桃太郎と同時代の鬼退治伝説
僕のホームページの『古代日本史(古代天皇家の歴史)の史実・真実・事実』で、『西国反乱(さいごくはんらん)』の章からの抜粋(ばっすい)は、皇子の倭五狭芹彦命(やまといさせりひこのみこと)の墓(はか)が岡山市付近の弥生時代後期後半に築造した墳墓(ふんぼ)に当たると考えられて、岡山県倉敷(くらしき)市の弥生時代後期後半に築造した楯築墳丘墓(たてつきふんきゅうぼ)が皇后の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)の墓(はか)と特定して、ここに追加できていない。
また2026年8月3日の午後10時頃に僕は、ユーチューブ動画の「まほろばチャンネル」の『第7代 孝霊天皇の鬼退治』を見て、その中の月支国(げっしこく;新羅国(しらぎのくに)と入れ替(か)わる)や、皇女の福姫命(ふくひめのみこと;誰を祖先化したか不明)などがここに追加できず、不十分なために修正が必要である。
2025年12月24日にもみじヶ丘病院を退院した僕は、2007年7月に出版した僕の最初の著書に吉備(きび;古代の岡山県で、広島県東部を含(ふく)まないと考えられる)王国の平定を記さず、おそらく吉備(きび)平定を2010年代の前半か後半に特定したと考えられて、2025年12月28日の午後8時頃にユーチューブ動画の「日本歴史旅」の『【孝霊天皇】「欠史八代」と「鬼退治」をつなぐ禁断のミステリー』を見て、伯耆国(ほうきのくに;鳥取県西部)と島根県の隠岐島(おきのしま)を合計4つの鬼退治伝説を知った。
「記紀」の吉備(きび;古代の岡山県)平定と桃太郎の僕の自己分析は、最後に2024年9月21日の午前9時頃にWORDファイルに記してから、2025年12月28日の午後8時頃にユーチューブ動画を見て、約一時間後にネット検索で、午後9時頃に『ホツマツタエ』の西国反乱(さいごくはんらん;兵庫県南部と岡山県と鳥取県西部と島根県東部の平定)が正しいと気付いて、桃太郎を含(ふく)む合計5つの鬼退治伝説が同時期と気付いて、翌日12月29日の朝に修正し始めて、僕の職務怠慢(たいまん)や慢心(まんしん)で、正しい史実(歴史上の事実)を勘違いして、大革命を起こした。
2026年8月3日の午後10時頃に僕は、ユーチューブ動画の「まほろばチャンネル」の『第7代 孝霊天皇の鬼退治』を見て、詳細な自己分析をして、WORDファイル『桃太郎と同時代の鬼退治伝承』を同じくWORDファイルの『古代天皇家の垂仁(すいにん)天皇時代の歴史』と統合して、『西国反乱(さいごくはんらん)』の章に統合して、翌日の8月4日の朝に岡山県倉敷(くらしき)市の弥生時代後期後半築造の楯築墳丘墓(たてつきふんきゅうぼ)が垂仁(すいにん)天皇の皇后である日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)の墓(はか)と特定する「きっかけ」になった。
『ホツマツタエ』が記す西暦180年の大戦争は、古代天皇家の邪馬台国(やまとこく;奈良県の大和国)から見て、西(兵庫県南部と岡山県と鳥取県西部と島根県東部)の国の反乱と理解しやすい言葉で、2026年1月18日の午前11時頃に西国(さいごく)反乱と改訂して、ネット検索で、伯耆国(ほうきのくに;鳥取県西部)の3つの鬼退治伝説と、島根県の隠岐島(おきのしま)の鬼退治伝説を知って、桃太郎の鬼退治伝説と共に合計5つの鬼退治伝説を詳述するが、孝霊(こうれい)天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)時代の具体的な大戦争の詳細な特定を省略する。
『ホツマツタエ』の西国(さいごく)反乱は、2025年12月28日以前に僕が岡山県だけの平定と勘違いして、僕の力不足の証明で、日本の建国(天皇家誕生)の西暦84年から96年後の大戦で、日本国ができて、100年以内の戦争で、古代天皇家の国家存亡の危機と考えられて、『ホツマツタエ』も「記紀」も少し記すだけで、西国(さいごく)の地方伝承から、僕が総合的に理論修正させた。
パソコン入力した題名(タイトル)は、2025年12月29日頃に『桃太郎の正体』から『桃太郎と同時代の鬼退治伝承』に変更して、2026年1月1日(元日;がんじつ)の午後10時10分にホームページ更新したが、変更した題名が西国(さいごく)平定の修正記録をホームページに出さず、題名と内容が合致しないタイトル(題名)詐欺(さぎ)で、見た読者を混乱させたはずで、2026年1月6日の午後4時半頃に再び題名を『桃太郎と同時代の鬼退治伝説』に変更した。
桃太郎と伯耆国(ほうきのくに)の3つと島根県の隠岐島(おきのしま)の合計5つの鬼退治伝説は、日本国内で2番目に古い同時期の鬼退治伝説で、5つとも垂仁(すいにん)天皇29年(西暦180年)の大戦に含(ふく)んで、播磨国(はりまのくに;兵庫県南西部)が古代天皇家に任命された古代豪族か、敵国が反逆したか、記録がなくて特定できず、幾ら僕が凄(すさ)まじすぎる超頭脳でも、記録にない物を想像して、存在したように嘘(うそ)をつけない。
古代天皇家に任命された伯耆国(ほうきのくに;鳥取県西部)と出雲国(いずものくに;島根県東部)と隠岐島(おきのしま)の反乱軍は、古代天皇家の敵国の吉備(きび)王国と結託して、古代天皇家の政権奪取を計画して討伐されて、西暦95年に出雲王国(島根県東部の物部(もののべ)氏)を建国して、鳥取県西部と島根県東部の反乱軍が古代天皇家の領土にいて、古代天皇家が任命した古代豪族の共闘と考えられる。
孝霊(こうれい)天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)時代の5つの鬼退治伝承は、地理的にも岡山県と鳥取県西部と島根県の隠岐島(おきのしま)をつないで、兵庫県南部と岡山県と鳥取県西部と島根県東部の反乱軍が奈良県の古代天皇家の邪馬台国(奈良県の大和国;やまとこく)と出雲王国(島根県東部の物部(もののべ)氏)を地理的に分断して、島根県の隠岐島(おきのしま)の反乱軍が海上の通行を分断して、古代天皇家の広大な領土を奪(うば)う目的で、古代天皇家が島根県東部の物部(もののべ)氏を救出するための大戦争と考えられる。
垂仁(すいにん)天皇29年(西暦180年)以前の古代天皇家は、近畿地方の兵庫県南西部を除(のぞ)いた全部で、鳥取県と島根県東部と岐阜県と愛知県と四国の香川県と徳島県を確実に領土として、考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)から、確実に正しい勢力図で、結託した反乱軍が古代天皇家の領土を奪(うば)う計画を予測した。
