客観も真理も「確信」にすぎない

「純粋意識」による認識は、「思い込み」を含むが、色々な前提を含む意識の「思い込み」でなく、自分の「純粋意識」が認識する物が、他人もまた同じように認識して、もはやここに主観(物事を感じたり見たり聞いたり行なったりする心の働きを持つ主体)と客観(人間の精神的作用とは独立に存在するもの)と言う従来の図式が成立しない。
意識は、物事そのものに捕らわれず、意識の中で構築された「物事」を見ているだけで、純粋な客観が存在しなくて、あるのが「純粋意識」が捕らえた像だけである。

人間の「思い込み」は、間違いを含んで、『「思い込み」の数だけ解釈がある』で、邪馬台国(やまたいこく)論争の専門家(考古学会と歴史学会)の定説と僕の自論を対比して、説明したように自分の意識が大切で、認識力や判断力が「思い込み」に左右されて、根本的な判断を間違えることもある。
「思い込み」のプラシーボ効果は、ただの水を良薬と思い込んで、体が治ることがあって、車の運転も「思い込み」で、安全と思い込んで、交通事故を起こして、人間の認識力や判断力が自分勝手な「思い込み」で、人を殺してしまう現実もあって、僕の定義付けた考え方が理想像のように思うが、これが本当の事だと思う。

ではどのようにして、これがこれだと言えるのか、どのようにして他人と意見の一致ができるのか?
それは、他人の認識と自分の認識が共通することだけで、我々が自分の認識を適切だと「確信(固く信じて疑(うたが)わないこと)」して、物事が実際にそこにあるのか、それは幻でなく事実なのか、この言葉の意味が本当にこういう意味なのかなど、あらゆるものが自分と他人の2人以上の認識を突き合わせて、初めて「確信」する。
つまり我々が客観や客観的(頭で考えただけの物事や気持ちによるのでなく、事実に基づいて判断を下す様子)と呼ぶ物は、物事そのものを冷静に見ることでなく、他人との間に共通する認識と言う「確信」の構造から生まれる客観で、客観だけでなく、真理(いつどんな時にも変わることのない物事の筋道)さえ、このように我々の「確信」に定められる。
つまり客観も真理も「確信(固く信じて疑わないこと)」にすぎなくて、前に説明した意味でのレプリカ(複製品)で、人間が世界と直(じか)に接した場所で生きていなくて、世界を複製した場所で生きていて、僕ら人間が意識と言う物を使って、認識するからに他ならないと現代哲学者フッサールが言う。

人間の認識は、全てが真(まこと)も嘘(うそ)も「確信」で、信じて疑(うたが)わないことで成立するから、逆を言えば全て疑(うたが)ってかかるしかなくて、それが真実・事実だと考えることになって、人間の考え方の全てが本人と他人が全て一致するのもしないのも、本当か嘘(うそ)か疑(うたが)ってかかって、それが事実で真実となって矛盾する。
僕の歴史研究は、凡人(僕以外の人間)や専門家(考古学会と歴史学会)たちの歴史研究と全く違って、根本的に納得できないから自分で考えて、反論して論理飛躍した超理論だが、100%正しいと納得できる物で、僕と他人の意見が一致するか一致しないかの問題である。

僕たちが「人を信じる」と言う言葉を使う時は、多くの場合が「信用」や「信頼」に近い意味で、「信用」や「信頼」が作り上げたり、何らかの条件がある場合が多いように思えて、本当の意味での「信じる」が無条件に信じる事と考えて、他人が「言うことを聞かない」や「約束を守らない」などで信じなくて、自分が「信じる」に条件付けしたようである。
「信じる」は、親子関係やあらゆる人間関係に共通して、「仏様みたいな心境にはなれない」とか、「そう言われても僕は自分を信じられない」と言う人もいるが、人の可能性が無限大で、一瞬先に何が起こるか誰にも分からなくて、「信じたもん勝ち」で、自分の家族も友人も、まだ出会ってない人のことも、全力で信じて、無条件に信じる事が大切である。
「信じる者は救われる」とは、よく言った物で、小さい子供の頃から、神様を信じる者が神様の加護を受けて、信じる心を大切にしなさいと教えられて、神様が全ての者に等(ひと)しい愛を与(あた)えて、思いの強さの度合いで、自分たちが望む物より、信じる物の方が大きくて、信じる物が強い人ほど、幸福などを引き寄せるのだろう。
人間の「思い込み」は、「確信(固く信じて疑(うたが)わないこと)」で、出雲の国譲(くにゆず)り神話が戦争でなく、調和が現代日本人の生き方にまで受け継いで、出雲神話の精神が現代日本まで生きると信じて、大切な日本人の和(わ;平和)の心で、全てを包み込む思いの顕現(けんげん)である。

人を信じる事の利点は、成長スピードが上がる事、人間関係が良好になる事、孤独感から解放されることの3点で、人を信じる事の欠点が「人を信じると騙(だま)される」とよく聞くが、人を信じても信じなくても騙(だま)されて、人を疑(うたが)う人ほど騙(だま)されて、人を疑(うたが)う人が「これが正しくて、これが間違い」みたいに100を聞いて、そのうちの30が正しいみたいに判断して、人の事を疑(うたが)って、自分の判断を疑(うたが)わないためである。
しかし僕は、中学生頃から自己矛盾を抱えて、中国の故事の「矛盾(コントラダクション)」が僕にコペルニクス的転回(非常識な考え方の集合体)を持たせて、僕の考え方がコペルニクス的転回…地動説と進化論と相対性理論などの高度な考え方と同類で、歴史研究の中で、自分の判断を根本的に正しいか間違いか疑(うたが)って、根本的に僕が凡人(僕以外の人間)と違う超次元の考え方だった。
僕を根本的に理解してない凡人(僕以外の人間)は、超天才の僕がここまで違いを示して、ようやく僕の歴史研究の公表を受け止めて、その事態の重さや意味・価値に気付いて、僕の偉大さが決定的な神レベルの差で、一生かけても決して及(およ)ばない聖域と思い知るだろう。

母の天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)は、息子の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと;誉田別尊(ほむだわけのみこと;即位しない応神(おうじん)天皇)を神格化)を日向(ひうが;宮崎県)に天孫降臨させた神話で、皇孫(瓊瓊杵尊;ににぎのみこと)が就(つ)きて治(し)らせと記して、調和や統合で直(なお)して、知りなさいなどと解釈される。
『日本書紀』の実在した初代天皇・崇神(すじん)天皇の「御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)」は、初代天皇の称号で、「初国治(はつくにし)らす天皇(すめらみこと)」と書き直して、調和や統合や和合で直(なお)して、知りなさいなどと解釈して、上皇様も自発的に治(し)らすを学んで、国民の様子を知って寄り添(そ)われて、今の天皇陛下や皇族もそれを受け継いで、これが日本人の和(わ;平和)の心である。
日本人の和(わ;平和)の心は、出雲の国譲(くにゆず)り神話や日向(ひうが;宮崎県)の天孫降臨神話など、日本神話の精神を現代日本人が受け継いで、日本人の命や魂の叫(さけ)びが世界中の人々に広がって、平和を願う純粋な思いを訴(うった)えて、世界中で平和を実現しようと国々や人々が動くだろう。

<参考文献>
『古代日本史への挑戦』
著者・僕 発行・株式会社オカムラ
『続・私の半生と古代日本史』
著者・僕 発行・株式会社オカムラ
『この一冊で「哲学」がわかる!』
著者・白取春彦 発行・株式会社三笠書房
インターネットの不明サイトから少々拝借

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