仲哀(ちゅうあい)天皇の戦死と出雲王国(物部(もののべ)氏)の崩壊
黒字は、僕の自論や完全解釈などで、赤字が日本神話の神々と特徴などで、緑字が僕の修正した神武(じんむ)天皇から仁徳(にんとく)天皇の時代までの()内の年代で、青字が邪馬台国(大和国;やまとこく)論争の一般的な専門家(歴史書解釈)と僕の考え方である。
仲哀天皇の戦死
『日本書紀』仲哀(ちゅうあい)天皇8年9月5日(西暦259年10月上旬頃)に仲哀(ちゅうあい)天皇は、群臣に詔(みことのり;天皇の述べた言葉)して、南九州の熊襲(くまそ)王国の討伐を相談でなく、島根県の出雲王国(物部(もののべ)氏)の討伐を相談して、父の日本武(やまとたけ)天皇に対して、攻撃することを計画した。
時に神は、神功(じんぐう)皇后に信託して、「仲哀(ちゅうあい)天皇がどうして熊襲(くまそ)王国が従属しないことを憂(うれ)いて、そこが荒(あ)れて痩(や)せた土地で、戦争して討伐するのに物足りない。
この国より勝(まさ)って宝のある国は、譬(たと)えば処女の眉(まゆ)のように海上に見える国があって、目にまばゆい金・銀・彩色などがたくさんあって、古代朝鮮半島の栲衾新羅国(たくぶすましらぎのくに)と言う。
栲衾(たくぶすま;新羅国(しらぎのくに)の枕詞(まくらことば)で、白い布を意味する)は、もしよく自分を祭ったら、刀を血塗(ちぬ)らないで、その国がきっと服従して、熊襲(くまそ)王国も従属するだろう。
その祭りをするには、天皇の御船(みふね)と丹波直践立(たにはのあたいほむたち)が献上した水田・・・名付けて大田(おおた;京都府京丹後市の大田南墳墓群か京都府綾部市大杉町大田か?)と言って、これらの物を供(そな)えなさい」と述べた。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の仲哀(ちゅうあい)天皇8年9月5日(西暦199年10月中旬頃)で、完全な間違いで、『日本書紀』から求めた僕の自論の仲哀(ちゅうあい)天皇8年9月5日(西暦259年10月上旬頃)が正しい。)
南九州の熊襲(くまそ)王国の討伐は、古代朝鮮国家の新羅国(しらぎのくに)の討伐に変更しようとしたが、正しく求めると出雲王国(物部(もののべ)氏)の日本武(やまとたけ)天皇の討伐で、おそらく穴門直践立(あなとのあたいほむたち)が丹波直践立(たにはのあたいほむたち)の人名が正しいと考えられて、穴門直(あなとのあたい)が長門国(ながとのくに;山口県西部)の統治者を指(さ)すが、丹波直(たにはのあたい)が京都府北部の統治者で、仲哀(ちゅうあい)天皇の皇居が丹波由良宮(たにはゆらのみや)だからである。
仲哀(ちゅうあい)天皇は、神の言葉を聞いたが、疑いの心があって、そこで高い岳(たけ)に登って、はるか大海を見て、広々とした国が見えなくて、仲哀(ちゅうあい)天皇が神に答えた。
「私が見渡したら海だけで、国がなくて、どうして大空に国があって、どこの神が徒(したが)えて、私を欺(あざむ)くのでしょう。
また我が皇祖(こうそ;皇室の祖先)の諸天皇たちは、ことごとく神祇(じんぎ)をお祀(まつ)りして、どうして残る神があるのか?」と。
神はまた神功(じんぐう)皇后に託して、「水に映(うつ)る影のように鮮明に自分が上から見下す国をどうして国がないと行って、我が言葉を非難して、汝(なんじ)がそう言って、遂(つい)に実行しないなら、汝(なんじ)が国を保持できないだろう。
ただし神功(じんぐう)皇后は、今2人目を身籠(みご)もって、その御子(みこ)が国を得られるだろう。」と言った。
仲哀(ちゅうあい)天皇は、なおも信じられなくて、熊襲(くまそ)王国を討伐したが、勝てないで帰った。
仲哀(ちゅうあい)天皇は、出雲王国(物部(もののべ)氏)の日本武(やまとたけ)天皇を討伐するため、戦争の準備をして、神功(じんぐう)皇后を共に連れて出陣して、仲哀(ちゅうあい)天皇9年1月下旬から2月上旬頃(西暦260年2月下旬から3月上旬頃)頃に神功(じんぐう)皇后が次男の誉田別尊(ほむだわけのみこと;即位しない応神(おうじん)天皇)を身籠(みご)もった。
誉田別尊(ほむだわけのみこと)を身籠(みご)もった神功(じんぐう)皇后は、仲哀(ちゅうあい)天皇の子供として、計算が合わない説があるが、出雲王国の討伐に同伴(どうはん)して、おかしな点など一つもなくて、大臣の初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)の子供説(不倫説)などを完全に否定した。
仲哀(ちゅうあい)天皇9年2月5日(西暦260年3月上旬頃)に仲哀(ちゅうあい)天皇は、急に病気になられて、翌日6日にもう崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、神(おそらく神功(じんぐう)皇后を神格化した天照大神;あまてらすおおみかみ)の言葉を採用しないで、早く亡くなって、出雲王国(物部(もののべ)氏)の討伐中に矢(や)で、腹(はら)を射抜(いぬ)かれて、戦死した間違いで、実年齢51才で、妻の神功(じんぐう)皇后と大臣の初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)が仲哀(ちゅうあい)天皇が亡くなったことを天下に知らせなかった。
