彦坐王(ひこいますのみこ)と太陽信仰の神社

この史料は、2024年7月30日の午後7時半頃に修正し終えた『太陽信仰と神社』の章を基本にして、2022年11月26日に書き終えた『彦坐王(ひこいますのみこ)と太陽信仰』の章と、もう一つの記録を消(け)して、名前が分からない3つの章を統合して、3つの章の記述を原文そのままで、できるだけ加工せずに書き纏(まと)めて、複数の古代太陽神に神格化した彦坐王(ひこいますのみこ)と日本各地の太陽信仰の神社などを考察して、2026年2月頃に最終的な関連性を纏(まと)め上げた。

レイライン(LeyLine;太陽の道)は、1921年にイギリスのアマチュア考古学者アルフレッド・ワトキンスが提唱して、古代遺跡が直線的に並(なら)ぶように建造された仮説で、その遺跡群が指す直線を指すが、「太陽の道」がレイラインを扱(あつか)う中で、太陽信仰の直線が存在すると言うになって、世界中でレイライン(太陽の道)を指摘して、日本のレイライン(太陽の道)が富士山や出雲大社や伊勢神宮や三輪山(みわやま)など多く存在する。
日本のレイライン(太陽の道)は、北緯35度22分の富士山から出雲大社を地図上で、日本列島をまっすぐ直線に結(むす)んだ春分と秋分の日の「御来光(ごらいこう)の道」が有名で、他にも三重県の伊勢神宮のレイライン(太陽の道)や伊雑宮(いざわのみや)のレイライン(太陽の道)、奈良県桜井市の三輪山(みわやま)のレイライン(太陽の道)、京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社のレイライン(太陽の道)など、他にも愛知県や岐阜県など日本各地にレイライン(太陽の道)があって、彦坐王(ひこいますのみこ)を最初の先祖とする古代太陽神氏族の和珥(わに)氏が統治する地域も多い。

赤い日の丸と太陽神を連想させたのは、赤色を古代天皇家が使ったと考えられる古い考古学的証拠を僕の分析・研究で、2例の証拠を挙(あ)げて、その理論的な考え方を少しだけ記す。
垂仁(すいにん)天皇29年(西暦180年)に3つ子で長男の祖別命(みおやわけのみこと)は、吉備(きび;古代の岡山県)国王と考えられる温羅(うら)を殺して、吉備(きび)王国が滅亡して、温羅(うら)の墓(はか)が2世紀後半頃の築造と考えられる岡山県倉敷市の楯築墳丘墓(たてつきふんきゅうぼ)で、徳島県阿南(あなん)市の若杉山辰砂(しんしゃ)採掘遺跡(弥生時代後期から古墳時代初頭)で入手した赤色の塗料の水銀朱を埋葬施設に使ったと考えられる。
景行(けいこう)天皇40年代から50年代頃(西暦230年から240年代頃)の前方後円墳のホケノ山古墳は、埋葬施設の赤い塗料の水銀朱が徳島県阿南(あなん)市の若杉山辰砂(しんしゃ)採掘遺跡の物と考えられて、赤色の水銀朱が国旗の赤い日の丸と太陽神を連想させて、西暦252年か253年に葬礼した景行(けいこう)天皇陵(景行(けいこう)天皇古墳)の箸墓(はしはか)古墳よりも前に築造して、皇族が古墳埋葬者と考えられるが、史料が存在しなくて、絶対に当てはまる人物を特定できない。
2世紀後半の楯築墳丘墓(たてつきふんきゅうぼ)は、埋葬施設の赤色の水銀朱が古代天皇家と関係すると考えられて、纏向(まきむく)石塚古墳とホケノ山古墳と箸墓(はしはか)古墳が大和(おおやまと)古墳群に属して、ホケノ山古墳が垂仁(すいにん)天皇陵の纏向(まきむく)石塚古墳と景行(けいこう)天皇陵の箸墓(はしはか)古墳の間に挟(はさ)まる期間で築造して、赤い日の丸と太陽神を連想させる日本最古の考古学的証拠と考えられる。