西国(さいごく;兵庫県南部と岡山県と鳥取県西部と島根県東部)反乱は、西暦156年から158年の倭国大乱(わこくたいらん;皇位継承権争いの狭穂彦王(さほひこのみこ)の内乱)と同規模の戦争で、どちらの戦争がより大規模か、特定できる記録が存在せず、2つとも日本の建国(天皇家誕生)100年以内の大戦争で、ネット検索で、古代天皇家の最大の戦争と記す壬申(じんしん)の乱(らん)より、想像以上に大規模な戦争を連想すると考えられる。
吉備津彦(きびつひこ;祖別命(みおやわけのみこと)を祖先化)が殺した岡山市の鬼の温羅(うら;おんら)は、日本各地に伝わるおとぎ話の桃太郎伝説の中で、最も桃太郎の原形に近くて、吉備津(きびつ)神社の1583年(天正11年)成立の『備中吉備津宮勧進帳(びっちゅうきびつぐうかんじんちょう)』が最古の記録で、同書に温羅(うら)の人名が初見で、『ホツマツタエ』に敵将の人名を記さなくて、吉備国(きびのくに;古代の岡山県で、広島県東部を含(ふく)まないと考えられる)の分析・研究も、含(ふく)めて下記する。吉備(きび;古代の岡山県)国王と考えられる。
温羅(うら)は、『ホツマツタエ』と「記紀(『古事記』と『日本書紀』)」に人名を記さず、岡山県の地方伝承の人名で、西暦180年に岡山市で戦死した桃太郎に殺された鬼で、2世紀後半頃の築造と考えられる岡山県倉敷市の楯築墳丘墓(たてつきふんきゅうぼ)が温羅(うら)の墓(はか)で、翌年の西暦181年に桃太郎の祖別命(みおやわけのみこと)が田道間守(たじまもり;祖別命(みおやわけのみこと)と同一人物)として、古代中国の後漢(ごかん)王朝の大使として派遣されて、祖別命(みおやわけのみこと)の移動を特定したと考えられて、僕の大偉業の成果である。
吉備(きび;岡山県と広島県東部)の国名の由来は、古代天皇家が平定した吉備(きび;古代の岡山県)王国が名乗ったか、古代天皇家が名付けたか分からず、現代に吉備(きび)の呼び名が伝わるだけで、誰が名付けたか特定できなくて、議論することも馬鹿馬鹿しい正論である。
日本最古のおとぎ話の桃太郎は、日本国内で2番目に古い鬼退治伝承の一つで、垂仁(すいにん)天皇29年(西暦180年)の吉備(きび;古代の岡山県)国王と考えられる温羅(うら)討伐が桃太郎の鬼退治伝説で、祖別命(みおやわけのみこと)の配下の3武将がお供(とも)の犬と猿と雉(きじ)になって、吉備(きび)王国が播磨国(はりまのくに;兵庫県南西部)と伯耆国(ほうきのくに;鳥取県西部)と島根県の隠岐島(おきのしま)の反乱軍と共闘した古代天皇家の政権奪取の計画と考えられて、岡山県の平定を詳細に自己分析する。
おとぎ話の桃太郎の正体は、古代天皇家の皇子の祖別命(みおやわけのみこと)が15才の3つ子の長男で、総大将の伯父(おじ;父の兄:実兄)の豊城彦命(とよきひこのみこと)に従軍する若輩者の武将で、15才だから元服(げんぷく;昔の成人の儀式)したばかりで、事実(現実に起きた出来事)に想像を加えて、おとぎ話の桃太郎の物語ができて、3武将がお供(とも)の犬と猿と雉(きじ)に変化させたなど、色々な部分に痕跡(こんせき)が残る。
日本最古の鬼退治伝説は、崇神(すじん)天皇10年から11年(西暦93年から94年)の丹波(たには;京都府北中部)と但馬(たじま;兵庫県北部)の平定で、実在した初代天皇の崇神(すじん)天皇の実兄である彦坐王(ひこいますのみこ)が総大将で、息子の丹波道主王(はにはみちぬしのみこ)の人名が丹波国(たんばのくに;古代京都府北中部)の国名に採用されて、それ以上に古い鬼退治伝説が日本の建国(天皇家誕生)以前なら、幾ら僕でも特定できない。
鬼ヶ島の正体は、『古事記』の国生み神話に登場する吉備(きび;岡山県と広島県東部)の児島(こじま)と考えられて、西暦180年に児島(こじま)が離島で、江戸時代初めの1618年に干拓(かんたく)で、岡山市と陸続きの岡山県倉敷市の児島(こじま)半島になって、桃太郎伝説を完全解釈した僕の自論で、鬼の総大将の温羅(うら;おんら)が岡山市にいて、他に鬼ヶ島の鬼が児島(こじま)にいて、吉備(きび)の児島(こじま)をもみじヶ丘病院に任意入院中の2025年11月19日の午後2時40分頃に気付いた。
桃太郎のモデル(実在の人物)の祖別命(みおやわけのみこと)は、3つ子の長男の皇子で、伯父(おじ;父の実兄)で、老将の豊城彦命(とよきひこのみこと)に戦術などを指導されて、15才で西暦180年に岡山市にいる鬼の総大将の温羅(うら)を殺して、おとぎ話の鬼ヶ島の鬼が他にいて、桃太郎の物語に矛盾(むじゅん;理論的に物事が成立しないこと)があって、鬼ヶ島が人間の想像力で作った島とする説があるが、理論的に鬼ヶ島の存在を僕が証明した。
孝昭(こうしょう)天皇(崇神(すじん)天皇を祖先化)の皇后の押媛(おしひめ;御井津比売(みいつひめ)を祖先化)は、息子の大吉備諸進命(おおきびのもろすすみのみこと;豊城彦命(とよきひこのみこと)を祖先化)を崇神(すじん)天皇26年11月1日(西暦109年12月上旬頃)に生んで、西暦180年に70才の吉備(きび)平定の総大将で、実弟の垂仁(すいにん)天皇の息子で、男ばかりの15才の3つ子(甥(おい)の皇子たち)が従軍した若輩者の武将で、戦法などを指導したと考えられる。
吉備津彦(きびつひこ;祖別命(みおやわけのみこと)を祖先化)が殺した桃太郎の鬼の温羅(うら)は、「記紀(『古事記』と『日本書紀』)」の吉備(きび;古代の岡山県)平定と岡山市の吉備津彦(きびつひこ)神社や吉備津(きびつ)神社の鬼退治伝承などから考えて、温羅(うら)が吉備(きび)国王と考えるのが普通で、吉備(きび)国王の温羅(うら)が岡山県各地にいた配下の武将(岡山県平定の古伝承の敵将たちは、温羅(うら)に服従したと考えられる)の一人が鬼ヶ島の児島(こじま)の鬼で、鬼ヶ島の児島(こじま)の鬼が温羅(うら)より、格下と考えられる。
吉備(きび;古代の岡山県)国王の温羅(うら)は、鬼の総大将として、岡山県の各地にいる配下の武将たち(鬼と表現されないが、僕が武将たちを鬼と認識して、鬼ヶ島の児島(こじま)の鬼も含(ふく)む)を束(たば)ねて、古代天皇家に敵対した反乱軍の一つ(吉備(きび)王国)を形成したと考えられる。
おとぎ話の鬼ヶ島は、鬼の総大将がいる場所だが、現実に岡山市に桃太郎の鬼の温羅(うら)がいて、鬼ヶ島の児島(こじま)にも鬼がいる結論で、鬼ヶ島の児島(こじま)の鬼も、桃太郎の祖別命(みおやわけのみこと)が殺したと考えられて、鬼ヶ島の自己分析を2026年1月9日の午後10時半分頃に記し終えた。
垂仁(すいにん)天皇7年7月1日(西暦158年8月上旬頃)に彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと)は、諱(いみな)が菰積(こもつみ)で、その子供が筒木垂根王(つつきたるねのみこ)で、その娘の樺井月姫(かばいつきひめ)を皇后で、妹の迦具夜姫(かぐやひめ)を妾(めかけ)にして、皇后が決まって5日(8月上旬頃)にそのお祝いをして、7日(8月上旬頃)の皇后選定後に初めての棚機(たなばた)の祭礼をした。
彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと)は、彦坐王(ひこいますのみこ)と同一人物で、大筒木垂根王(おおつつきたるねのみこ)が山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)で、娘が樺井月姫(かばいつきひめ)と迦具夜姫(かぐやひめ)で、樺井月姫(かばいつきひめ)と迦具夜姫(かぐやひめ)が同母姉妹か異母姉妹である。
樺井月姫(かばいつきひめ)は、『ホツマツタエ』に登場する皇后で、「記紀」で偽装工作して抹消されて、おとぎ話のかぐや姫が垂仁(すいにん)天皇と結婚した妾(めかけ)の迦具夜姫(かぐやひめ)から人名を取って、かぐや姫が結婚しなくて、迦具夜姫(かぐやひめ)と無関係である。
棚機(たなばた)の祭礼は、『ホツマツタエ』の日本古来の祭りで、蚕(かいこ)と機織(はたお)りを祭って、現在の七夕(たなばた)が古代中国の西王母(せいおうぼ)信仰に由来して、漢字や祭りの内容などが棚機(たなばた)から、七夕(たなばた)に変化したと考えられる。
孝霊(こうれい)天皇13年12月1日に孝霊(こうれい)天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)の妾(めかけ)の糸姫(はえひめ;迦具夜姫(かぐやひめ)を祖先化)は、兄稚武彦命(えわかたけひこのみこと;祖別命(みおやわけのみこと)を祖先化)と彦狭島命(ひこさしまのみこと;五十足彦命(いしたりひこのみこと)を祖先化)と弟稚武彦命(おとわかたけひこのみこと;胆武別命(いたけわけのみこと)を祖先化)の3つ子を生んで、母の糸姫(はえはめ)を尊(とうと)んで、稚大宮女(わかおおみやめ)と讃(たた)えた。
糸は、「糸へん」に「亙」の漢字で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
垂仁(すいにん)天皇33年に垂仁(すいにん)天皇と山城不遅(やましろふち)の娘の苅幡戸辺(かりはたとべ)は、祖別命(みおやわけのみこと)と五十足彦命(いしたりひこのみこと)と胆武別命(いたけわけのみこと)の3人兄弟を生んで、垂仁(すいにん)天皇30年(西暦181年)に祖別命(みおやわけのみこと)が後漢王朝の使者の田道間守(たじまもり)になって、年代矛盾が起こる。
垂仁(すいにん)天皇13年12月1日(西暦165年1月上旬頃)に垂仁(すいにん)天皇の妾(めかけ)の迦具夜姫(かぐやひめ)は、祖別命(みおやわけのみこと)と五十足彦命(いしたりひこのみこと)と胆武別命(いたけわけのみこと)の3つ子を生んで、母の迦具夜姫(かぐやひめ)を尊敬して、稚大宮女(わかおおみやめ)と讃(たた)えた。
おとぎ話のかぐや姫と迦具夜姫(かぐやひめ)は、別人でかぐや姫が結婚しないで、迦具夜姫(かぐやひめ)が結婚して、長男の祖別命(みおやわけのみこと)が桃太郎で、かぐや姫と桃太郎につながりがあって、樺井月姫(かばいつきひめ)と迦具夜姫(かぐやひめ)の姉妹が3つ子を生んだのを2022年11月25日に『ホツマツタエ』の祖先化した系図を特定して、初めて気付いた。
長男(3つ子の中での長男)の祖別命(みおやわけのみこと)は、岡山県東部を統治する吉備上道(きびのかみつみち)氏の先祖だが、「記紀」の記述の違いが先祖でないとも記して、『ホツマツタエ』で、ミヲヤワケ(祖別命;みおやわけのみこと)の子孫の吉備津彦(祖別命(みおやわけのみこと)を祖先化)が子をキビタケヒコ(吉備武彦)と記して、三男(祖別命(みおやわけのみこと)の実弟)の胆武別命(いたけわけのみこと)が岡山県西部を統治する吉備下道(きびのしもつみち)氏の先祖である。
吉備武彦(きびたけひこ)は、弟稚武彦命(おとわかたけひこのみこと;胆武別命(いたけわけのみこと)を祖先化)の子供か、孫とするが、『ホツマツタエ』の完全解釈で、祖別命(みおやわけのみこと)の子供が正解だが、祖別命(みおやわけのみこと)の子孫の吉備上道(きびのかみつみち)氏と、胆武別命(いたけわけのみこと)の子孫の吉備下道(きびのしもつみち)氏が混血した証明である。
吉備上道(きびのかみつみち)氏と吉備下道(きびのしもつみち)氏は、両方の氏族を合わせて、武家の古代豪族の吉備(きび)氏と総称して、吉備(きび)氏が強力な武家になった理由と考えられて、祖別命(みおやわけのみこと)の祖(みおや)が先祖の意味で、吉備(きび)氏の先祖を指す。
垂仁(すいにん)天皇13年12月1日(西暦165年1月上旬頃)に垂仁(すいにん)天皇の妾(めかけ)の迦具夜姫(かぐやひめ)は、3つ子の長男の祖別命(みおやわけのみこと)を生んで、西暦180年に岡山県東部を平定した若い15才の武将で、翌年の西暦181年に古代中国の後漢(ごかん)王朝に大使として派遣されて、西暦190年まで古代中国の文化(漢字と製紙業と太陰太陽暦など)を学んで、西暦191年4月頃に26才で、病死したと考えられて、同年の5月末日頃に娘の弟橘姫(おとたちばなひめ)が生まれて、顔を見ることなく死去した。
祖別命(みおやわけのみこと)は、常世国(とこよのくに)の日高見国(ひだかみのくに;東北地方南部のどこか)に10年間も留(とど)まった田道間守(たじまもり;祖別命(みおやわけのみこと)を祖先化:古代中国に派遣された期間)などに偽装工作して、功績や系図や年齢などを隠(かく)した。
それを証明する考古学的証拠は、京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社の神宝である邊津鏡(へつかがみ)が前漢(ぜんかん)王朝時代(約2050年前)と、息津鏡(おきつかがみ)が後漢(ごかん)王朝時代(約1950年前)の銅鏡の2枚と、「中平(ちゅうへい;後漢(ごかん)王朝の中平(ちゅうへい)年間:西暦184年から189年)?年五月丙午(ひのえうま)…」の文字を刻(きざ)んだ国宝の東大寺山(古墳出土)鉄刀と、後漢(ごかん)王朝で西暦160年頃に作られた画文帯環状乳神獣鏡(がもんたいかんじょうにゅうしんじゅうきょう)の3例と考えられて、証拠の理由を省略する。
祖別命(みおやわけのみこと)は、別名を「おおじわけのみこと」で、西暦165年1月頃に生まれた3つ子の長男(3つ子の中での長男)で、実在した垂仁(すいにん)天皇の息子(皇子の何番目か、特定に時間がかかるため省略する)で、西暦180年に15才で、岡山県東部を平定した若輩者の武将で、翌年181年3月頃に古代中国の後漢(ごかん)王朝に大使として派遣されて、古代中国の文化(太陰太陽暦や漢字や製紙業など)を勉強して、西暦191年3月頃に帰国して、病死した可能性が高くて、大使の本人が病気にかかって、帰国を決めたと考えられる。