神功(じんぐう)皇后は、大臣の初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)と中臣烏賊津連(なかとみのいかつのむらじ)と大三輪大友主君(おおみわのおおともぬしのきみ)と物部胆咋連(もののべのいくいのむらじ)と大伴武以連(おおとものたけもつのむらじ)に「今の天下の人は、仲哀(ちゅうあい)天皇が亡くなったことを知らない。
もし人民は、知ったなら気が緩(ゆる)むかもしれない」と言って、4人の大夫(まえつぎみ)に命じて、百寮(多くの役人)を率(ひき)いて、宮中を守らせた。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の仲哀(ちゅうあい)天皇9年2月5日(西暦200年3月上旬頃)で、完全な間違いで、『日本書紀』から求めた僕の自論の仲哀(ちゅうあい)天皇9年2月5日(西暦260年3月上旬頃)が正しい。)
中臣烏賊津連(なかとみのいかつのむらじ)は、僕が特定した『藤原氏の系図』で、稲瀬彦皇子(いなせひこのみこ)の息子か孫で、神格化した天児屋命(あめのこやねのみこと)辺りに当(あ)たって、大伴武以連(おおとものたけもつのむらじ)が西暦251年から254年に東日本を平定した大伴武日(おおとものたけひ)の息子で、実在時期や僕が特定した『大伴氏の系図』が正しいと証明した。
ネット検索した『日本書紀』の一書(いっしょ)に曰(いわ)くは、仲哀(ちゅうあい)天皇が矢(や)で、腹(はら)を射抜(いぬ)かれて絶命したと言って、仲哀(ちゅうあい)天皇の父の日本武尊(やまとたけのみこと)が景行(けいこう)天皇57年12月(西暦248年1月頃)に熊襲(くまそ)王国を滅亡させて、熊襲(くまそ)王国と共(とも)に登場する古代朝鮮国家の新羅国(しらぎのくに)討伐が仲哀(ちゅうあい)天皇9年(西暦320年)の三韓征伐で、出雲王国(物部(もののべ)氏)攻撃中に仲哀(ちゅうあい)天皇が戦死したのが正しいと考えられる。
父の日本武(やまとたけ)天皇は、息子の仲哀(ちゅうあい)天皇を殺害して、正妻の神功(じんぐう)皇后が義父の日本武(やまとたけ)天皇を恨(うら)んで、『三国志・魏志倭人伝』の男王(だんおう;日本武(やまとたけ)天皇)に台与(とよ;神功(じんぐう)皇后)が恨(うら)みを抱(いだ)いた復讐劇(ふくしゅうげき)が出雲王国(物部(もののべ)氏)の崩壊(ほうかい;出雲の国譲(くにゆず)り神話に神話化)である。
ネット検索した仲哀(ちゅうあい)天皇は、正妻の神功(じんぐう)皇后の神懸(かみがか)りで、南九州の熊襲(くまそ)王国を討伐しようとして、仲哀9年2月に御勢大霊石(みせたいれいせき)神社(福岡県小郡市(おごおりし)大保(おおほ)1032番地)に布陣(ふじん)して、宝満川(ほうまんがわ;筑後川水系の支流で、福岡県と佐賀県を流れる川)を挟(はさ)んで、地元の豪族の羽白熊鷲(はじろくまわし)に対峙(たいじ)したが、仲哀(ちゅうあい)天皇が矢で討たれて戦死した。
仲哀(ちゅうあい)天皇が熊襲(くまそ)王国を討伐したのは、出雲王国(物部(もののべ)氏)討伐に置(お)き換(か)えて、仲哀(ちゅうあい)天皇が矢(や)で、腹(はら)を射抜(いぬ)かれて、翌日に戦死した史実(歴史上の事実)を証明して、僕の実力を馬鹿にしないでほしい。
ネット検索した参考文献『道は阿波より始まる その1(阿波風土記伝承と磯上乃古事記)』(著者・岩利大閑史 発行・京屋社会福祉事業団)の仲哀寺(ちゅうあいじ)は、徳島県伊太乃郡(いたのぐん;今の板野郡)高野郷(こうやごう;現在の徳島県鳴門市(なるとし)大麻町(おおあさちょう)に当(あ)たる)で戦死した仲哀(ちゅうあい)天皇の弔寺(とむらいでら;人の死を悼(いた)んで、故人を偲(しの)ぶ寺)で、現在が仲哀寺(ちゅうあいじ)と言う寺が存在せず、現在の徳島県板野郡(いたのぐん)板野町(いたのちょう)矢武鏡松(やたけかがみまつ)の矢武八幡(やぶはちまん)神社に当(あ)たる。
この記述は、期間的に南九州の熊襲(くまそ)王国の討伐で、仲哀(ちゅうあい)天皇が矢(や)で、腹(はら)を射抜(いぬ)かれて、翌日に戦死した史実(歴史上の事実)から考えて、かなり無理がある考え方で、何らかの情報の不一致が存在して、生まれた可能性が高いと考えられる。
仲哀(ちゅうあい)天皇9年2月22日(西暦260年3月下旬頃)に大臣の初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)は、穴門(あなと;山口県西部)でなく、京都府宮津市の皇居の丹波由良宮(たにはゆらのみや)に帰還して、神功(じんぐう)皇后に報告した。こっそり仲哀(ちゅうあい)天皇の遺骸(いがい)は、収(おさ)めて初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)に任(まか)せて、海路で京都府宮津市の皇居の丹波由良宮(たんばやらのみや)に運んで、灯火(ともしび)を焚(た)かないで仮葬した。