日本の太陽信仰は、女性の太陽神を天照大神(あまてらすおおみかみ)とするが、古代に天照大神(あまてらすおおみかみ)が男性や蛇体とされて、男性の古代太陽神の天照神(あまてるかみ)や蛇体の大物主神(おおものぬしのかみ)などを思い浮かべて、古代の男性や蛇体の太陽神を僕の歴史研究の自論で、色々な古代太陽神の正体を特定して、日本神話の神様を100%完全に証明した人類史上最高の超天才の僕を誰も否定できない。
ネット検索で日本の太陽神は、天照大神(あまてらすおおみかみ)の他に2代目・火明命(ほあかりのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)や稚日霊尊(わかひるめのみこと;大中姫(おおなかひめ)を神格化)や天穂日命(あめのほひのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)などが登場して、太陽神の初代の宮司(神主)と考えられる彦坐王(ひこいますのみこ)の子孫が大中姫(おおなかひめ)と日本武尊(やまとたけのみこと)である。
稚日霊尊(わかひるめのみこと;大中姫(おおなかひめ)を神格化)や天穂日命(あめのほひのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)は、彦坐王(ひこいますのみこ)の子孫の出雲王国(物部(もののべ)氏)と深く関係するが、太陽神の要素が100%存在しなくて、僕の証明した考え方が間違いと完全に否定できない。

男性の古代太陽神の天照神(あまてるかみ)と女性の太陽神の天照大神(あまてらすおおみかみ)は、神名に冠する「天照(あまてる;あまてらす)」の称号が最高神で、太陽神の由緒(ゆいしょ)正しい偉大な呼び名で、彦坐王(ひこいますのみこ)と子孫の卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)と台与(とよ)の神功(じんぐう)皇后の3人を神格化した。
男性の古代太陽神の天照神(あまてるかみ)は、女性の太陽神の天照大神(あまてらすおおみかみ)に変化して、天照神(あまてるかみ)が彦坐王(ひこいますのみこ)と直系子孫の倭姫命(やまとひめのみこと)と神功(じんぐう)皇后の3人を神格化したのが間違いない。
天照大神(あまてらすおおみかみ)は、卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)と台与(とよ)の神功(じんぐう)皇后を神格化して、直系先祖の彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化していない。
しかし詳細な説明は、ややこしくて省略して、世の中には日本神話の神々の領域…神域を特定した僕のような超天才がいて、僕の歴史研究の自論を覆(くつがえ)せる人間が一人もいなくて、現代人(僕以外の人間)が僕の超理論や超知識を学習して、後世の人間に伝えてほしいと思う。
男性の古代太陽神の天照神(あまてるかみ)は、正式名称が天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)で、京都府宮津市の元伊勢籠(かの)神社宮司家の海部(あまべ)氏が祖先神を2代目・火明命(ほあかりのみこと)で、出雲王国(物部(もののべ)氏)の祖先神が饒速日命(にぎはやひのみこと)で、海部(あまべ)氏と物部(もののべ)氏が始祖(しそ;始まりの先祖)を彦坐王(ひこいますのみこ)と特定して、100%正しい考え方である。

西暦81年後半に古代天皇家は、どこかから大阪府に侵攻して来て、奈良県まで侵入して制圧して、男性の古代太陽神で、物部(もののべ)氏の祖先神の饒速日尊(にぎはやひのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)が河内国(かわちのくに;大阪府東部)に天孫降臨して、西暦81年後半から崇神(すじん)東征6年2月19日(西暦81年3月頃)までに河内国(かわちのくに)平定を終了して、饒速日尊(にぎはやひのみこと)が男性の古代太陽神で、物部(もののべ)氏の一番最初の祖先神を100%超天才の僕が証明した。
崇神(すじん)天皇元年1月13日(西暦84年2月中旬頃)に崇神(すじん)天皇は、奈良県磯城(しき)郡(奈良県の桜井市全域と橿原市や天理市や宇陀市の一部)で即位して、正しい日本国の建国(天皇家誕生の建国記念日)で、崇神(すじん)天皇の実兄の彦坐王(ひこいますのみこ)が最古の太陽神の宮司(神主)で、彦坐王(ひこいますのみこ)の直系子孫の全(すべ)てを、古代太陽神氏族の和珥(わに)氏(出雲王家(物部(もののべ)氏)と海部(あまべ)氏など)に統合して、僕本人が再定義した。
神武(じんむ)天皇(仁徳(にんとく)天皇を祖先化)は、宮崎県から奈良県に東征して、奈良県にいた饒速日命(にぎはやひのみこと;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)が統治権を譲渡して、仁徳(にんとく)天皇の奈良県入りを98才の忠臣で、物部(もののべ)氏出身の初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)が迎えて、仁徳(にんとく)天皇の即位で、皇位継承権争いを決着して、饒速日命(にぎはやひのみこと)が物部(もののべ)氏の始祖(しそ)の彦坐王(ひこいますのみこ)と息子の狭穂彦王(さほひこのみこ)と直系子孫の初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)の3人を神格化した。

