと)と名前不明の妻は、大筒木垂根王(おおつつきたるねのみこ)を生んで、名前不明の妻との間に樺井月姫(かばいつきひめ)を生んで、垂仁(すいにん)天皇と結婚して、一人娘の倭姫命(やまとひめのみこと)を生んで、3つ子の長子と考えられて、和珥(わに)氏の出身である。
孝霊(こうれい)天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)と倭国香姫(やまとくにかひめ;樺井月姫(かばいつきひめ)を祖先化)は、3つ子の長子の倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと;倭姫命(やまとひめのみこと)を祖先化)を生んで、蛇神で古代太陽神の大物主神(おおものぬしのかみ)と結婚して、倭姫命(やまとひめのみこと)が太陽神に仕(つか)える巫女(みこ)である。

彦坐王(ひこいますのみこ)と沙本之大闇見戸女(さほのおおくらみとめ)は、長男の狭穂彦王(さほひこのみこ)を生んで、名前不明の妻との間に高田媛(たかだひめ)を生んで、景行(けいこう)天皇と結婚して、長男の武虎別皇子(たけこわけのみこ)を生んで、葛城高額媛(かつらぎのたかぬかひめ)との間に娘の神功(じんぐう)皇后を生んで、物部(もののべ)氏の出身で、系図を理論的に繋(つな)いで、詳細な説明を省略する。
彦坐王(ひこいますのみこ)の息子の山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)は、その息子が加邇米雷王(かにめいかずちのみこ)で、その息子が息長宿禰王(いきながすくねのみこ)で、その娘が神功(じんぐう)皇后で、山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)と狭穂彦王(さほひこのみこ)を入れ替えて、血筋を求められないように偽装工作したが、逆に僕が不信感を抱(いだ)いて特定した。
彦坐王(ひこいますのみこ)の息子の狭穂彦王(さほひこのみこ)は、垂仁(すいにん)天皇に反乱(皇位継承権争い)して、物部(もののべ)氏の安倍氏木事(あべうじのこごと)の娘である高田媛(たかだひめ)が景行(けいこう)天皇と結婚して、息子の武虎別皇子(たけこわけのみこ)を生んで、彦坐王(ひこいますのみこ)の子孫の息長宿禰王(いきながすくねのみこ)が天日槍(あめのひぼこ)の子孫の葛城高額媛(かつらぎのたかぬかひめ)と結婚して、娘の神功(じんぐう)皇后を生むなど、系図を繋(つな)ぐ理由を省略する。
先祖の彦坐王(ひこいますのみこ)は、複数の蛇体や男性の古代太陽神に神格化して、子孫の倭姫命(やまとひめのみこと)と神功(じんぐう)皇后が現在の女性の太陽神1神に神格化して、正史(正しい歴史)だから先祖と子孫の血筋が合致して、全てを特定した超天才の僕の神技(かみわざ)が凄(すご)すぎて、2025年6月18日の午前6時20分頃に修正した。

トヨウケ(豊受)は、彦坐王(ひこいますのみこ)だけでなく、その息子の丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)と山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)と狭穂彦王(さほひこのみこ)、その孫の垂仁(すいにん)天皇なども神格化して、トヨウケの娘のイサナミ(伊弉冉;いざなみ)がイサナキ(伊弉諾;いざなぎ)と結婚して、ヒヨルコ(火夜子)とアマテルカミ(天照神)とツキヨミ(月読)とワカヒメ(和歌姫)を生んだ。
トヨウケ(彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)とトヨウケ(丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)を神格化)とトヨウケ(山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)を神格化)は、親子関係で、トヨウケ(豊受;とようけ)が5代目タカミムスビ(高皇産霊尊;たかみむすびのみこと)で、高位の皇族を神格化した神様を生み出す意味で、天照大神(あまてらすおおみかみ)や月読尊(つくよみのみこと)などの高貴な神様を生み出した。
トヨウケ(豊受)は、彦坐王(ひこいますのみこ)と子孫の丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)を神格化)や山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)や垂仁(すいにん)天皇や物部十市根(もののべのといちね)などを神格化して、彦坐王(ひこいますのみこ)の子孫である古代太陽神氏族の和珥(わに)氏を神格化して、伊勢神宮外宮の主祭神が古代太陽神氏族と深く関係した。

トヨウケ(彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、最初にヒタカミノクニ(日高見国;ひだかみのくに:東北地方南部のどこか)を統治して、晩年(ばんねん)に山陰道(島根県を含む)からミヤヅ(京都府宮津市)に移(うつ)り住んだが、東北地方南部が子孫の武虎別皇子(たけこわけのみこ)が平定して、京都府宮津市が息子の丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)が統治して、出雲王国(物部(もののべ)氏)がもう一人の息子(異母弟)の狭穂彦王(さほひこのみこ)が統治した。
5代目タカミムスビ(高皇産霊)のトヨウケ(彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の子孫である7代目タカミムスビ(武虎別皇子(たけこわけのみこ)を神格化)は、西暦252年にヒタカミノクニ(日高見国;ひだかみのくに:東北地方南部のどこか)を平定して、考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)が合致した。
豊受大神(とようけおおかみ)は、東北地方南部と島根県東部(出雲)と京都府宮津市に深く関係して、『ホツマツタエ』が証明した物部(もののべ)氏と海部(あまべ)氏なども関連性を証明して、超天才の僕が簡単に求めた。


伊勢神宮の最終遷宮は、僕ら現代人が知るより遥(はる)かに古い時代の出来事で、多くの人間が関係した国家事業で、超天才の僕が証明した。

<参考文献>
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
インターネットの不明サイトから少々拝借

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