この年は、神功皇后の三韓征伐(新羅(しらぎ)の役(えき)で、仲哀(ちゅうあい)天皇の葬儀をしなかったが、新羅国(しらぎのくに)でなく、出雲王国の攻撃が正しい。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の仲哀(ちゅうあい)天皇9年2月22日(西暦200年3月下旬頃)で、完全な間違いで、『日本書紀』から求めた僕の自論の仲哀(ちゅうあい)天皇9年2月22日(西暦260年3月下旬頃)が正しい。)
仲哀(ちゅうあい)天皇9年2月22日(西暦260年3月下旬頃)に神功(じんぐう)皇后と初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)は、京都府宮津市の皇居の丹波由良宮(たにはゆらのみや)に帰還して、こっそり仲哀(ちゅうあい)天皇を仮葬して、摂政(せっしょう)2年11月8日(西暦262年12月上旬頃)に仲哀(ちゅうあい)天皇陵(仲哀(ちゅうあい)天皇古墳)に葬礼した。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の摂政(せっしょう)2年11月8日(西暦202年12月上旬頃)で、完全な間違いで、『日本書紀』から求めた僕の自論の摂政(せっしょう)2年11月8日(西暦262年12月上旬頃)が正しい。)
仲哀(ちゅうあい)天皇は、河内国(かわち;大阪府東部)の長野陵(ながののみささぎ)に葬礼したと記して、大阪府藤井寺市(ふじいでらし)の岡(おか)ミサンザイ古墳に比定するが、時期的に考えて間違いで、奈良県の大和(おおやまと)古墳群の前方後円墳が正しいと考えられる。
仲哀(ちゅうあい)天皇の戦死は、出雲王国に攻撃中に父親の日本武(やまとたけ)天皇の軍勢に殺された悲劇で、本当の史実(歴史上の事実)である。
出雲王国(物部氏)の崩壊
邪馬台国(やまたいこく)論争は、全(まった)く出雲(いずも;島根県東部)王国(物部(もののべ)氏)の崩壊に触(ふ)れてない。
仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月17日(西暦260年11月中旬頃)の出雲王国(物部(もののべ)氏)の崩壊(ほうかい)は、出雲王国の滅亡(めつぼう)と表現すべきだが、物部(もののべ)氏の全滅(ぜんめつ;滅亡:めつぼう)でないため、僕が崩壊(ほうかい)と言う表現を多く使うことを理解してほしいと思う。
物部(もののべ)氏の本家は、3世紀中頃の西暦260年以降も相続して、4代目出雲国王の物部十市根(もののべのといちね)の直系子孫が物部守屋(もののべのもりや)で、6世紀後半の用明(ようめい)天皇2年7月(西暦587年8月頃)に物部守屋(もののべのもりや)が戦死して、物部(もののべ)氏の本家が滅亡(めつぼう)して、出雲王国(物部(もののべ)氏)が全滅(ぜんめつ;滅亡:めつぼう)してなくて、崩壊(ほうかい)と表現する理由である。
崇神(すじん)天皇60年(西暦143年)の出雲の平定は、崇神(すじん)天皇12年の出雲王国(物部(もののべ)氏)の建国と仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月17日(西暦260年11月中旬頃)の出雲王国の崩壊(ほうかい)を隠して、崇神(すじん)天皇の息子の垂仁(すいにん)天皇時代に古代の出雲大社の神魂(かもす)神社が創建(そうけん;初(はじ)めて建(た)てること)された嘘(うそ)を偽装工作して、出雲王国(物部(もののべ)氏)の血筋や歴史を徹底的に隠したが、人類史上最高の天才の僕を騙(だま)せなかった。
崇神(すじん)天皇60年と西暦260年の合致は、6世紀末から7世紀前半に聖徳太子が日本国内で、西暦年を『ホツマツタエ』で採用して、6世紀前半の西暦525年にヨーロッパで、西暦年が生まれて、古代天皇家の外交関係を舐(な)めてはならない。
『ホツマツタエ』崇神(すじん)天皇60年7月14日に崇神(すじん)天皇は、勅(みことのり;天皇の述べた言葉)して、「武日照命(たけひてるのみこと)の宮(島根県出雲市の出雲大社でなく、右隣(みぎどなり)の島根県松江市の王宮;おうきゅう)が昔に孝霊(こうれい)天皇が献上した出雲にある『神宝文(かんだからふみ)』を見たいと思う」と言った。
崇神(すじん)天皇の使者の武諸隅(たけもろずみ)は、出雲の大宮(おおみや;武日照命(たけひてるのみこと)の宮)に派遣すると、神主(かんぬし)の出雲振根(いずもふりね)が祭事で、筑紫(つくし;九州)に出かけていて、弟の飯入根(いいいりね)が宮(武日照命(たけひてるのみこと)の宮)から、『神宝文(かんだからふみ)』を出して来て、イイリネ飯入根(いいいりね)の弟の甘美韓日狭(うましからひさ)と息子の宇迦都久怒(うかつくぬ)を添(そ)えて、捧(ささ)げ渡した。
後に出雲振根(いずもふりね)は、出雲(いずも;島根県東部)に帰って来て、『神宝文(かんだからふみ)』を渡したことを聞いて、弟の飯入根(いいいりね)を責めて、「もう少し兄の帰りを待てば良いのに崇神(すじん)天皇の使者だからと、何を恐(おそ)れることがある。
出雲は神の道の元で、八百万(やもよろ)の文(ふみ)を隠し置いて、後に栄えることを考えないのか?