崇神(すじん)天皇6年9月16日(西暦89年10月中旬頃)の夜は、山辺里(やまのべのさと;奈良県天理市の大和(おおやまと)神社)に男性の古代太陽神の倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)を遷宮して、翌日9月17日の夜に日本最古の元伊勢内宮の笠縫邑(かさぬいむら;所在地不明)に男性の古代太陽神の天照神(あまてるかみ)を遷宮して、これが日本最古の神社の創建である。
大和(おおやまと)神社は、太陽信仰やレイライン(太陽の道)と無関係と思わせる偽装工作をしたが、レイライン(太陽の道)上の大神(おおみわ)神社と大和(おおやまと)神社と石上(いそのかみ)神宮が南北に3社が並んで、大和(おおやまと)神社の祭神の倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)が日本全土の土地神で、日本最大の太陽神と考えられて、上記の3神社が出雲王国(物部(もののべ)氏系)の祭神で共通して、超天才の僕が実在した初代天皇の崇神(すじん)天皇の実兄である彦坐王(ひこいますのみこ)を物部(もののべ)氏の最古の先祖と特定した。
日本最古の神社の大和(おおやまと)神社と笠縫邑(かさぬいむら)は、共に男性の古代太陽神を祭って、大和(おおやまと)神社が太陽信仰と深く関係して、僕が祭神の倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)が女性の太陽神の天照大神(あまてらすおおみかみ)と同一神と証明して、疫病の鎮魂(みたましずめ;鎮魂(ちんこん)は、死んだ人の霊魂を安定させる意味でなく、活力を与(あた)えたり、蘇(よみがえ)るなどの好転的な意味もある)のために神社を創建したと伝える。
男性の古代太陽神の倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)は、彦坐王(ひこいますのみこ)が太陽神の初代の宮司(神主)と考えられて、彦坐王(ひこいますのみこ)を複数の男性の古代太陽神に神格化して、僕の作った多くの教本が理論的な証明をして、絶対に間違いない考え方で、後世の重要な教科書である。

奈良県桜井市の三輪山(みわやま)の祭祀(さいし)は、崇神(すじん)天皇7年10月1日(西暦90年11月上旬頃)に神様の依代(よりしろ;神霊が宿(やど)る聖地で、御神体や神域などを指す)を山頂の磐座(いわくら;神道で神様が降臨する岩のこと)で、男性の古代太陽神の初代・大物主神(おおものぬしのかみ)を祭ったが、元々が独立した日本神話の神様で、後世に初代の太陽神の宮司(かんぬし)と考えられる初代・大物主神(おおものぬしのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)と統合したと考えられる。
最初に三輪山(みわやま)に祭った男性の古代太陽神の初代・大物主神(おおものぬしのかみ)は、後世に初代・大物主神(おおものぬしのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)と統合して、さらに後に7人の大物主神(おおものぬしのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)の子孫で、7人の出雲国王を神格化)を一人の神様にまとめて、今の大物主神(おおものぬしのかみ)になったと考えられて、2014年1月に僕が大物主神(おおものぬしのかみ)の正体を特定して、特定まで約12年かかって、特定した時期が確実にずれるが、少しずつ史実・真実・事実を特定して、さすがの僕も手こずった。
最古の物部(もののべ)氏の先祖である初代出雲国王の彦坐王(ひこいますのみこ)は、子孫の6人の出雲国王を合計した7人を神格化して、7人が正しいのを一人の大物主神(おおものぬしのかみ)にまとめて、大きい物部(もののべ)氏の主(あるじ)を意味する神名で、古代天皇家と出雲(島根県東部の物部(もののべ)氏)が表裏(ひょうり)一体の歴史を作り上げたが、「記紀」の総合監督の藤原不比等(ふじわらのふひと)が正しい歴史を隠(かく)して、超天才の僕が一大理論として再現した。

初代・大物主神(おおものぬしのかみ)と倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)は、彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化した男性の古代太陽神で、彦坐王(ひこいますのみこ)が河内(かわち;大阪府東部)と大和と丹波(たんば;古代の京都府北中部)と出雲を平定して、大きな国の魂や大物の主と呼んだと考えられて、倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)の神名に2022年11月2日に気付いた。
倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)は、日本全土の土地神だが、元々が大和の土地神で、後世に日本(やまと)の土地神になったと考えられる。初代・大物主神(おおものぬしのかみ)は、出雲大社の大国主神(おおくにぬしのかみ)と関係して、彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化したから当然である。彦坐王(ひこいますのみこ)の侵攻は、正当化して聖戦のように語るが、圧倒的な流血の現実で、事実を忘れて物事を考えて、過去の歴史にすり替えることが許されない。

