京都府北部の元伊勢

普通の文字は黒字で、日本神話の神々と特徴などが赤字で、歴代天皇時代の全て対比した旧暦年と太陽暦の年代を緑字で記した。

伊勢神宮の内宮と外宮は、正式な発音が「ないくう」と「げくう」だが、僕が幼少からずっと「ないぐう」と「げぐう」と呼んで、地元の京都府福知山市大江町の内宮と外宮の呼び方がずっと「ないぐう」と「げぐう」と変わらない。

全国の元伊勢は、昔の元々の伊勢神宮を意味して、伊勢神宮より古い神社とされて、『倭姫命世記(やまとひめのみことせいき)』から候補地が100ヶ所くらいあるらしいが、本当の元伊勢が『ホツマツタエ』に基づくべきと僕が考える。
京都府北部の元伊勢は、複数の歴史書から第2の元伊勢で、有名な候補地が京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社と京都府福知山市大江町の元伊勢内宮(ないぐう)で、もう2つの候補地が京都府京丹後市丹後町の竹野(たかの)神社と京都府舞鶴市の笶原(やはら)神社である。
竹野(たかの)神社は、開化(かいか)天皇(日本武尊(やまとたけのみこと)を祖先化)の妃の竹野媛(たかのひめ;両道入姫(ふたじいりひめ)の宮簀姫(みやずひめ)のどちらかを祖先化)が晩年(ばんねん)に奈良県から帰郷(ききょう)して、西暦250年頃に海部(あまべ)氏が京都府宮津市の元伊勢の分霊(ぶんれい;本社の神霊を別の神社で、分(わ)けて祭ること)である竹野(たかの)神社を創建したと考えられる。
笶原(やはら)神社は、天平勝宝(てんぴょうしょうほう)元年(西暦749年)頃の創建で、それ以前の伝承がなくて、海部(あまべ)氏が創建したために元伊勢の古伝承につながって、僕が京都府北部の元伊勢の候補地4つ全て、正確な創建年代を特定したと考えられる。

京都府宮津市の元伊勢
奥宮(おくみや)は、日本の神道における神社の中の社殿に対する他の社殿の関係を現(あら)わす名称の一つか、その関係にある社殿そのものを指(さ)して、ある神社が幾つかの神殿を持つ場合に山の頂上や中腹にある社(やしろ)を指(さ)して、 山宮(やまみや)とも呼んで、これに対して山の麓(ふもと)の村里(むらざと)などにある社(やしろ)のことを里宮(さとみや)と呼んで、 元伊勢籠(この)神社の奥宮(おくみや)の元伊勢真名井(まない)神社が山宮(やまみや)に当たる。
奥宮(おくみや)と里宮(さとみや)が建(た)てられた背景は、山奥(やまおく)にある神社への交通が難(むずか)しくて、便宜上(べんぎじょう)で、後から里宮(さとみや)が造営(ぞうえい)された場合が多いが、奥宮(おくみや)の元伊勢真名井(まない)神社が例外で、元伊勢籠(この)神社の奥宮(おくみや)として、非常に近い位置にある。

『ホツマツタエ』崇神(すじん)天皇時代は、最初の元伊勢内宮(ないぐう)の笠縫邑(かさぬいむら;所在地不明)から、丹波国(たにはのくに;古代の京都府北中部)の与謝(よさ)郡に男性の古代太陽神の天照神(あまてるかみ)を遷宮した。
第2の元伊勢内宮(ないぐう)として豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)の神託(しんたく)は、天照神(あまてるかみ)の御神体である八咫鏡(やたのかがみ)の入った御霊笥(みたまげ;霊魂を入れた箱)を担(かつ)いで行って、天橋立(あまのはしだて)の長浜(ながはま)が笠縫(かさぬい)の入江(いりえ)より宮津(みやづ)に続いて、そこに生(は)える浜松(はままつ)に雲がたなびき美しかった。
崇神(すじん)天皇39年3月3日(西暦122年4月上旬頃)は、詔(みことのり;天皇の述べた言葉)して、ケクニ(後世の稲荷)の大臣の武御座(たけみくら)を斎主(いわいぬし)に、彦坐王(ひこいますのみこ)の子供の丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)を御饌(みけ;神に供(そな)える食事・飲食物のこと)の守(もり)に、天日置(あめのひおき)を神主に、振魂(ふりたま)を禰宜(ねぎ;宮司の下の神官)に任命して、豊受(とよけ;とようけ)と天照神(あまてるかみ)を祭らせた。