たやすく渡すとは、愚(おろ)か者めが」と言って、弟の飯入根(いいいりね)を逆恨(さかうら)みして、暗殺しようと心に決めた。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の崇神(すじん)天皇60年7月14日(紀元前38年8月中旬頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の仲哀(ちゅうあい)天皇9年7月14日(西暦260年8月中旬頃)が正しい。)
日本武尊(やまとたけのみこと)と出雲の関係は、素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)と天穂日命(あめのほひのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)と建御名方神(たけみなかたのかみ;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)と出雲振根(いずもふりね;日本武尊(やまとたけのみこと)を祖先化)など、幾らでも証拠があって、100%否定できない。
建御名方神(たけみなかたのかみ;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)は、武南方神(たけみなかたのかみ)とも書くが、出雲振根(いずもふりね;日本武尊(やまとたけのみこと)を祖先化)が筑紫(つくし;九州)に出かけたのと合致して、日本武尊(やまとたけのみこと)が南九州の熊襲(くまそ)王国(狗奴国;くぬこく)を討伐したことを指(さ)す。
『ホツマツタエ』は、兄のフリネと弟イイリネと息子のウカツクヌと記すが、僕の表現が出雲振根(いずもふりね;日本武(やまとたけ)天皇を祖先化)で、その一人娘の布忍姫(ぬのおしひめ)と結婚した7代目出雲国王の飯入根(いいいりね)で、その間に生まれた宇迦都久怒(うかずくぬ)として、僕の直(なお)せない癖(くせ)で、暗殺された飯入根(いいいりね)の結果が出雲王家(物部(もののべ)氏)の崩壊(ほうかい)につながって、出雲王家(物部(もののべ)氏)から宇迦都久怒(うかずくぬ)が千家(せんげ)氏に分家する「きっかけ」になった。
普通の人間は、崇神(すじん)天皇60年に出雲振根(いずもふりね)が出雲国王で、弟が飯入根(いいいりね)で、その弟が甘美韓日狭(うましからひさ)で、飯入根(いいいりね)の息子が宇迦都久怒(うかずくぬ)と考えるが、出雲振根(いずもふりね)が日本武尊(やまとたけのみこと)で、婿(むこ)養子が7代目出雲国王の飯入根(いいいりね)で、孫が宇迦都久怒(うかずくぬ)で、出雲王家(物部(もののべ)氏)の血筋を誤魔化(ごまか)せない。
崇神(すじん)天皇60年(西暦143年)は、出雲王国(物部(もののべ)氏)の直系先祖の彦坐王(ひこいますのみこ)が登場せず、仲哀(ちゅうあい)天皇9年(西暦260年)に直系子孫の飯入根(いいいりね)と宇迦都久怒(うかずくぬ)と甘美韓日狭(うましからひさ)が登場して、物部(もののべ)氏の血縁関係を詳細に説明しないが、正しく理解してほしい。
仲哀(ちゅうあい)天皇9年7月14日(西暦260年8月中旬頃)に7代目出雲国王の飯入根(いいいりね)は、弟の甘美韓日狭(うましからひさ)と息子の宇迦都久怒(うかずくぬ)を人質(ひとじち)に差し出して、日本武(やまとたけ)天皇が義理の息子の飯入根(いいいりね)が三種の神器を始めとする宝物を神功(じんぐう)皇后に渡したことを聞いて、飯入根(いいいりね)を責(せ)めて、暗殺されることになった。
出雲振根(いずもふりね)は、日本武(やまとたけ)天皇で、弟の飯入根(いいいりね)が婿(むこ)養子の7代目出雲国王で、その妻が日本武尊(やまとたけのみこと)の一人娘の忍布姫(ぬのおしひめ)で、夫婦の息子の宇迦都久怒(うかずくぬ)で、立派な大人で皇族と考えられて、出雲王家でも皇位の人物である。
武日照命(たけひてるのみこと;7代目出雲国王の飯入根(いいいりね)を神格化)の神宝は、武日照命(たけひてるのみこと)の宮(島根県出雲市の出雲大社でなく、右隣(みぎどなり)の島根県松江市の王宮)に安置して、歴代の出雲国王の王宮(おうきゅう)が島根県松江市にあって、島根県出雲市の出雲大社と間違えてはならず、出雲の国譲(くにゆず)り神話(出雲王家(物部(もののべ)氏)の崩壊;ほうかい)の舞台(ぶたい)も、島根県出雲市でなく、島根県松江市が正しいと考えられる。
天穂日命(あめのほひのみこと;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)の息子(婿(むこ)養子)の武日照命(たけひてるのみこと;7代目出雲国王の飯入根(いいいりね)を神格化)の神宝は、日本武(やまとたけ)天皇が婿(むこ)養子の飯入根(いいいりね)に管理を任(まか)せた三種(さんしゅ)の神器(じんぎ)のことで、武日照命(たけひてるのみこと)の神宝(神宝文(かんだからふみ)の三種の神器)を大和に返還して、皇位継承物の三種(さんしゅ)の神器(じんぎ)を出雲王国(物部(もののべ)氏)から、邪馬台国(大和国;やまとこく)の神功(じんぐう)皇后に返還したことを意味する。
『ホツマツタエ』の2代目ホノアカリ(火明;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の次男タケヒテル(武日照;丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)を神格化)は、海部(あまべ)氏の祖先神で、彦坐王(ひこいますのみこ)の子孫の武日照命(たけひてるのみこと;飯入根(いいいりね)を神格化)が千家(せんげ)氏の祖先神で、海部(あまべ)氏と出雲王家(物部(もののべ)氏)が同一氏族で、武日照(たけひてる)の神名が出雲の国譲(くにゆず)り神話(出雲王家(物部(もののべ)氏)の崩壊;ほうかい)をひもとくヒントでもある。
神功(じんぐう)皇后の使いの武諸隅(たけもろずみ)は、物部十市根(もののべのといちね)の兄である物部大新河(もののべのおおあらかわ)の息子(甥;おい)が物部武諸隅(もののべのたけもろずみ)で、その時代の人物で間違いない。