奈良県の太陽信仰は、天照神(あまてるかみ)と三輪山(みわやま)の大物主神(おおものぬしのかみ)と日本最古の神社の大和(おおやまと)神社に祭る倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)、大和三山(やまとさんざん)など非常に多くて、かなり歴史が古い。
三輪山(みわやま)は、人口造山(ピラミッド)の説があって、大和三山(やまとさんざん)の天香具山(あまのかぐやま)と畝傍山(うねびやま)と耳成山(みみなしやま)が自然の物だが、人為的に計算して作られた可能性もあって、三輪山(みわやま)と大和三山(やまとさんざん)と忌部山(いんべやま)が太陽信仰と深い関係があって、天香具山(あまのかぐやま)が大和三山(やまとさんざん)の中で最も神聖視された山で、畝傍山(うねびやま)と耳成山(みみなしやま)が死火山で、自然界の山である。
三輪山(みわやま)と畝傍山(うねびやま)を結ぶ直線は、正確な冬至線で、またその直線が大和三山(やまとさんざん)の作る二等辺三角形の中線となって、さらに直線を南西に伸(の)ばすと、忌部山(うねびやま)を頂点とするもう一つの二等辺三角形ができて、三輪山(みわやま)と耳成山(みみなしやま)を結ぶ直線が正確な夏至線となる。
大和三山(やまとさんざん)と忌部山(うねびやま)の二等辺三角形は、天香具山(あまのかぐやま)と耳成山(みみなしやま)を底辺として、その底辺から三輪山(みわやま)を結ぶと、さらに二等辺三角形ができて、その関係を踏(ふ)まえて、三輪山(みわやま)と大和三山(やまとさんざん)と忌部山(うねびやま)の位置関係を示すと、ピュタゴラスの定理に当てはまって、そのことから三輪山(みわやま)と大和三山(やまとさんざん)と忌部山(うねびやま)が自然にできた山か、人為的な人口造山(ピラミッド)か不明で、日本各地に自然の山を加工した人口造山(ピラミッド)が存在する真実・事実もある。

古代の丹波(たんば;古代の京都府北中部)の太陽信仰は、古代から現在まで、太陽神を祭る京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社宮司家の海部(あまべ)氏が崇神(すじん)天皇11年4月13日(西暦94年5月中旬頃)に誕生してから、京都府で太陽信仰を守り続けた古代豪族の子孫で、長年の歴史を考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)で、完全に理論的な証明をして、京都府北部の太陽信仰の聖地である。
崇神天皇11年4月13日(西暦94年5月中旬頃)に丹波(たには;京都府北中部)王国の滅亡を彦坐王が崇神天皇に報告して、崇神天皇39年3月3日(西暦122年4月上旬頃)に笠縫邑から第2の元伊勢の京都府宮津市に遷宮して、豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に祭らせて、元伊勢籠(この)神社の奥宮の真名井(まない)神社に当たる。

富士山と出雲大社を結(むす)ぶレイライン(太陽の道)上は、京都府福知山市大江町の元伊勢内宮があって、古代天皇家が富士山の存在を知って、測量したのが東日本を平定した西暦254年以降で、それ以降に元伊勢内宮を創建して、元伊勢内宮の礼拝所から拝(おが)む御神体山の日室嶽(ひむろだけ)に夏至(げし)の日に山頂から、太陽が沈(しず)んで、計算してレイライン(太陽の道)を求めたのが間違いない。
出雲王国(物部(もののべ)氏)の建国は、1世紀末の西暦95年で、出雲大社が2世紀中頃から末頃の垂仁(すいにん)天皇時代に創建した伝承があるが、4世紀初頭から前半の西暦329年までに創建したと考えられて、富士山と出雲大社を結ぶレイライン(太陽の道)上に元伊勢内宮を計算して創建して、元伊勢内宮を創建した後に偶然レイライン(太陽の道)と重(かさ)なったのが低い確率で、古代天皇家が高度な地政学と天文学の知識を使用したと証明された。

丹波(たには;古代の京都府北中部)平定の総大将の彦坐王(ひこいますのみこ)は、崇神(すじん)天皇11年4月13日(西暦94年5月中旬頃)に丹波(たんば;古代の京都府北中部)平定の報告を息子の丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)に一任して、彦坐王(ひこいますのみこ)の息子の丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)が丹波(たんば;現在の京都府北部)で太陽神を祭って、その直系子孫が京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社宮司家の海部(あまべ)氏で、古代太陽神の2代目・火明命(ほのあかりのみこと)を祭る。
元伊勢籠(この)神社と福知山市大江町の元伊勢内宮と外宮は、京都府北部の太陽信仰の中心で、海部(あまべ)氏の関係が明白で、天照国輝彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)が天照神(あまてるかみ)と2代目・火明命(ほのあかりのみこと)と饒速日命(にぎはやひのみこと)の3神を統合した神名で、物部(もののべ)氏と海部(あまべ)氏が同一氏族の理由である。
古代太陽神でない5代目・高皇産霊尊(たかみむすびのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、『ホツマツタエ』で出雲と宮津にいて、初代・大国主神(おおくにぬしのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)と2代目・火明命(ほのあかりのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)が合致して、出雲(いずも;島根県東部)と丹波(たには;古代の京都府北中部)が共通する。