『ホツマツタエ』孝霊(こうれい)天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)53年(アスス暦480年)は、垂仁(すいにん)29年(西暦180年)が正しくて、西の国々が争いを始めて、沈(ち)の口(くち;山陰道の入り口)と播磨(はりま;兵庫県西南部)と斐伊川(ひいかわ;島根県を流れる川)に忌部主(いんべぬし)を総大将で、倭五狭芹彦命(やまといさせりひこのみこと)を副将に派遣して、沈(ち)の口(くち)が伯耆国(ほうきのくに;鳥取県西部)で、島根県出雲市の斐伊川(ひいかわ)から見て、東に出雲王国(物部(もののべ)氏)の本拠地の島根県松江市がある。
また兄稚武彦命(えわかたけひこのみこと)を吉備上路(きびかんぢ;岡山県東部)で、弟稚武彦命(おとわかたけひこのみこと)を吉備下路(きびしもぢ;岡山県西部)に派遣して、争いのわけを聞いて、天皇の教えを説(と)いて従わせて、これが吉備国(きびのくに;古代の岡山県)平定である。
福井県敦賀(つるが)市の去来紗別宮(いささわけのみや;気比(けひ)神宮)は、越国(こしのくに;北陸)平定に彦狭島命(ひこさしまのみこと)を派遣して、垂仁(すいにん)29年(西暦180年)の北陸平定が間違いで、西暦252年から254年頃の北陸平定と重複させて、彦狭島命(ひこさしまのみこと)が2人いることも、勘違いした理由である。
『ホツマツタエ』の孝霊(こうれい)天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)53年(アスス暦480年)の吉備(きび;古代の岡山県)平定は、アスス暦480年が西暦180年と合致して、ヨーロッパで6世紀前半の西暦525年に西暦年ができて、『ホツマツタエ』が西暦年を採用して、『ホツマツタエ』が和珥(わに)氏が6世紀頃に小野(おの)氏と柿本(かきのもと)氏などに分家したと記して、6世紀から7世紀に成立した日本最古の書物と僕が証明して、8世紀前半の西暦720年に一緒に献上した『日本書紀』と『古事記』より古い日本最古の書物と僕が証明した。
『ホツマツタエ』の西国(さいごく;兵庫県南部と岡山県と鳥取県と島根県)反乱は、僕が『日本書紀』の吉備(きび;古代の岡山県)王国の平定を重視して、『ホツマツタエ』の記述と3つの鬼退治伝説に気付かず、2025年12月28日の午後8時頃にユーチューブ動画を見て、間違いを認めて、デイケア参加中の2026年1月8日の午後0時頃に島根県出雲市の斐伊川(ひいかわ)から見て、左隣(ひだりどなり)に出雲王国(物部(もののべ)氏)の国都(こくと)の島根県松江市があると気付いて、後でネット検索して、地図を確認した。
出雲王国(物部(もののべ)氏)の国都(こくと)は、熊野大社がある島根県松江市で、右隣(みぎどなり)の出雲大社がある島根県出雲市でなく、物部(もののべ)氏が『熊野大社と熊野三山』と『出雲大社』などの章で説明して、深く関係する説明を省略して、地理的や考古学的(遺跡・遺物)や歴史学的(歴史書解釈)にも、証明した史実・真実・事実の証拠が山積みで、100%誰も否定できない確実な超理論である。
『ホツマツタエ』の自己分析は、孝霊(こうれい)天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)が西国(さいごく)反乱の総司令官で、兵庫県南西部と鳥取県西部と島根県東部の平定が忌部主(いんべぬし)を総大将で、15才の皇子の倭五狭芹彦命(やまといさせりひこのみこと)を副将に添(そ)えて派遣して、忌部主(いんべぬし)が物部(もののべ)氏と同族で、3代目出雲国王の野見宿禰(のみのすくね)か分からず、出雲王国(物部(もののべ)氏)の野見宿禰(のみのすくね)の行動の記録が少なくて分からない。
斐伊川(ひいかわ)の敵を攻撃した総大将の忌部主(いんべぬし)は、島根県出雲市の斐伊川(ひいかわ)から見て、左隣(ひだりどなり)の島根県松江市にいる物部(もののべ)氏の3代目出雲国王の野見宿禰(のみのすくね;忌部主(いんべぬし)か不明)か分からず、野見宿禰(のみのすくね)が西の島根県松江市側か、古代天皇家の邪馬台国(奈良県の大和国;やまとこく)側にいるかも、そもそも証明できない。
忌部主(いんべぬし)の正体が野見宿禰(のみのすくね)の可能性は、物部(もののべ)氏の3代目出雲国王の野見宿禰(のみのすくね)が出雲王国(物部(もののべ)氏)側でなく、古代天皇家の邪馬台国(奈良県の大和国;やまとこく)側の近畿地方にいる時に戦争が起きて、西国(さいごく)反乱の総大将に任命されて、出雲(島根県東部)の物部(もののべ)氏が西国(さいごく)の反乱軍に鎮圧された記録がなくて、西暦180年頃に年齢が36才から40才ぐらいで、野見宿禰(のみのすくね)の父親の狭穂彦王(さほひこのみこ)が戦死した時の年齢から、計算した年齢である。
忌部主(いんべぬし)は、祭祀(さいし)を受け持った古代豪族の忌部(いんべ)氏を指して、忌部(いんべ)氏の太玉命(ふとだまのみこと;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)が祖先神で、物部(もののべ)氏の経津主神(ふつぬしのかみ;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)と同一神で、太玉命(ふとだまのみこと)の神名が経津主神(ふつぬしのかみ)の持つ神刀の布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)を連想させて、『富士宮下文書』が太玉命(ふとだまのみこと;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)の子孫が蘇我(そが)氏で、物部(もののべ)氏の子孫が蘇我(そが)氏と同族である。
以上の僕の自己分析は、忌部主(いんべぬし)の正体が野見宿禰(のみのすくね)を指す可能性が高くて、23年以上の歴史研究の実績を持つ僕の超知識の蓄積が出した結論で、僕にしか正しく分析・研究できない内容で、凡人(僕以外の人間)の出る幕(まく)がなくて、100%絶対に勝てない無謀(むぼう)な敗戦が目に見えて、これが現実である。
『ホツマツタエ』の倭五狭芹彦命(やまといさせりひこのみこと)は、垂仁(すいにん)天皇12年9月16日(西暦163年10月中旬頃)生まれの3つ子の次男(3つ子の中での次男)で、西暦179年に16才で戦死して、『日本書紀』の彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと;吉備津彦(きびつひこ)の祖別命(みおやわけのみこと)と同一人物とする)と同一人名で、『ホツマツタエ』が倭五狭芹彦命(やまといさせりひこのみこと)の異母弟を祖別命(みおやわけのみこと)で、『日本書紀』が長年の誤伝承か、ワザと隠(かく)したと考えられる。
総大将の忌部主(いんべぬし)に従軍する西国(さいごく;兵庫県南部と岡山県と鳥取県と島根県)反乱の副将の五狭芹彦命(やまといさせりひこのみこと)は、16才か17才の年齢から考えて、全く戦争経験がなくて、お飾(かざ)りの副将に任命されて、総大将の忌部主(いんべぬし)や配下の武将たちが戦線に立って、全面的に補佐したと考えられる。