『ホツマツタエ』で謀略(ぼうりゃく)を練(ね)った出雲振根(いずもふりね)は、「止屋(やみや;島根県出雲市の今市町と大津町と塩谷町の付近)の玉藻(たまも)が美しいので見に行こう」と弟の飯入根(いいいりね)を誘(さそ)い出して、弟がそれに頷(うなず)いて、共に止屋(やみや)に行った。
兄は腰に差した木刀を抜き置いて水浴びをして、弟を呼んでそれに従って、腰の太刀を抜き置いて、水浴びを始めて、兄が先に上がって、弟の太刀を身に付けたので、弟がそれを見て、様子がおかしいと驚いて、上がって兄の木刀を身に付けた。すると兄は、太刀を抜いて斬りかかって、弟の飯入根(いいいりね)が抜けない木刀を持ったまま兄に斬られて、闇の渕(ふち)に葬られてしまって、世間にこんな歌が流行した。
八雲(やくも)立つ 出雲梟帥(いずもたける)が 佩(は)ける太刀(たち) 葛沢巻(つづらさわま)き あわれ錆(さ)びなし
(八雲(やくも)立つ、出雲梟帥(いずもたける;飯入根(いいいりね)のこと)が佩(は)いている太刀は、葛(つづら)がたくさん巻きついて、哀(あわ)れにも錆(さ)びてしまったようで、抜くことができない。)
弟の甘美韓日狭(うましからひさ)は、甥(おい)の宇迦都久怒(うかずくぬ)を連れ帰って、崇神(すじん)天皇に暗殺の一件を報告して、吉備彦(きびひこ)と武渟川別(たけぬなかわわけ)に出雲振根(いずもふりね)を討伐する命令が出されて、出雲振根(いずもふりね)を討伐すると、出雲の臣(おみ)が恐(おそ)れて、神の祭りをしなかった。
日本武(やまとたけ)天皇は、飯入根(いいいりね)を逆恨(さかうら)みして、止屋(やみや;島根県出雲市の今市町と大津町と塩谷町の付近)に誘(さそ)い出して暗殺して、『古事記』で倭建命(やまとたけのみこと)が出雲建(いずもたける)を殺して、『古事記』の出雲建(いずもたける)と『日本書紀』の出雲梟帥(いずもたける)が合致して、飯入根(いいいりね)を指すのが間違いなくて、7代目出雲国王の飯入根(いいいりね)が仲哀(ちゅうあい)天皇9年8月から9月(西暦260年9月から10月頃)に義父の日本武(やまとたけ)天皇に暗殺されたと考えられる。
日本武(やまとたけ)天皇が飯入根(いいいりね)を暗殺した話は、倭建命(やまとたけのみこと)が出雲建(いずもたける)を殺した話とそっくりで、出雲建(出雲梟帥;いずもたける:出雲の統治者)の飯入根(いいいりね)を殺して、日本武(やまとたけ)天皇に息子(夫;おっと)の仲哀(ちゅうあい)天皇が殺された義娘(ぎじょう;義理の娘)の神功(じんぐう)皇后が激怒して、邪馬台国(大和国;やまとこく)に独立国家の立場を認(みと)めさせた出雲王国(物部(もののべ)氏)の全面攻撃を命令した。
甘美韓日狭(うましからひさ)と甥(おい)の宇迦都久怒(うかずくぬ)は、日本武(やまとたけ)天皇が飯入根(いいいりね)を暗殺した一報(いっぽう)を受けて、出雲(いずも;島根県東部)から大和(やまと;奈良県)に行って、神功(じんぐう)皇后に報告して、神功(じんぐう)皇后が将軍の吉備武彦(きびたけひこ)と武渟川別(たけぬなかわわけ)に討伐を命じて、日本武(やまとたけ)天皇が討伐されると、出雲王国(物部(もののべ)氏)の家臣たちが恐(おそ)れて、神様を祭らなかった。
垂仁(すいにん)天皇13年12月1日(西暦165年1月上旬頃)生まれの祖別命(みおやわけのみこと)は、息子の吉備武彦(きびたけひこ)を180年代くらいにもうけて、260年に70才すぎの老将(ろうしょう;吉備彦(きびひこ)と同一人物)として、素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)の討伐を命じられて、25才から30才ぐらいの経津主神(ふつぬしのかみ;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)に討伐させたと考えられる。
『日本書紀』で出雲振根(いずもふりね)は、弟の飯入根(いいいりね)を騙(だま)し討(う)ちで殺して、『古事記』で倭建命(やまとたけのみこと)が出雲建(いずもたける)を騙(だま)し討(う)ちで殺して、話がそっくりで共通して、義父の日本武尊(やまとたけのみこと)が婿(むこ)養子の飯入根(いいいりね)を暗殺したのが正しい。
僕は2007年9月に出版した最初の著書『古代日本史への挑戦』で、崇神(すじん)天皇60年が仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月(西暦260年11月頃)で、出雲王国の崩壊(ほうかい)と出雲の国譲(くにゆず)り神話が合致して、後の2012年1月に出雲王国の正体が物部(もののべ)王国と求めて、直感(直観)が確信に近かった証明で、僕本人の感性が超高レベルの異次元な神技(かみわざ)として、発揮(はっき)された瞬間だった。
『ホツマツタエ』垂仁(すいにん)天皇23年10月8日(11月上旬頃)に誉津別命(ほむつわけのみこと;日本武(やまとたけ)天皇を祖先化)は、湯河板挙(ゆかわたな)が宇屋江(うやえ;島根県出雲市簸川(ひかわ)町神庭(かんば)宇屋谷(うやだに)の地で、鵠(くぐい;蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)を祖先化)をついに捕らえて、島根県出雲市簸川(ひかわ)町神庭(かんば)宇屋谷(うやだに)が日本武(やまとたけ)天皇の戦死した場所と考えられる。
蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)は、山城(京都府南部)で戦死して、島根県出雲市で、父の日本武尊(やまとたけのみこと)が戦死したと考えられる。
成務(せいむ)天皇60年6月11日は、仲哀(ちゅうあい)天皇9年10月11日(西暦260年11月中旬頃)が正しくて、成務(せいむ)天皇が亡くなった日付が出雲大社の神在祭(かみありさい)の仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月11日から17日に合致して、日本武(やまとたけ)天皇が仲哀(ちゅうあい)天皇9年10月17日(西暦260年11月中旬頃)に戦死して、『日本書紀』が西暦年を使った根拠で、2024年6月7日の夜に日付を特定した。