参考文献『元伊勢の秘宝と国宝海部(あまべ)氏系図』(編著者・海部光彦 発行・元伊勢籠神社社務所)は、崇神(すじん)天皇39年8月18日(9月中旬頃)に奥宮(おくみや)の真名井(まない)神社の瑞籬(みずがき;石の祭壇:さいだん)を作って、瑞籬(みずがき)が神社の神聖な場所の周囲に巡(めぐ)らした垣(かき)のことで、真名井(まない)神社の石の祭壇(さいだん)そのものか、神社全体の石垣(いしがき)ができたか不明である。

(歴史学会(歴史書解釈)の定説の崇神(すじん)天皇39年3月3日と8月18日(紀元前59年4月上旬頃と9月中旬頃)は、完全な間違いで、僕の自論の崇神(すじん)天皇39年3月3日と8月18日(西暦112年4月上旬頃と9月中旬頃)が正しい。)

『ホツマツタエ』の2つの記述は、第2の元伊勢内宮(ないぐう)が京都府宮津(みやづ)市の真名井(まない)神社で、場所が判明した最古の元伊勢内宮(ないぐう)で、伊勢神宮内宮(ないぐう)の最終遷宮よりも古くて、元伊勢(元々の伊勢神宮内宮;ないぐう)に間違いなくて、崇神(すじん)天皇39年(西暦122年)の遷宮から2022年で1900年目を迎(むか)えた計算になる。
第2の元伊勢内宮(ないぐう)は、元伊勢籠(この)神社の奥宮(おくみや)の真名井(まない)神社で、西暦156年の邪馬台国(大和国;やまとこく)時代以前の古い神社で、最古の呼び名が元伊勢真名井(まない)神社で、古代の呼び名が僕の予測だが、間違いないと考えられて、養老3年3月22日(西暦719年4月16日)に遷宮(せんぐう)して、元伊勢の名前を元伊勢籠(この)神社に改名(かいめい)した。
豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)は、初代の伊勢神宮の斎王(さいおう;太陽神に仕(つか)える未婚の皇女)で、西暦122年に48才頃で、丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)の年齢が52才以上と考えられる。
丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)は、御饌(みけ;神に供(そな)える食事・飲食物のこと)を奉(ささ)げたことへの神の恵(めぐ)みから、良い子供を5人も授(さず)かって、垂仁(すいにん)天皇の妃(きさき)の5人姉妹と考えられて、武御座(たけみくら)が記録にないらしく、天日置(あめのひおき)が大阪府枚方市の日置天(ひおきてん)神社に関係する可能性があって、振魂(ふりたま)が人名だが分からず、3人とも記録らしい記録が見当たらない。

『ホツマツタエ』の天橋立(あまのはしだて)は、1900年以上前から存在したと証明して、仲哀(ちゅうあい)天皇2年に宮津(みやづ)と名付けた可能性を2024年6月7日の夜に特定して、『ホツマツタエ』が6世紀末から7世紀前半頃にできて、宮津の地名の由来を連想させられて、『丹後国風土記逸文(たんごのくにふどきいつぶん)』も天橋立(あまのはしだて)を記して、西暦730年頃に記したと考えられる。
宮津(みやづ)の地名は、崇神(すじん)天皇11年(西暦94年)に京都府宮津市に都(みやこ)を置いたこと、崇神(すじん)天皇39年(西暦122年)に元伊勢真名井(まない)神社を遷宮したこと、仲哀(ちゅうあい)天皇2年9月(西暦253年10月頃)に京都府宮津(みやづ)市に皇居の丹波由良宮(たにはゆらのみや;別名が宮津由良宮(みやづゆらのみや)を築造して、仲哀(ちゅうあい)天皇が居住し始めて、僕が命名したために皇居に決まった名前がなくて、3つの僕の自論が考えられる。