孝霊(こうれい)天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)時代の西国(さいごく)反乱の自己分析は、ネット検索で、4つの鬼退治伝説以外も検索できるが、それ以上に特定する時間が惜(お)しくて、昔から僕自身の同時並列(へいれつ)処理(物理的に同時に動かすこと)を自覚して、日本語入力ソフトWORDファイルの修正中に複数の同時作業をしたり、入力速度が遅いなど、詳細に特定しない根本的な複数の理由がある。
吉備(きび;古代の岡山県)平定の総大将は、大吉備諸進命(おおきびのもろすすみのみこと;豊城彦命(とよきひこのみこと)を祖先化)で、15才の3つ子の皇子を総合的に指揮して、吉備上路(きびかんぢ;岡山県東部)平定が15才の皇子の兄稚武彦命(えわかたけひこのみこと;祖別命(みおやわけのみこと)を祖先化)で、吉備下路(きびしもぢ;岡山県西部)が実弟の弟稚武彦命(おとわかたけひこのみこと;胆武別命(いたけわけのみこと)を祖先化)で、桃太郎と違う鬼や豪族や首領たち反乱軍の討伐を僕が総合的に自己分析した。
吉備上路(きびかんぢ;岡山県東部)平定は、15才の皇子の兄稚武彦命(えわかたけひこのみこと;祖別命(みおやわけのみこと)を祖先化)で、吉備下路(きびしもぢ;岡山県西部)が弟稚武彦命(おとわかたけひこのみこと;胆武別命(いたけわけのみこと)を祖先化)で、15才の3つ子の皇子を指揮する吉備(きび;古代の岡山県)平定の総大将が伯父(おじ;父の兄:実兄)の大吉備諸進命(おおきびのもろすすみのみこと;豊城彦命(とよきひこのみこと)を祖先化)で、系図や人名などを総合的に分析して間違いない。
『ホツマツタエ』と「記紀」の垂仁(すいにん)29年(西暦180年)は、出雲王国(物部(もののべ)氏)の粛清(しゅくせい)を記さず、物部(もののべ)氏の3代目出雲国王の野見宿禰(のみのすくね)と関係なく、出雲国(いずものくに;島根県東部)と島根県の隠岐島(おきのしま)の反逆者が古代天皇家に任命された古代豪族と考えられる。
豊城彦命(とよきひこのみこと)の孫の彦狭島命(ひこさしまのみこと)は、西暦252年から254年頃まで、北陸平定の総大将の武虎別皇子(たけこわけのみこ)に従軍した武将で、景行(けいこう)天皇55年でなく、仲哀(ちゅうあい)天皇4年(西暦255年)に東山道(とうさんどう;たぶん宮城県南部と山形県と福島県から滋賀県までを指す)15国の都督(かみ;軍政の統治者)を命じられたが、途中で死去した彦狭島王(ひこさしまのみこ)と同一人物である。
孝霊(こうれい)天皇53年(アスス暦480年)の彦狭島命(ひこさしまのみこと)は、孝霊(こうれい)天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)の息子の彦狭島命(ひこさしまのみこと;五十足彦命(いしたりひこのみこと)を祖先化)と豊城彦命(とよきひこのみこと)の孫の彦狭島命(ひこさしまのみこと)別人を同一人物と勘違いして、垂仁(すいにん)天皇の息子の五十足彦命(いしたりひこのみこと)が岡山県を平定して、豊城彦命(とよきひこのみこと)の孫の彦狭島命(ひこさしまのみこと)が北陸を平定したと僕が特定した。
吉備国(きびのくに;岡山県と広島県東部)の分国は、西暦689年に備前国(びぜんのくに;岡山県東部)と備中国(びっちゅうのくに;岡山県西部)と備後国(びごのくに;広島県東部)の3国に分国して、西暦713年5月6日に備前国(びぜんのくに;昔の岡山県東部)を美作国(みまさかのくに;岡山県北東部)と備前国(びぜんのくに;今の岡山県東南部)の2国に分国して、正しい分国の年月を記す歴史書があって、ネット検索で簡単に特定できた。
2026年1月4日の午前7時頃に僕は、西暦158年の伊勢国(いせのくに;三重県中部)平定を特定して、翌日1月5日の午前10時頃に熊野国(くまののくに;和歌山県と三重県南部)の区分に三重県熊野市を含(ふく)めない時期があったと特定して、吉備国(きびのくに;岡山県と広島県東部)の区分に広島県東部を含(ふく)めない時期があったとも特定して、2つの旧国名の区分を同日(おそらく長くても数十分)に理論修正して、僕の頭の回転(考え方の進化スピード)が速すぎる証拠である。
岡山県の東部と西部の平定記録の存在は、広島県東部の平定記録が存在せず、吉備国(きびのくに;岡山県と広島県東部)を吉備国(きびのくに;古代の岡山県)に訂正して、西暦180年に吉備(きび)王国を平定して、西暦202年から209年の7年間に九州全土を平定して、西暦181年から202年の間に山口県と広島県東部と四国の高知県を平定した後で、九州全土の平定を計画したと考えるのが自然である。
『予章記(よしょうき)』の開化(かいか)天皇(日本武尊(やまとたけのみこと)を祖先化)時代は、四国の土佐国(とさのくに;高知県)で、賊徒が反乱して勅命(ちょくめい)で、彦狭島命(ひこさしまのみこと;五十足彦命(いしたりひこのみこと)を祖先化)を伊予国(いよのくに;愛媛県)に派遣して、派遣が応援の意味で、愛媛県に加勢するために行って、愛媛県が古代天皇家の領土と考えられる。
日本武尊(やまとたけのみこと)は、景行(けいこう)天皇2年12月15日(西暦193年1月頃)生まれで、異母弟の景行(けいこう)天皇の命令で、愛媛県に加勢するために五十足彦命(いしたりひこのみこと)を派遣して、高知県の反乱した賊徒を討伐して、西暦181年から202年の間に高知県を平定して、邪馬台国(大和国;やまとこく)と出雲王国(物部(もののべ)氏)の山口県と広島県東部の平定記録が存在せず、絶対にネット検索で、発見できないと考えられる。
温羅(うら)討伐で祖別命(みおやわけのみこと)は、岡山市の吉備津(きびつ)神社を本陣で、温羅(うら)に一本ずつ矢を射て、矢が岩に飲み込まれて、そこで祖別命(みおやわけのみこと)が2本同時に射て、温羅(うら)の左眼を射抜いた。すると温羅(うら)は、雉(きじ)に化けて逃げて、祖別命(みおやわけのみこと)が鷹(たか)に化けて追って、さらに温羅(うら)が鯉(こい)に変身して逃げて、祖別命(みおやわけのみこと)が鵜(う)に変化して、ついに温羅(うら)を捕らえて、討伐したと言う。
討たれた温羅(うら)の首は、さらし首にされて、討たれても首に生気があって、時折目を見開いてはうなり声を上げて、気味悪く思った人々が祖別命(みおやわけのみこと)に相談して、祖別命(みおやわけのみこと)が犬飼武命(いぬかいたけるのみこと)に命じて、犬に首を食べさせて骨としたが、鎮(しず)まらなかった。次に祖別命(みおやわけのみこと)は、吉備津(きびつ)神社の御釜殿(おかまでん)の竈(かまど)の地中深くに骨を埋めたが、13年間うなり声が止まらず、周辺に鳴り響いた。