日本武尊(やまとたけのみこと)は、滋賀県の伊吹山(いぶきやま)で、毒蛇に咬(か)まれて、三重県の能褒野(のぼの)で死んで、能褒野(のぼの)の古墳に葬礼して、死後に白鳥になって、仲哀(ちゅうあい)天皇元年11月4日に白鳥が黒鳥になって、白鳥と黒鳥が日本武尊(やまとたけのみこと)で、2つの白鳥陵(しらとりのみささぎ)の古墳を否定した。
日本武尊(やまとたけのみこと)は、皇族に認められない日本武(やまとたけ)天皇に強行即位して、内乱(皇位継承権争い)を起こして、仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月17日(西暦260年11月中旬頃)に出雲(島根県東部)で戦死して、白鳥陵(しらとりのみささぎ)の記述から、奈良県と島根県に分骨した可能性があって、3代目出雲国王の野見宿禰(のみのすくね)の分骨がもっと古い。
成務(せいむ)天皇60年6月11日に成務(せいむ)天皇(日本武(やまとたけ)天皇と同一人物)は、崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、成務(せいむ)天皇60年6月11日が出雲大社の神有祭(かみありさい)の期間(旧暦の神無月11日から17日)と合致して、仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月17日(西暦260年11月中旬頃)に日本武(やまとたけ)天皇の戦死日になる。
成務(せいむ)天皇60年6月11日の翌年は、仲哀(ちゅうあい)天皇元年9月6日に倭(大和;やまと)の狭城盾列陵(さきたたなみのみささぎ)に成務(せいむ)天皇を葬礼したが、仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月17日(西暦260年11月中旬頃)の翌年の摂政(せっしょう)元年9月6日(西暦261年10月上旬頃)に日本武(やまとたけ)天皇を奈良県桜井市の大和(おおやまと)古墳群に前方後円墳のどれかに葬礼したと考えられる。
日本武尊(やまとたけのみこと)陵は、佐紀盾列(さきたたなみ)古墳群の狭城盾列陵(さきたたなみのみささぎ)も能褒野(のぼの)の古墳も2つの白鳥陵(しらとりのみささぎ)の古墳も否定して、正しい墓(はか)が分からない。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の仲哀(ちゅうあい)天皇元年9月6日(西暦192年10月上旬頃)は、完全な間違いで、『日本書紀』から求めた僕の自論の摂政(せっしょう)元年9月6日(西暦261年10月上旬頃)が正しい。)
ある日に丹波(たには;古代の京都府北中部)の氷上(ひかみ)の人である氷香戸辺(ひかとべ)は、皇太子の五十狭茅(いそさち;後の垂仁(すいにん)天皇)に我が子が近頃に歌う歌を告げた。
玉操沈(たまもし)つ 出雲祭(いずもまつ)らば まぐさまじ 香良実押(かよみお)し振(ふ)り ねみ鏡(かがみ) 御底宝(みそこたから)の みからぬし たにみくくりみ 玉静(たましず)か 甘美御神(うましみかみ)は みからぬしやも
水の中に沈んでいる玉のような石。出雲の人の祈り祭る本物の見事な鏡。力強く活力を振るう立派な御神(みかみ)の鏡。水底の宝。宝の主。山河の水を洗う御魂(みたま)。沈んで掛かる立派な御神(みかみ)の鏡。水底の宝。宝の主。)
歌の内容は、神のお告げかもしれないと若君(皇太子)が父(崇神(すじん)天皇)に告げて、出雲の神を祭れと勅(みことのり;天皇の述べた言葉)した。
丹波(たんば;古代の京都府北中部)の国主は、京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社宮司家の海部(あまべ)氏で、彦坐王(ひこいますのみこ)の子孫で、同じく出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏も彦坐王(ひこいますのみこ)の子孫である出雲王国(物部(もののべ)氏)の直系子孫で、京都府が記される。
氷香戸辺(ひかとべ)の子が歌う歌は、甘美御神(うましみかみ)が物部(もののべ)氏を意味して、物部(もののべ)氏に関係する単語が甘美(うまし;可美)で、大物主神(おおものぬしのかみ)や大国主神(おおくにぬしのかみ)を指す。
出雲振根(いずもふりね;日本武(やまとたけ)天皇を祖先化)と弟の飯入根(いいいりね)は、素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)と大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)に祭り上げても、どのくらいか間を置いて祭って、西暦290年代から5世紀ほどまで幅(はば)があって、出雲大社の創建年代が分からない。
『ホツマツタエ』の出雲大社の記述は、崇神(すじん)天皇60年に記すため、『ホツマツタエ』が成立した6世紀から7世紀以前から出雲大社が存在した証明になる。
出雲大社は、3世紀中頃の仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月17日(西暦260年11月中旬頃)に出雲王国(物部(もののべ)氏)が崩壊して、3世紀末から4世紀前半に宇迦都久怒(うかずくぬ)が創建した可能性があるが、4世紀から5世紀の可能性もあって、出雲大社本殿の宇豆柱(うずばしら)が出土して、何世紀の物か分からない限り創建時期を証明できないと考えられる。
宇迦都久怒(うかずくぬ)は、出雲国造(いずもくにみやつこ;島根県東部の統治者)に任命した最初の人物で、出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏の直系先祖である。
宇豆柱(うずばしら)は、出雲大社の境内(けいだい)から2000年と翌年の調査で出土して、科学的な証拠と歴史書解釈などで、鎌倉時代前半の1248年に造営した出雲大社本殿の支柱の可能性が非常に高くて、宇豆柱(うずばしら)以外に出雲大社の創建時期を証明できなくて、歴史学(歴史書解釈)が難しいと考えられる。
出雲大社本殿は、神代(かみよ)に32丈(96メートル)で、平安時代に16丈(48メートル)で、現在が8丈(24メートル)で、平安時代中期に書いた子供用の教科書の『口遊(くちずさみ)』に「雲太(うんた)・和二(わに)・京三(きょうさん)」と記して、出雲大社本殿の次に東大寺大仏殿で、次に平安京大極殿に低くて、当時の高さが不明だが、木造の高層建築で一番に高かったと分かる。