『ホツマツタエ』の2代目ホノアカリ(彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、長男のニギハヤヒ(狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)が出雲王国(物部(もののべ)氏)の祖先神で、次男タケヒテル(丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)を神格化)が京都府宮津市の元伊勢籠(かの)神社宮司家である海部(あまべ)氏の祖先神で、どちらも太陽神を祭った武家の古代豪族だが、藤原不比等(ふじわらのふひと)が「記紀」で、物部(もののべ)氏が古代太陽神氏族の事実を隠(かく)して、物部(もののべ)氏が太陽神を祭ったと僕が理論的に証明した。
「記紀」で海部氏の祖先神の2代目・天火明命(彦坐王(さほひこのみこ)を神格化)は、息子が武日照命(たけひてるのみこと)でなく、天香語山命(あめのかごやまのみこと;丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)を神格化)で、天照大神(あまてらすおおみかみ)の息子の天穂日命(あめのほひのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)で、その息子が武日照命(たけひてるのみこと;婿(むこ)養子の飯入根(いいいりね)を神格化)して、丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)と飯入根(いいいりね)が遠戚(えんせき;遠(とお)い親戚)である。
海部(あまべ)氏の丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)は、飯入根(いいいりね)が物部(もののべ)氏から分家した出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏の初代に当たる人物と血縁関係があって、2人とも彦坐王(ひこいますのみこ)の子孫で、僕が100%正しい歴史研究の証明をして、凡人(僕以外の人間)が僕の教本の基礎を学習する所から、始める必要がある。
天穂日命(あめのほひのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)の息子の武日照命(たけひてるのみこと;婿(むこ)養子の飯入根(いいいりね)を神格化)は、もう一人の息子の大背飯三熊野之大人(おおせいいみくまののうし;飯入根(いいいりね)を神格化)と同一神ともされて、僕が海部(あまべ)氏と物部(もののべ)氏が共通の先祖と特定して、僕の自論の正当性を証明して、日本神話の重複が偶然でない。

初代・火明命(ほのあかりのみこと;誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)を神格化)は、2代目・火明命(ほのあかりのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)を養子にして、長男の饒速日命(にぎはやひのみこと;狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)が物部(もののべ)氏の先祖で、次男の武日照命(たけひてるのみこと;丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)を神格化)が海部(あまべ)氏の先祖である。
2代目・火明命(ほのあかりのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、最古の火の神様で、饒速日命(にぎはやひのみこと;狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)の直系子孫の物部(もののべ)氏だけが火の神様に神格化されて、武日照命(たけひてるのみこと;丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)を神格化)の直系子孫の海部(あまべ)氏に火の神様が存在しない。
彦坐王(ひこいますのみこ)の息子の狭穂彦王(さほひこのみこ)は、直系子孫に神功(じんぐう)皇后がいて、その長男が誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)で、彦坐王(ひこいますのみこ)の先祖を誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)で神格化して、直系系図をつなぐヒントを残した。

彦坐王(ひこいますのみこ)は、崇神(すじん)天皇12年3月11日(西暦95年4月中旬頃)に初代出雲(いずも;島根県東部)国王になって、出雲王国が古代太陽神氏族の物部(もののべ)王国と言い換えて、出雲(いずも)が崇神(すじん)天皇12年(西暦95年)から、太陽信仰の土地と証明して、出雲大社が天日隅宮(あめのひすみのみや)と呼んで、大和(やまと;奈良県)と出雲(いずも)の太陽信仰が非常に古くて、共通性が多いことも説明できる。
出雲大社の祭神の大国主神(おおくにぬしのかみ)は、初代・大国主神(おおくにぬしのかみ;初代出雲国王の彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)と2代目・大国主神(おおくにぬしのかみ;7代目出雲国王の飯入根(いいいりね)を神格化)を統合して、彦坐王(ひこいますのみこ)が河内(かわち;大阪府東部)と大和と丹波(たんば;古代の京都府北中部)と鳥取県と出雲(いずも;島根県東部)を平定した大国(おおくに)の主(あるじ)と呼んで、彦坐王(ひこいますのみこ)を男性の古代太陽神に神格化して、飯入根(いいいりね)が太陽神の要素がない。
物部(もののべ)氏の直系子孫は、出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏と、73代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)まで襲名した竹内(たけうち)氏などが現在まで続いて、武家の阿倍(あべ)氏や埴輪(はにわ)を作る土師(はじ)氏など派生氏族も多くて、物部(もののべ)氏の血筋を古代太陽神と火の神様と雷神と水神と海神と土の神様と土地の神様などに神格化して、物部(もののべ)氏と関係する言葉の熊野と『しこ(醜;色)』と『うまし(可美;甘美)』の共通性など、物部(もののべ)氏の超重要性が大切で、これほどまで超知識を単独で、特定した僕本人の超大偉業が凄(すさ)まじすぎる。