ある日に祖別命(みおやわけのみこと)の夢の中に温羅(うら)が現れて、温羅(うら)の妻の阿曽媛(あそひめ)に御釜殿(おかまでん)の神饌(しんせん;神社や神棚の供(そな)え物)を炊(た)くように告(つ)げて、このことを人々に伝えて神事を執り行なって、うなり声が鎮まって、その後で温羅(うら)が吉凶を占う存在となった。
温羅(うら)討伐の祖別命(みおやわけのみこと)の3家臣は、犬飼武命(いぬかいたけるのみこと)と楽々森彦命(ささもりひこのみこと)と留玉彦命(とめたまのみこと)で、それぞれ桃太郎の犬と猿と雉(きじ)に当たる。
犬飼武命(いぬかいたけるのみこと)は、祖別命(みおやわけのみこと)の忠実な家臣で、後世の政治家の犬養毅(いぬかいつよし;国政を1890年から暗殺された1932年5月15日までして、歴代の大臣を務(つと)めた)がその子孫とされる。
楽々森彦命(ささもりひこのみこと)は、当地出身の智将で、その出自が県主(あがたぬし)として、娘の高田姫命(たかだひめのみこと)が吉備津彦(きびつひこ)に嫁(とつ)いで、祖別命(みおやわけのみこと)の妻である。
祖別命(みおやわけのみこと)の妻の花橘(はなたちばな)は、娘の弟橘姫(おとたちばなひめ)を生んで、弟橘姫(おとたちばなひめ)の兄の吉備武彦(きびたけひこ)が実兄か異母兄か分からなくて、母親が花橘(はなたちばな)か高田姫命(たかだひめのみこと)か、それ以外か資料が少なくて特定できない。
留玉彦命(とめたまのみこと)は、別の漢字で遣霊彦命(とめたまのみこと)とも書いて、鳥飼(とりかい)に優(すぐ)れた家臣で、鳥を飼(か)いならしたと伝えられて、犬飼武命(いぬかいたけるのみこと)が犬を飼(か)いならして、楽々森彦命(ささもりひこのみこと)が猿と関係なくて、桃太郎の犬と雉(きじ)のモデル(実在の人物)が正しい証拠である。
『備中吉備津宮勧進帳(びっちゅうきびつぐうかんじんちょう)』の温羅(うら)は、鬼神や吉備冠者(きびのかんじゃ)の異称があって、2つの異称が吉備(きび;古代の岡山県)国王を連想させて、渡来人とするが確証がなく、先祖代々の吉備(きび)国王の家系で、吉備(きび)平定の伝承で、一番重要な敵将と考えられることが吉備(きび)国王の理由で、先祖代々の吉備(きび)国王の家系か分からないと考えられる。
温羅(うら)は、渡来人で空を飛んだ大男で、怪力無双の大酒飲みなどの伝承があって、妻の阿曽姫(あそひめ)が阿曽郷(あそごう;総社市奥坂)の祝(はふり)の娘で、弟に王丹(おに)と言う人物がいた。
伝承の温羅(うら)は、吉備(きび)の外から飛来して、吉備(きび)に至って、製鉄技術を吉備(きび)にもたらして、岡山県総社市の古代の山城の鬼ノ城(きのじょう)を拠点にしたが、確たる証拠がない。
鬼ノ城(きのじょう)は、築城年代が不明だが、考古学的に見て、7世紀後半に築かれて、温羅(うら)の実在年代が西暦180年で、後世の遺跡で間違いない鬼ノ城(きのじょう)を本拠地とする伝承が生まれて、温羅(うら)がいた本拠地が分からないと考えられる。
2世紀後半頃の築造と考えられる岡山県倉敷市の楯築墳丘墓(たてつきふんきゅうぼ)は、温羅(うら)の墓(はか)と考えられて、古代天皇家の反感を買って、墳丘(ふんきゅう)に立てた特殊器台土器を全て破壊して、考古学上で埴輪(はにわ)の起源が岡山県の特殊器台土器で、それが進化した最古の埴輪(はにわ)が箸墓(はしはか)古墳(景行(けいこう)天皇古墳)から出土した特殊器台埴輪(はにわ)で、土器から埴輪(はにわ)に進化したのが間違いないと考えられる。
垂仁(すいにん)天皇28年11月2日(西暦179年12月上旬頃)に垂仁(すいにん)天皇の異母兄の倭彦命(やまとひこのみこと)陵は、殉死者(じゅんししゃ;主人の死後に従者を生き埋めにすること)を禁止して、垂仁(すいにん)天皇32年7月6日(西暦183年8月上旬頃)に皇后の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)が亡くなって、日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)陵で殉死者(じゅんししゃ)の代替物の埴輪(はにわ)を初めて採用して、西暦180年から183年の間が楯築墳丘墓(たてつきふんきゅうぼ)の葬礼時期と考えられて、考古学的にも正論である。
埴輪(はにわ)は、日本特有の古墳時代の素焼き土器で、弥生土器の流れを組(く)む古墳時代頃の素焼き土器の土師器(はじき)に分類して、従者を生き埋めにした悪習の殉死(じゅんし)を垂仁(すいにん)天皇が廃止して、殉死者(じゅんししゃ)の代わりに古墳に立てた土器で、考古学的にも岡山の特殊器台土器から進化したと考えられて、理論的に成立する年代の順序が正しい。
ネット検索で岡山県倉敷市の楯築墳丘墓(たてつきふんきゅうぼ)は、大正初期まであった楯築(たてつき)神社に御神体として、神石(亀石)が安置されて、現在その神石が楯築墳丘墓(たてつきふんきゅうぼ)近くの収蔵庫に祭られて、その神石全体に孤帯紋様(こたいもんよう)を刻(きず)むと記して、纏向(まきむく)石塚古墳から出土した孤文円板(こもんえんばん)を刻(きず)む孤帯紋様(こたいもんよう)に直接続いて、岡山県の平定後に纏向(まきむく)石塚古墳を築造して、理論的に成立する年代の順序が正しい。
2022年11月18日に知った徳島県阿南(あなん)市の国史跡の若杉山辰砂(わかすぎやましんしゃ)採掘遺跡は、弥生時代後期から古墳時代前期の遺跡で、古墳の埋葬施設に使用する赤い塗料の水銀朱を作って、楯築墳丘墓(たてつきふんきゅうぼ)の埋葬施設に使用して、纏向(まきむく)石塚古墳やホケノ山古墳の埋葬施設にも水銀朱を使用して、赤色の水銀朱が赤い日の丸と太陽神を連想させる日本最古の考古学的証拠と考えられる。
鳥取県日野郡(ひのぐん)日南町(にちなんちょう)の楽楽福(ささふく)神社の社伝は、孝霊(こうれい)天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)の幼名が楽楽清有彦命(ささふくきよありひこのみこと)で、笹福(ささふく;砂鉄吹(ささふく)の意味で、砂鉄を蹈鞴(たたら)吹きで製鉄する蹈鞴(たたら)製鉄を意味すると言う)と号(ごう)して(本名以外の名前を付けること)、垂仁(すいにん)天皇の父の崇神(すじん)天皇58年(西暦141年)に朝鮮半島の加羅国(からのくに)の王子が福井県に来日して、朝鮮半島から鉄を仕入れて、社伝の鉄伝承を証明した。
蹈鞴(たたら)製鉄は、古墳時代中期後半の6世紀頃に始まったと考えられて、鳥取県西部が蹈鞴(たたら)製鉄だが、神武(じんむ)天皇(仁徳(にんとく)天皇を祖先化)の皇后の媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと;磐之媛命(いわのひめのみこと)を祖先化)が西暦335年7月頃に産後の病状が悪くて亡くなって、蹈鞴(たたら)製鉄の産地である出雲王国(物部(もののべ)氏)の血筋で、皇后の人名から考えて、4世紀前半に蹈鞴(たたら)製鉄が存在したと考えられて、考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)の解釈の違いである。