考古学的証拠の宇豆柱(うずばしら)は、出雲大社宮司家に伝わる出雲大社本殿の図面の『金輪御造営差図』(かなわのごぞうえいさしず)を建築会社の大林組が調査して、48メートルの本殿が建築できたと証明した。
出雲大社は、昔に素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)を祭って、今が2代目・大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)を祭って、素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)と2代目・大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)を鎮魂する神社である。
出雲大社と富士山の山頂を結ぶレイライン(太陽の道)は、富士山を測量して西暦255年頃以降に作られたと考えられて、宇迦都久怒(うかずくぬ)の生存中に出雲大社を創建した可能性が高くて、3世紀後半から4世紀初め頃と考えられるが、4世紀から5世紀中の可能性も十分にある。
島根県松江市大庭町の神魂(かもす)神社は、出雲大社と富士山の山頂を結ぶレイライン(太陽の道)上にあって、計算して作った神社で、宇迦都久怒(うかずくぬ)が最初の出雲大社を創建した土地かもしれないが、あくまで歴史学(歴史書解釈)の伝承である。
同じレイライン(太陽の道)は、線上の滋賀県の伊吹山(いぶきやま)で日本武尊(やまとたけのみこと)が毒蛇に噛(か)まれて、日本武尊(やまとたけのみこと)が伊吹戸主神(いぶきどぬしのかみ;武虎別皇子(たけこわけのみこ)を神格化)の息子である武渟川別(たけぬなかわわけ)の軍勢に殺されて、伊吹(いぶき)の神名と山の名前が西暦260年頃にできた証拠である。
出雲広嶋(いずものひろしま)は、『出雲国風土記(いずものくにふどき)』を編纂(へんさん)した人物で出雲国造(いずもくにみやつこ)が昔に神魂(かもす)神社に奉仕したが、それ以降の出雲国造(いずもくにみやつこ)が現在の出雲大社で奉仕したと伝えられて、後の出雲国造(いずもくにみやつこ)が後に千家(せんげ)氏を名乗るようになった。
島根県松江市大庭町の出雲大社の元宮(もとみや)と考えられる神魂(かもす)神社は、西暦708年から716年までに島根県出雲市大社町杵築の出雲大社に遷宮して、藤原氏が出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏を弱体化するためと考えられる。
『出雲国造世系譜』の霊亀2年(西暦716年)は、島根県松江市大庭町から島根県出雲市大社町杵築の地に出雲大社が遷宮したと記して、出雲果安(いずものはたやす)の時代の和銅(わどう)元年(708年)から716年までに遷宮したと考えられる。
藤原不比等(ふじわらのふひと)は、「記紀」の総合監督で、彦坐王(ひこいますのみこ)の子孫の海部(あまべ)氏と物部(もののべ)氏を隠して、物部(もののべ)氏の子孫の千家(せんげ)氏と竹内(たけうち)氏も隠して、藤原氏が物部(もののべ)氏と同族も隠して、徹底的な偽装工作をほどこしたが、僕を騙(だま)せなくて、史実・真実・事実を求めた。
出雲の国譲り神話に登場する神様は、高天原(たかまがはら;天津神:あまつがみ)系の古代天皇家の人物と出雲系(国津神;くにつがみ)の物部(もののべ)氏の人物を神格化して、以下の神様が主に出てくる。
古代天皇家の人物は、7代目・高皇産霊尊(たかみむすびのみこと;武虎別皇子(たけこわけのみこ)を神格化)と天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)のお腹(なか)にいた瓊瓊杵尊(ににぎのみこと;誉田別尊(ほむだわけのみこと)を神格化)と経津主神(ふつぬしのかみ;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)と武甕槌神(たけみかづちのかみ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)などである。
出雲の国譲(くにゆず)り神話(出雲王国(物部(もののべ)氏)の崩壊;ほうかい)に勝利した母方の天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)は、出雲勢力(物部氏)を討伐した太陽神の軍神(戦神;いくさがみ)の性格を表(あらわ)わして、父方の天照大神(あまてらすおおみかみ;倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)に軍神(戦神)の性格が存在しない。
物部(もののべ)氏側の人物は、大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)と須勢理比売(すせりひめ;忍布姫(ぬのおしひめ)を神格化)と事代主神(ことしろぬしのかみ;宇迦都久怒(うかずくぬ)を神格化)と建御名方神(たけみなかたのかみ;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)などである。
素戔嗚尊(すさのおのみこと)の息子か6世孫の大国主神(おおくにぬしのかみ)は、素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)の婿(むこ)養子が大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)で、初代・大国主神(おおくにぬしのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)から数えて7代目(6世孫)が2代目・大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)である。
つまり初代・大国主神(おおくにぬしのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、6世孫の2代目・大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)が初代・大物主神(おおものぬしのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)から数えて、6世孫の7代目・大物主神(おおものぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)に当たる意味である。