崇神(すじん)天皇11年4月13日(西暦94年5月中旬頃)に彦坐王(ひこいますのみこ)は、丹波(たんば)王国平定の総大将で、実弟の崇神(すじん)天皇に丹波(たんば)王国の平定を報告して、従軍した息子(甥;おい)の丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)の人名から、丹波国(たにはのくに;古代の京都府北中部)と命名して、日本最古の書物『ホツマツタエ』の国名がタニハ(丹波)で、僕が「田庭(たにわ)」の国名を否定した。
元伊勢外宮の祭神の豊受大神(とようけおおかみ)は、「あなにえし、おも植えみし、田庭(たにわ;立派に実(みの)った田んぼの庭だ)」と言って、田庭(たにわ)の漢字を当てはめて、田場(たんば)に変わって、さらに丹波(たんば)に変わった説が嘘(うそ)と考えられる。
古代から京都府北中部は、肥沃(ひよく)な土地で、山野(さんや)の農産物を多く出荷(しゅっか)して、特産物が多くあって、豊富な資源として重視して、西暦720年に献上した『日本書紀』に丹波栗(たんばぐり)を思わせる記述があって、丹波(たんば)・篠山(ささやま)地方で取れた栗を指して、特定の品種が存在しないようで、現在でもブランド品だが、近年に生産量が少しずつ減少した。
丹波(たんば)マツタケは、マツタケの最上級品とされて、マツタケの全国ブランドで重宝(ちょうほう)して、丹波(たんば)黒豆もブランド品で、江戸時代に徳川将軍へ献上した話を記して、昭和に入って丹波黒大豆(たんばくろだいず)が正式名になって、他にも米など多くのブランド品がある。

海部(あまべ)氏の祖先神の2代目・火明命(ほあかりのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、正式名称が天照御魂神(あまてるみたまのかみ)や天照国照彦火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこほあかりのみこと)なで、男性の古代太陽神の天照神(あまてるかみ)が火明命(ほあかりのみこと)と合体した神名である。
丹波国造(たんばくにみやつこ;丹波(たんば)の国主)の彦坐王(ひこいますのみこ)は、息子を丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)で、孫が朝廷別王(みかどわけのみこ)で、子孫が元伊勢籠(この)神社宮司家の海部(あまべ)氏に代々続いて、直系系図の系図が途中で、途切(とぎ)れると考えられて、男性の古代太陽神の天照神(あまてるかみ)を祭った最古の宮司の彦坐王(ひこいますのみこ)を一番最初の先祖として、直系子孫が現在も元伊勢籠(この)神社宮司家として、太陽神を祭り続ける。
古代太陽神の2代目・天火明命(あめのほあかりのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、息子を天香語山命(あめのかごやまのみこと;丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)を神格化)で、孫の天村雲命(あめのむらくものみこと;朝廷別王(みかどわけのみこ)を神格化)を先祖として、海部(あまべ)氏に系図が繋(つな)がって、日本最古の系図の国宝『海部(あまべ)氏系図』を家宝とする。
元伊勢籠(この)神社にある日本最古の伝世鏡(でんせいきょう;埋蔵されずに神社や寺に伝わる鏡)は、部(あまべ)氏の祖先神である2代目・火明命(ほあかりのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の神鏡2枚で、保存状態の良い海部氏が家宝とする銅鏡だが、国宝にも重文(重要文化財)にも指定してないが、遣漢使(けんかんし;後漢王朝遣使)の重要な宝物で、邊津鏡(へつかがみ)が前漢(ぜんかん)王朝時代(約2050年前)の内行花文昭明鏡で、息津鏡(おきつかがみ)が後漢(ごかん)王朝時代(約1950年前)の内行花文長宜子孫八葉鏡である。
邊津鏡(へつかがみ)と息津鏡(おきつかがみ)は、物部(もののべ)氏の祖先神の饒速日命(にぎはやひのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)が持つ辺都鏡(へつかがみ)と瀛都鏡(おきつかがみ)とも同一鏡で、出石(いずし)神社の祭神の天日槍(あめのひぼこ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)が持つ『古事記』の辺津鏡(へつかがみ)と奥津鏡(おきつかがみ)とも同一鏡で、多くの特徴が元伊勢籠(この)神社を元伊勢(元々の伊勢神宮内宮;ないぐう)と証明した。