楽楽福(ささふく)神社の社伝は、島根県の隠岐島(おきのしま)の鬼である黄魃鬼(こうばつき)で、次に鳥取県西伯郡(さいはくぐん)伯耆町(ほうきちょう)にある鬼住山(きずみやま)の兄弟鬼の大牛蟹(おおうしかに)と乙牛蟹(おとうしかに)で、次に鳥取県日野郡(ひのぐん)日南町(にちなんちょう)にある鬼林山(きりんざん)の鬼の牛鬼(ぎゅうき)で、同じ頃に備中(びっちゅう;岡山県西部)の強賊の石蟹魁師荒仁(いしかにたけるこうじん)を討伐したと記して、4人の鬼が実在の人物で、古代天皇家が任命した島根県と鳥取県西部の古代豪族や反乱軍と考えられる。
島根県の隠岐島(おきのしま)の鬼である黄魃鬼(こうばつき)は、即位前(西暦152年以前)の孝霊(こうれい)天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)の軍勢と戦って敗北して、一族の残党(ざんとう)が伯耆国(ほうきのくに;鳥取県西部)に逃(に)げた。孝霊(こうれい)天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)は、鳥取県西伯郡(さいはくぐん)大山町妻木(昔の地名は「つまき」だが、今が「むき」と呼ぶ)の里(さと)にいた朝妻姫(あさづまひめ;樺井月姫(かばいつきひめ)を祖先化)と結婚して、一人息子の鶯王(うぐいすのみこ;倭五狭芹彦命(やまといさせりひこのみこと)を祖先化)を生んだ。
その頃は、手間(てま;鳥取県西伯郡(さいはくぐん)南部町(なんぶちょう)の天萬(てま)神社)と言う地域で、鬼が村々を荒(あ)らす報告を受けた孝霊(こうれい)天皇が、その鬼を黄魃鬼(こうばつき)と知って、手間(天萬(てま)神社)に討伐に向かって、この地に小さな館(やかた)を建(た)てた。
黄魃鬼(こうばつき)との激(はげ)しい戦闘は、決着できずにまた逃(に)げられて、その時に孝霊(こうれい)天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)の元に父親の孝安(こうあん)天皇(崇神(すじん)天皇を祖先化)死去の報告が届(とど)いて、父の遺言(ゆいごん)で次の天皇になるため、妻の朝妻姫(あさづまひめ)と一人息子の鶯王(うぐいすのみこ)と共に奈良県にある父天皇の皇居に帰国しようとした。
しかし妻の朝妻姫(あさづまひめ;樺井月姫(かばいつきひめ)を祖先化)は、年老(としお)いた母親を残(のこ)して、皇居に行けないと鶯王(うぐいすのみこ;倭五狭芹彦命(やまといさせりひこのみこと)を祖先化)と共に妻木(つまき)の里(さと)に残(のこ)って、その小さな館(やかた)が天萬(てま)神社になったと言って、樺井月姫(かばいつきひめ)が倭五狭芹彦命(やまといさせりひこのみこと)たち3つ子を生んで、翌月に産後の病状悪く亡くなったのを祖先化した物語に変換した。
垂仁(すいにん)天皇29年(西暦180年)に鬼の黄魃鬼(こうばつき)は、伯耆国(ほうきのくに;鳥取県西部)に隠(かく)れていたが、見つかって孝霊(こうれい)天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)に討伐の理由を与(あた)えて、黄魃鬼(こうばつき)たち鳥取県西部と兵庫県南部と岡山県と島根県東部の反乱軍が協力して、その過程で戦死したが、ネット検索でも詳細が検索しにくいため、ここまでで中断する。
孝霊(こうれい)天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)時代に鬼の大牛蟹(おおうしかに)は、鳥取県西伯郡(さいはくぐん)伯耆町(ほうきちょう)にある鬼住山(きずみやま)の根城(ねじろ)で、弟の乙牛蟹(おとうしかに)たちと共に周囲の人々を害して、伯耆国(ほうきのくに;鳥取県西部)に進軍した天皇が大牛蟹(おおうしかに)の話を聞いて、退治しようと軍を起こして、鬼住山(きずみやま)の鬼の館を見下ろせる鬼林山(きりんざん)の隣にある鳥取県西伯郡(さいはくぐん)伯耆町(ほうきちょう)の笹苞山(さすとさん)に布陣した。
笹苞山(さすとさん)の麓(ふもと)は、団子(だんご)3つを並(なら)べて、鬼を誘(さそ)い出して、乙牛蟹(おとうしかに)がやって来たため、物部(もののべ)氏の大矢口命(おおやぐちのみこと;野見宿禰(のみのすくね)を祖先化)が矢を放(はな)って、乙牛蟹(おとうしかに)を射殺した。
しかし大牛蟹(おおうしかに)は、手下と共に激(はげ)しく抵抗して、なかなか討(う)ち取れず、ある夜に天皇の夢枕(ゆめまくら)に、天津神(あまつかみ;古代天皇家の人物を神格化した神様)が現れて、『笹(ささ)の葉を刈(か)って、山のように積(つ)み上げると、神風が吹(ふ)いて、鬼が降(くだ)るだろう』と、信託(しんたく)が下(お)りた。
そこで天皇は、天津神(あまつかみ)の言う通りにすると、その3日後に激(はげ)しい南風が吹(ふ)いて、風が笹(ささ)の葉を巻(ま)き上げながら、鬼の住処(すみか)の方に飛(と)んで行って、天皇が全軍を挙(あ)げて、笹(ささ)の葉の行方(ゆくえ)を追(お)わせて、やがて大牛蟹(おおうしかに)の元に行き着いた笹(ささ)の葉が、鬼たちにまとわり付いて、身動きを封(ふう)じて、また笹(ささ)の葉が春風によって、よく乾(かわ)いたために火を点(つ)けると、あっと言う間に燃(も)え上がって、それを耐(た)えかねた鬼たちが一目散に逃(に)げ去(さ)った。
その後に麓(ふもと)へ逃(に)げた大牛蟹(おおうしかに)は、蟹(かに)のように這(は)いつくばって、『私は降参して、これから手下になって、北の守りを賜(たまわ)ろう』と言って、天皇が『全力を持って、北を守れ』と命令して許(ゆる)して、これに人々が喜(よろこ)んで、笹(ささ)を葺(ふ)いた社殿を建(た)てて、孝霊(こうれい)天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)を祀(まつ)ったと言う。
これは今の楽楽福神社(ささふく)神社で、孝霊(こうれい)天皇が鳥取県西伯郡(さいはくぐん)伯耆町(ほうきちょう)宮原(みやばら)の血に立てた笹葺(ささふ)きの仮宮(かりみや;仮(かり)の皇居)で、崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)したと伝えると言う。