同じく素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)の一人娘の須勢理毘売(すせりひめ;布忍姫(ぬのおしひめ)を神格化)は、2代目・大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)と結婚して、息子の事代主神(宇迦都久怒(うかずくぬ)を神格化)を生んだ。
出雲大社の神在祭(かみありさい)は、旧暦の10月11日から17日の7日間、全国の神々が出雲大社に集まって、出雲大社の境内の19社に宿泊して、出雲大社と稲佐(いなさ)の浜に近い上宮(うえのみや)で、神議(かみはか)りと言う首脳会議をして、他にも人々を幸福にする龍蛇神(りゅうじゃしん)を祭る龍蛇神講大祭(りゅうじゃしんこうたいさい)や縁結(えんむす)び大祭などをする。
出雲大社の海蛇の龍蛇神(りゅうじゃしん)は、蛇体の古代太陽神の大物主神(おおものぬしのかみ;歴代の出雲国王を神格化)に当たって、7代目出雲国王の飯入根(いいいりね)も神格化して、蛇体の天照大神(あまてらすおおみかみ)とも解釈できて、古代天皇家と出雲王国(物部(もののべ)氏)の両方の蛇神を指すと考えられる。
伊勢神宮や出雲大社などのネット情報は、詳細に知るのが難しくて、実際に神事などを見たり聞いたりして、僕自身が肌で感じて求めるしかないと実感した。
神功(じんぐう)皇后は、稲佐(いなさ)の浜に上陸して、そこが出雲国王の居城に近くて、神議(かみはか)り(首脳会議)が出雲王国の首脳陣(日本武尊(やまとたけのみこと)と飯入根(いいいりね)たち)との戦争と出雲王国の崩壊後の事後処理をしたと考えられる。
出雲大社は、神在祭(かみありさい)が10月(神無月)11日から17日で、仲哀(ちゅうあい)天皇9年10月11日から17日(西暦260年11月中旬頃)に出雲王国が崩壊して、その後に神功皇后たち邪馬台国(大和国;やまとこく)側が事後処理をして、出雲王国が滅亡(物部(もののべ)氏の全滅)でなく、物部(もののべ)氏の一部が戦死して、出雲王国の崩壊とした。
物部守屋(もののべのもりや)は、用明(ようめい)天皇2年7月(西暦587年8月頃)の神仏戦争(丁未(ていび)の乱)で亡くなって、物部(もののべ)氏の宗家が滅亡して、物部(もののべ)氏の全てが途絶えたわけでなく、後世まで子孫が続いた。
仲哀(ちゅうあい)天皇9年10月18日から12月5日頃(西暦260年11月中旬頃から西暦261年1月上旬頃)まで台与(とよ)の神功(じんぐう)皇后は、身重(みおも)の体で、出雲王国(物部(もののべ)氏)の崩壊の後処理をして、出雲王国が統治した中国地方の各地に使者を飛ばして、対応に追われて1ヶ月以上も出雲に滞在した。
最後の出雲国王で、父の飯入根(いいいりね)は戦死して、息子の宇迦都久怒(うかずくぬ)が後継者の出雲国造(くにみやつこ;島根県の国主)に任命されて、後で神功(じんぐう)皇后が船で、京都府宮津市に帰還した。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の仲哀(ちゅうあい)天皇9年10月18日から12月5日頃(西暦200年11月中旬頃から西暦201年1月上旬頃)は、完全な間違いで、『日本書紀』から求めた僕の自論の仲哀(ちゅうあい)天皇9年10月18日から12月5日頃(西暦260年11月中旬頃から西暦261年1月上旬頃)が正しい。)
景行(けいこう)天皇は、80人以上の子供がいて、息子の素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)の一人娘が義理の息子の大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)と結婚して、大国主神(おおくにぬしのかみ)の異母兄弟の八十神(やそがみ)が飯入根(いいいりね)の義理の伯父伯母(おじおば)80人に当たって、簡単に求められた。
初代出雲国王の彦坐王(ひこいますのみこ)は、初代の太陽神の宮司で、その直系子孫の出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏が物部(もののべ)氏の祖先神の饒速日命(にぎはやひのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)や歴代の大物主神(おおものぬしのかみ;歴代の出雲国王を神格化)を祭って、千家(せんげ)氏が祭るのが古代太陽神で、他の出雲国王も古代太陽神の宮司と考えられる。
纏向(まきむく)遺跡は、鳥取県と島根県と山口県の土器が出土して、神功(じんぐう)皇后が出雲王国を討伐した後か日本武尊(やまとたけのみこと)が亡命する前のものと考えられる。
弥生時代後期は、全国的に高地性集落遺跡が作られて、出雲で3世紀中頃に多くの高地性集落遺跡が作られて、出雲王国の崩壊と時期が重なるのが偶然と考えられない。
弥生時代後期に発展した出雲は、3世紀中頃に衰退して、これも出雲王国の崩壊と時期が重なって、偶然と考えられない。
出雲王国(物部(もののべ)氏)の崩壊は、『ホツマツタエ』と『日本書紀』の記述に頼る考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)が合致した事実である。
<参考文献>
『古代日本史への挑戦』
著者・僕 発行・株式会社オカムラ
『続・私の半生と古代日本史』
著者・僕 発行・株式会社オカムラ
『日本書紀(上)(下)全現代語訳―全二巻―』
著者・宇治谷孟 発行・株式会社講談社
『古事記(上)(中)(下)―全三巻―』
著者・次田真幸 発行・株式会社講談社
『完訳秀真伝(上巻)(下巻)』
編著者・鳥居礼 発行・八幡書店
『ホツマ辞典』
著者・池田満 発行・ホツマ刊行会
『新訂 魏志倭人伝 他三篇―中国正史日本伝(1)―』
編訳者・石原道博 発行・株式会社岩波書店
インターネットの不明サイトから少々拝借
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