天照大神(あまてらすおおみかみ)の孫は、初代・火明命(ほあかりのみこと;誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)を神格化)で、曾孫が2代目・火明命(ほあかりのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)で、太陽神の宮司の彦坐王(ひこいますのみこ)を先祖で、子孫が誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)で、血筋がつながって混乱を生んだ。
古代太陽神の2代目・火明命(ほあかりのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、直系子孫の父方の天照大神(あまてらすおおみかみ;卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)と母方の天照大神(あまてらすおおみかみ;台与(とよ)の神功(じんぐう)皇后を神格化)の祖先神である。
2代目・火明命(ほあかりのみこと)は、別名を天照国照彦火明天櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこほあかりあめのくしたまにぎはやひのみこと)で、出雲王家(物部(もののべ)氏)の祖先神の饒速日命(にぎはやひのみこと)とも同一神で、日本神話の神々が多くの実在した人物の神格化などで、混乱するのが当然だった。
宮津の元伊勢は、古代太陽神の天照神(あまてるかみ)と豊受大神(とようけおおかみ)を共(とも)に祭って、京都府北部に縁(ゆかり)の大切な神様として、ずっと元伊勢籠(この)神社で祭り続けて、伊勢神宮外宮(げぐう)に豊受大神(とようけおおかみ)を祭った年月日が垂仁(すいにん)天皇26年9月17日(西暦177年10月中旬頃)である。
『ホツマツタエ』の男神(おがみ)の豊受大神(とようけおおかみ)は、京都府宮津(みやづ)市の元伊勢真名井(まない)神社で初めて登場して、後世に女神へ性別変更して、彦坐王(ひこいますのみこ)と息子の丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)や山代大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)や狭穂彦王(さほひこのみこ)や孫の垂仁(すいにん)天皇などを神格化して、天照神(あまてるかみ;倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)の祖父の位置付けである。
彦坐王(ひこいますのみこ)の息子の山代大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)は、倭姫命(やまとひめのみこと)の祖父で、彦坐王(ひこいますのみこ)と山代大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)を豊受大神(とようけおおかみ)に神格化した。豊受姫神(とようけひめのかみ)は、元伊勢籠(この)神社や元伊勢外宮(げぐう)などの京都府北部に祭って、邪馬台国(大和国;やまとこく)論争の台与(とよ)に比定するが、台与(とよ)の神功(じんぐう)皇后を神格化しないで、神功(じんぐう)皇后よりも前の時代の神様である。


西暦122年の元伊勢真名井(まない)神社は、石の祭壇(さいだん)を祭ったが、養老(ようろう)3年3月22日(西暦719年4月16日)に現在の地に元伊勢籠(この)神社を遷宮して、本殿(ほんでん)が神明造(しんめいづくり)を初めて採用して、本殿(ほんでん)の神明造(しんめいづくり)が考古学的に確認できなくて、藤原不比等(ふじわらのふひと)が元伊勢籠(この)神社と同時期に出雲大社も創建(そうけん;神社を初(はじ)めて建(た)てること)して、海部(あまべ)氏と出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏の勢力を削(そ)いだと考えられる。
藤原不比等(ふじわらのふひと)は、「記紀(『古事記』と『日本書紀』)」の総合監督で、彦坐王(ひこいますのみこ)の子孫の海部(あまべ)氏と出雲王家(物部(もののべ)氏)を隠(かく)して、物部(もののべ)氏の子孫の千家(せんげ)氏と竹内(たけうち)氏も隠(かく)して、藤原氏が物部(もののべ)氏と同族も隠(かく)して、徹底的な偽装工作をほどこしたが、頂点浅井の僕を騙(だま)せなくて、完全な史実・真実・事実を特定した。