出雲大社の社伝は、垂仁(すいにん)天皇時代(西暦152年から190年)に出雲大社が造営したと伝えるが、『出雲王国(物部(もののべ)氏)と松江市の真実』の章を参照して、出雲大社が西暦310年から330年頃に創建したと考えられて、初代・大国主神(おおくにぬしのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)と2代目・大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)以外に、2代目・大物主神(おおものぬしのかみ;狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)と7代目・大物主神(おおものぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)も、同一神で祭ると証明した。
『ホツマツタエ』の日本神話のサホコチタルクニ(山陰地方;島根県を含む)は、当て字すると「狭穂子治足(さほこちた)る国」で、2代目出雲国王の狭穂彦王(さほひこのみこ)の子孫(出雲王家の物部(もののべ)氏)が治(おさ)め足(た)りる国と解釈できて、出雲王国(物部(もののべ)氏)を証明する理由である。
出雲王国(物部氏)は、古代天皇家の太陽神を祭る宮司の家柄で、物部氏の直系子孫の千家氏や三輪(みわ)氏など古代太陽神氏族が名を連(つら)ねて、富士山と出雲大社を結ぶレイライン(太陽の道)上にある神魂(かもす)神社が古代の出雲大社と考えられて、太陽信仰の出雲大社が超重要である。
出雲大社は、天日隅宮(あまのひすみのみや)とも呼ばれて、富士山と一直線に結(むす)んだ直線がレイライン(太陽の道)と呼ばれて、太陽信仰と深く関係して、島根県が出雲王国(物部(もののべ)氏)の領土で、出雲大社の祭神の大国主神(おおくにぬしのかみ;初代出雲国王の彦坐王(ひこいますのみこ)と7代目出雲国王の飯入根(いいいりね)を神格化)と同一神の大物主神(おおものぬしのかみ;7人の出雲国王を神格化)が男性の古代太陽神で、7人の出雲国王が物部(もののべ)氏の血筋である。

歴代の大物主神(おおものぬしのかみ)は、歴代の出雲国王を神格化して、初代・大物主神(おおものぬしのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)から7代目・大物主神(おおものぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)までで、物部(もののべ)氏の氏神と考えても問題ない。
現在の出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏は、彦坐王(ひこいますのみこ)の直系子孫で、古代天皇家の日本武尊(やまとたけのみこと)の直系子孫でもあって、千家(せんげ)氏に嫁(とつ)いだ高円宮(たかまどのみや)典子(のりこ)様が元皇族で、千家典子(せんげのりこ)様が子供をもうけられたら、古代天皇家と現在の皇室の血筋が交(まじ)わると考えられる。

元伊勢籠(この)神社の火明命(ほあかりのみこと)の古伝承や『先代旧事本紀』は、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)の別名で記して、大国主神(おおくにぬしのかみ)の子供でもあって、さらに丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)とも伝えて、また元伊勢籠(この)神社の極秘伝承で、火明命(ほあかりのみこと)が上賀茂(かみがも)神社の賀茂別雷神(かもわけいかずちのかみ)と異名同神とも伝える。
火明命(ほあかりのみこと)は、彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化して、その息子の丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)の子孫が元伊勢籠(この)神社宮司家の海部(あまべ)氏につながって、丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)の異母弟の狭穂彦王(さほひこのみこ)出雲王国(物部(もののべ)氏)につながって、彦坐王(ひこいますのみこ)と息子の狭穂彦王(さほひこのみこ)を饒速日命(にぎはやひのみこと)に神格化して、古伝承が間違いなく正しい。

男性の古代太陽神の天日槍(あめのひぼこ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、兵庫県豊岡市出石(いずし)町の出石(いずし)神社の祭神で、新羅(しらぎ;古代朝鮮国家)の王子だが、「あめのひぼこ」が朝鮮人っぽい人名でなく、明らかに日本人の名前である。
さらに『播磨国風土記』は、天日槍(あめのひぼこ)が葦原志挙乎(あしはらしこお;大国主神(おおくにぬしのかみ)の別名)や伊和大神(いわおおかみ;これも大国主神らしい)と争って、『筑前国風土記』に「高麗(こうらい)の国の意呂山(おろやま)より降り来し日鉾(ひぼこ)」と記して、人間でなく、神様として考える。