鬼住山(きずみやま)の兄弟鬼2人の討伐は、総大将を孝霊(こうれい)天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)と鳥取県西部の鳥取県西伯郡(さいはくぐん)大山町妻木(昔の地名は「つまき」だが、今が「むき」と呼ぶ)の里(さと)にいた朝妻姫(あさづまひめ;樺井月姫(かばいつきひめ)を祖先化)との一人息子の鶯王(うぐいすのみこ;倭五狭芹彦命(やまといさせりひこのみこと)を祖先化)を任命して、兄弟鬼2人との戦いで、皇子が戦死して、その土地の人々が戦死した場所に楽楽福(ささふく)神社を創建して、皇子を楽楽大明神(ささふくだいみょうじん)に神格化した。
しかし楽楽福(ささふく)神社の祭神の楽楽大明神(ささふくだいみょうじん)は、同じ神社の祭神の孝霊(こうれい)天皇一家を指して、鶯王(うぐいすのみこ;倭五狭芹彦命(やまといさせりひこのみこと)を祖先化)を含(ふく)めないとも考えられて、その神社が鳥取県日野郡(ひのぐん)日南町(にちなんちょう)にあって、日野(ひの)大社とも呼ぶ。
『ホツマツタエ』の孝霊(こうれい)天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)53年(アスス暦480年)の西国(さいごく;兵庫県南部と岡山県と鳥取県と島根県)反乱は、大牛蟹(おおうしかに)の春風が吹(ふ)いた記述から、春に討伐したと考えられて、凡人(僕以外の人間)が春を西暦180年3月から5月頃と思うが、『日本書紀』の春が1月から3月(現在の2月から4月)だから、ズレると考えられる。
孝霊(こうれい)天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)の死去地は、作られた空想上の場所で、垂仁(すいにん)天皇が皇居の纏向珠城宮(まきむくたまきのみや)で死去して、奈良県桜井市の纏向石塚(まきむくいしづか)古墳が垂仁天皇陵(垂仁天皇古墳)で、僕の自論が間違いなく正しい。
孝霊(こうれい)天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)は、日野川(ひのがわ)を上(のぼ)った時に村人から、鳥取県日野郡(ひのぐん)日南町(にちなんちょう)にある鬼林山(きりんざん)の鬼の一団が出没して、ずいぶん困(こま)ると知らされて、牛鬼(ぎゅうき)の名前で恐(おそ)れられる邪鬼(じゃき)が体格も良くて、力も強くて身のこなしも素早(すば)いので、とても村人が退治できる相手でなかった。
孝霊(こうれい)天皇は、3つ子の男ばかりの次男である彦狭島命(ひこさしまのみこと;五十足彦命(いしたりひこのみこと)を祖先化)を総大将に任命して、軍勢を鬼林山(きりんざん)に登(のぼ)らせて、一斉攻撃を仕掛ける一方で、麓(ふもと)に待機(たいき)して、矢戸(やと;鳥取県日野郡(ひのぐん)日南町(にちなんちょう)矢戸(やと)から集めた矢竹(やだけ)を放(はな)つ方法を取って、さすがの鬼たちも皇子に攻撃されて、逃げ道を弓矢で塞(ふさ)がれて、戦う術(すべ)もなく降参して、牛鬼(ぎゅうき)が戦死してない。
鬼林山(きりんざん)の鬼の牛鬼(ぎゅうき)は、簡単に述(の)べられて、深い考察をする必要がなかった。
岡山県新見市(にいみし)石蟹(いしが)の伝承は、「石蟹(いしが)の強賊の石蟹魁師(いしかにたける)は、石窟(せっくつ;医師の洞窟(どうくつ)に居城(きょじょう)を構(かま)えて、石蟹(いしが)で横暴(おうぼう)を極(きわ)めて、吉備津彦命(きびつひこのみこと;祖別命(みおやわけのみこと)を祖先化)がこれを征服して殺して、この地を「伊波加爾(いはかに;石蟹(いしが)の別名)」と称せよと申された」と伝える。
『日野郡誌(ひのぐんし)』は、「孝霊(こうれい)天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)が鳥取県日野郡(ひのぐん)日南町(にちなんちょう)宮内(みやうち)に宮を作って、しばらくした頃、備中(びっちゅう;岡山県西部)の石蟹魁師荒仁(いしかにたけるこうじん)が兵を集めて、天皇を襲(おそ)おうとした。
天皇は、それを察知して、日南町(にちなんちょう)霞(かすみ)に關(関;せき)を作って、吉備津彦(きびつひこ;歯黒皇子(はぐろのみこ):祖別命(みおやわけのみこと)を祖先化)を備中(びっちゅう;岡山県西部)に向かわせて、荒仁(こうじん)が吉備津彦(きびつひこ)に恐(おそ)れをなして、大倉山(おおくらやま;鳥取県日野郡(ひのぐん)日南町(にちなんちょう)の山)の麓(ふもと)で、戦わずに降参した」と記す。
『日野郡誌(ひのぐんし)』別伝は、「孝霊(こうれい)天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)が石蟹魁師荒仁(いしかにたけるこうじん)を退治した時、鳥取県日野郡(ひのぐん)日南町(にちなんちょう)宮内(みやうち)に宮を構(かま)えた」と記す。
岡山県新見市(にいみし)石蟹(いしが)の伝承と『日野郡誌(ひのぐんし)』は、岡山県西部の豪族(首領)の石蟹魁荒神(いしかにたけるこうじん;別名は蟹魁師(かにたける)が鳥取県日野郡(ひのぐん)日南町(にちなんちょう)から岡山県新見市(にいみし)まで移動して、石蟹魁荒神(いしかにたけるこうじん)の漢字から、石蟹(いしかに)族の首領の人名が荒神(こうじん)と凡人(僕以外の人間)が訳して、出雲族とするが、古代中国の後漢(ごかん)王朝から漢字を持ち帰ったのが西暦191年で、西暦180年より後のため人名の解釈が間違いである。
石蟹魁荒神(いしかにたけるこうじん)は、古代天皇家が任命した鳥取県西部の古代豪族が反逆して、鳥取県日野郡(ひのぐん)日南町(にちなんちょう)から移動して、加勢に来た岡山県新見市(にいみし)で、戦死したと考えられて、出雲族の解釈が何の知識もない凡人(僕以外の人間)の勘違いで、超天才の僕が作った超知識の教本を完全に否定できなくて、誰も勝てない超人が確実に存在する。
西暦180年の西国(さいごく;兵庫県南部と岡山県と鳥取県西部と島根県東部)反乱は、5つの鬼退治伝承を含(ふく)めて、地政学的(地理学と政治学を合わせた物)に古代天皇家の邪馬台国(奈良県の大和国;やまとこく)と出雲王国(島根県の物部(もののべ)氏)を分断して、古代天皇家の広大な領土を奪(うば)う目的で、古代天皇家の国家存亡の大戦争と考えられる。
<参考文献>
参考文献『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『別冊歴史REAL 地形と地図で読み解く古代史』
株式会社洋泉社・発行
インターネットの不明サイトから少々拝借
https://www.youtube.com/watch?v=Kfo-nuuIfv4
https://www.youtube.com/watch?v=DBrcdoDN__U
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