京都府宮津市の元伊勢は、彦坐王(ひこいますのみこ)の直系子孫の海部(あまべ)氏が祭って、1900年以上の歴史を持つ古社で、後世の歴史の教本になる。

元伊勢内宮(ないぐう)
京都府福知山市大江町の元伊勢内宮(ないぐう)は、女性の太陽神の天照大神(あまてらすおおみかみ)を本殿に祭って、祠(ほこら)に蛇体の古代太陽神の八岐大蛇(やまたのおろち)も祭って、その真実に気付いたのが僕だけで、西暦261年以降に祭った可能性を2023年12月15日の午後5時頃に求めた。
元伊勢内宮(ないぐう)の創建時期は、僕が歴史研究を幾らしても、絶対に求められないと思ったが、特定して2023年12月15日の夕食の席で、両親に話しても大した反応でないけれど、あまりにも凄(すご)い功績で、世界中の人々に誇る奇跡である。福知山観光協会大江支部の元伊勢三社紹介のホームページは、創建時期が3世紀から4世紀で、学問的に3世紀末頃とされて、比較的近い年代で合致した。

本当の京都府北部の元伊勢は、京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社で、元伊勢内宮(ないぐう)の御神体山の日室岳(ひむろだけ;別名を一願(いちがん)さん)が奈良県桜井市の御神体山の三輪山(みわやま)と同様の古代信仰と考えられる。日室岳(ひむろだけ)は、両丹日日新聞2003年2月7日号に禁足地(立ち入り禁止の聖域)の山頂に岩座(いわくら;神のよりしろ)と思われる巨岩があって、1500年以上前の人工的な古代信仰の証拠と考えられるが、多くの人が踏み入るらしい話を聞いた。

レイライン(LeyLine;太陽の道)は、1921年にイギリスのアマチュア考古学者アルフレッド・ワトキンスが提唱して、古代遺跡が直線的に並(なら)ぶように建造された仮説で、その遺跡群が指す直線を言うが、「太陽の道」がレイラインを扱ううちに太陽信仰の直線が存在すると言われるようになった。
富士山の山頂と出雲大社を結ぶレイライン(太陽の道)は、線上に元伊勢内宮(ないぐう)があって、富士山の山頂を古代天皇家が測量したのが西暦255年以降で、高度な測量と天文学の知識を駆使して、西暦261年以降に創建したと考えられる。
元伊勢内宮(ないぐう)の本殿から少し離れた礼拝所は、夏至(げし)の日に日室岳(ひむろだけ)の山頂に太陽が沈むのがレイライン上のためで、京都府北部でもう一つの元伊勢として祭って、忘れ去られたと考えられる。

初代出雲国王の彦坐王(ひこいますのみこ)は、出雲王国(物部(もののべ)氏)を建国して、子孫の物部(もののべ)氏(出雲王国)が崩壊したのが仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月17日(西暦260年11月頃)の日本武(やまとたけ)天皇の殺害日で、すぐに戦死者を祭らなくて、出雲大社の創建時期が3世紀末から4世紀前半で、4世紀後半か5世紀の可能性もある。
京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社宮司家の海部(あまべ)氏は、彦坐王(ひこいますのみこ)の息子である丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)の子孫で、丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)の異母弟で、物部(もののべ)氏の狭穂彦王(さほひこのみこ)の子孫が出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏につながって、両方とも1900年以上続く氏族である。
富士山の山頂と出雲大社を結ぶレイライン(太陽の道)は、出雲大社の創建時期を特定できなくて、元伊勢内宮(ないぐう)の創建時期が出雲大社の創建時期より古い可能性もあって、3世紀後半以上を遡(さかのぼ)れない。