美濃国(みののくに;岐阜県南部)は、年代が分からない古代の太陽信仰が存在して、彦坐王(ひこいますのみこ)の息子の神大根王(かみおおねのみこ)が美濃国造(みのくにみやつこ;岐阜県南部の統治者)で、2世紀中頃に垂仁(すいにん)天皇10年(西暦161年)に創建した美濃(みの;岐阜県南部)の伊久良河宮(いくらがわのみや)天神(てんじん)神社が岐阜県瑞穂市の元伊勢で、神大根王(かみおおねのみこ)が祭った年代と考えられる。
古代太陽神氏族の和珥(わに)氏の神大根王(かみおおねのみこ)は、西暦161年に実在した太陽神を祭る人物で、生没年月日や年齢などの記録が存在しないが、美濃国造(みのくにみやつこ;岐阜県南部の統治者)だから、岐阜県南部の考古学的証拠や太陽信仰と古代太陽神氏族の血筋などを自己分析して、詳細な特徴や功績などを作成した。
考古学的に岐阜県は、2世紀中に古代天皇家の統治下と証明できて、岐阜県揖斐(いび)郡大野町の笹山(ささやま)古墳が西暦200年頃の築造で、東日本の最古の前方後円墳で、神大根王(かみおおねのみこ)が古墳埋葬者の可能性がある。
崇神(すじん)天皇元年2月16日(西暦84年3月中旬頃)に御井津比売(みいつひめ)は、10才で皇后になって、その実兄の神大根王(かみおおねのみこ)が西暦190年頃まで生きて、景行天皇12年(西暦202年)初春に神骨(かむほね)の娘2人が大碓命(おおうすのみこと)の妻になったと記して、神骨(かむほね)が神大根王(かみおおねのみこ)と同一人物で、笹山(ささやま)古墳が西暦190年代の埋葬者でもおかしくないと考えられる。
しかし年齢的には、多少無理があって、神大根王(かみおおねのみこ)の子孫の美濃国造(みのくにみやつこ)が埋葬者の可能性もあるが、崇神(すじん)天皇の息子の八坂入彦命(やさかいりひこのみこと)が古墳埋葬者の可能性が特に高くて、初代天皇の崇神(すじん)天皇古墳(崇神(すじん)天皇陵)である瀬田(せた)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)が前方後円墳の形で、2代目天皇の垂仁(すいにん)天皇古墳(垂仁(すいにん)天皇陵)の纏向石塚(まきむくいしづか)古墳より古い前方後円墳の可能性も否定できず、前方後円墳の再定義も必要である。

垂仁(すいにん)天皇14年(西暦165年)に尾張国(おわりのくに;愛知県西部)の元伊勢の中嶋宮(なかじまのみや;候補が複数あって、所在地不明)は、『倭姫命世紀(やまとひめのみことせいき)』で、倭姫命(やまとひめのみこと)が創建したと記すが、『ホツマツタエ』で、垂仁(すいにん)天皇12年9月16日(西暦163年10月中旬頃)生まれのヤマトヒメが祭れず、西暦165年に尾張(おわり)氏が男性の古代太陽神を祭って、後世に元伊勢を語(かた)って、この頃に愛知県西部を平定したと考えられる。
尾張(おわり)氏は、西暦165年頃に尾張国(おわりのくに;愛知県西部)を統治し始めて、尾張(おわり)氏の名字(みょうじ)を名乗って、太陽神を祭る京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社宮司家の海部(あまべ)氏出身である大倉岐命(おおくらきのみこと)と、尾張(おわり)氏出身の尾綱根命(おづなねのみこと)が兄弟で、この兄弟でそれぞれの家柄が分家して、摂政(せっしょう)46年頃から50年(西暦306年頃から310年)に名字(みょうじ)を尾張(おわり)氏から、海部(あまべ)氏に改名(かいめい)したと考えられる。
西暦165年頃に尾張(おわり)氏は、尾張国(おわりのくに;愛知県西部)を統治し始めて、分家する前の共通先祖の海部(あまべ)氏が崇神(すじん)天皇12年3月11日(西暦95年4月中旬頃)にさかのぼって、丹波(たには;古代の京都府北中部)の統治者として、初代天皇の崇神(すじん)天皇に承認されて、海部(あまべ)氏の氏族の始まりと考えられて、尾張(おわり)氏と海部(あまべ)氏が初代の太陽神の宮司(かんぬし)と考えられる彦坐王(ひこいますのみこ)を共通の先祖として、その子孫として太陽神を祭る古代太陽神氏族と僕が証明した。
古代太陽神氏族の尾張(おわり)氏は、愛知県西部の元伊勢の中嶋宮(なかじまのみや)を祭って、愛知県名古屋市にある熱田(あつた)神宮の仲哀(ちゅうあい)天皇元年(西暦252年)の創建にも、積極的に協力して、愛知県の太陽信仰が尾張(おわり)氏そのものの歴史と考えられる。
尾綱根命(おづなねのみこと)の兄の大倉岐命(おおくらきのみこと)は、京都府福知山市今安(いまやす)の天照玉命(あまてるたまのみこと)神社を成務(せいむ)天皇時代に祭って、正しく求めると仲哀(ちゅうあい)天皇から神功(じんぐう)皇后時代の西暦250年代から280年頃と考えられて、尾張(おわり)氏が国造(くにみやつこ)に任命された仲哀(ちゅうあい)天皇5年9月(西暦256年10月頃)と合致して、正しい歴史である。
『ホツマツタエ』から熱田(あつた)神宮は、日本武尊(やまとたけのみこと)の妾(めかけ)の宮簀媛(みやずひめ)が創始して、仁徳(にんとく)天皇の即位で、草薙剣(くさなぎのつるぎ)が宮崎県から奈良県に戻った西暦330年代以降に神宝として納めた可能性が高くて、尾張(おわり;愛知県西部)の太陽信仰が間違いなく尾張(おわり)氏である。