天照玉命(あまてるたまのみこと)神社の社伝は、成務(せいむ)天皇時代に天照神(あまてるかみ)を京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社宮司家である海部(あまべ)氏出身の大倉岐命(おおくらきのみこと)が福知山市今安(いまやす)に祭って、正しく求めると仲哀(ちゅうあい)天皇か神功(じんぐう)皇后の時代に祭って、西暦260年代から290年代頃と考えられる。
大倉岐命(おおくらきのみこと)は、叔母(おば)の宮簀姫(みやずひめ)が日本武尊(やまとたけのみこと)の妃で、2人の息子を生んで、弟の尾綱根命(おづなねのみこと)が尾張(おわり)氏の氏祖(しそ)で、尾張(おわり)氏の始まりが仲哀(ちゅうあい)天皇5年(西暦256年)で、天照玉命(あまてるたまのみこと)神社の社伝が正しい可能性が高い。
富士山の山頂は、中部地方から東北地方南部を平定した西暦254年以降に測量して、天照玉命(あまてるたまのみこと)神社と元伊勢内宮(ないぐう)が3世紀中頃に大倉岐命(おおくらきのみこと)が祭ったのが最も古い可能性だが、出雲大社を創建した3世紀末から4世紀前半の予測時期よりも、後世の可能性もある。福知山市で3本指の古い神社は、元伊勢内宮(ないぐう)と天照玉命(あまてるたまのみこと)神社と福知山市大江町蓼原(たではら)の舟戸(ふなと)神社と考えられる。

(元伊勢内宮は、超天才の僕にしか創建年代を特定できなくて、創建時期が3世紀後半から4世紀前半頃と考えられるが、それ以降の可能性もあって、完全な年代を断言できない。)

『ホツマツタエ』6章の日本神話は、その洞の上に朝日の宮(元伊勢外宮(げぐう)を建立(こんりゅう)して、アマテルカミは懇(ねんご)ろに、トヨケ(豊受;とようけ)の御魂(みたま)を祭ったと記す。その洞窟の上に朝日の宮(元伊勢外宮(げぐう)を創建して、天照神(あまてるかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)が丁重(ていちょう)に豊受大神(とようけおおかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)と山代大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)を神格化)の魂を祭ったと訳す。
天照神(あまてるかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)は、天照神(あまてるかみ;倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)の祖父の豊受大神(とようけおおかみ;山代大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)を神格化)と曾祖父の豊受大神(とようけおおかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)を元伊勢外宮(げぐう)に祭ったと解釈する。
彦坐王(ひこいますのみこ)の息子の山代大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)は、倭姫命(やまとひめのみこと)の祖父で、伊勢神宮外宮(げぐう)の豊受大神(とようけおおかみ)が男神(おがみ)だったが、現在が女神に性別変更した。
出雲大社は、出雲王国(物部(もののべ)氏)が崩壊した西暦260年神無月以降にできて、富士山の山頂と出雲大社を結ぶレイライン(太陽の道)を測量した後で、元伊勢内宮(ないぐう)ができて、摂政(せっしょう)元年(261年)以降の3世紀後半に大倉岐命(おおくらきのみこと)が祭った可能性が高い。


伊勢神宮の内宮(ないぐう)と外宮(げぐう)は、同時に成立してなくて、『ホツマツタエ』の京都府宮津市の元伊勢に外宮(げぐう)がなくて、初めての外宮(げぐう)の登場が垂仁(すいにん)天皇26年9月17日(177年10月中旬頃)の伊勢神宮外宮(げぐう)の最終遷宮で、京都府福知山市大江町の元伊勢外宮の登場が後世の3世紀後半以降である。

他の京都府北部の元伊勢に関する説明文
僕が他にWORDファイルでまとめた『日本神話や中韓との断交理由』の景行(けいこう)天皇の段落は、『京都府北部の元伊勢』の部分に詳細な自己分析を記して、関連性を自分で研究・分析してほしい。

元伊勢内宮(ないぐう)は、3世紀後半まで遡(さかのぼ)る可能性があって、京都府福知山市の太陽信仰が天照玉命(あまてるたまのみこと)神社と共にかなり古いと証明した。

<参考文献>
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『元伊勢の秘宝と国宝海部氏系図』
海部光彦・編著者 元伊勢籠神社社務所・発行
『古代海部氏の系図<新版>』
金久与市・著者 株式会社学生社・発行
両丹日日新聞の2003年2月7日号
インターネットの不明サイトから少々拝借

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