『ホツマツタエ』垂仁(すいにん)天皇25年3月8日(西暦176年4月上旬頃)に豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)は、実年齢102才で、斎王(さいおう;太陽神に仕える未婚の皇女)を続けられないとして、倭姫命(やまとひめのみこと)に見習わせて、2代目の伊勢神宮の斎王として、倭姫命も念願だった大内(おうち)の大巫女(おみこ;正式な斎王)になった。
邪馬台国(やまたいこく)の女王の卑弥呼は、根本的・徹底的に100%間違いで、邪馬台国(大和国;やまとこく)の男王(だんおう)が父の垂仁(すいにん)天皇と、男弟(だんてい;異母弟)の景行(けいこう)天皇の親子に当たって、邪馬台国(大和国;やまとこく)の隣(となり)が女王国(伊勢国;いせのくに:三重県中部)で、女王国(伊勢国;いせのくに)の王女の卑弥呼(倭姫命;やまとひめのみこと)が正しくて、古代中国人の勘違いを現代人(僕以外の人間)が受け継いで、昔から僕が完全に邪馬台国(大和国;やまとこく)論争を特定した現状だった。
倭姫命は、垂仁天皇26年9月16日(西暦177年10月中旬頃)にアマテルカミの御霊(みたま)を現在の伊勢神宮内宮に遷宮して、来年2027年が伊勢神宮内宮の遷宮1850年目で、正確な遷宮日を西暦年月日で求めて、伊勢神宮内宮に天皇陛下を始めとする皇族方を迎えて、国家規模の祭りを執(と)り行なうべきだと僕が考える。

日本各地の神社の古伝承や様々な伝承は、無意味・無価値でなく、僕が「記紀」の日本神話を完全解釈したことで、日本神話の神々…八百万(やおよろず)の神々の雑多な伝承を無視できないようになると考えられて、日本各地の神社の極秘伝承や様々な古伝承があっても、僕が隠すべきでなく、情報の混乱を生まないようにうまく配慮して公表して、僕が完全解明したくて、日本神話の古伝承や様々な伝承を隠す意味があっても、僕が完全解釈した状態で、隠しても無意味・無価値で、むしろ完全解釈できる僕の超頭脳が必要である。
日本各地の神社や神道に突き付けられた問題は、天皇家の宗教の神道に直面して、現在の神道や皇室や宮内庁など国家レベルの問題で、これだけのことを公表した責任が僕にもあるが、僕が自殺願望の持ち主で、いつ自殺してもおかしくなくて、また人がいつ死ぬかも分からず、僕が今この時代この時この瞬間に生きて、少しでも重要な史料を残したいと思う。

僕にとって彦坐王(ひこいますのみこ)と太陽信仰の神社の完全解釈は、23年以上の歴史研究の成果で、あまりに簡単に特定して、古代天皇家の地政学(地理的な条件に注目して、軍事や外交などの国家戦略、また国同士の関係などを分析や考察する学問)や天文学などの知識が超優秀で、僕本人と次代の教本や後輩の良い勉強の材料である。

<参考文献>
『古代日本史への挑戦』
著者・僕 発行・株式会社オカムラ
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『古事記(中)―全三巻―』
著者・次田真幸 発行・株式会社講談社
『元伊勢の秘宝と国宝海部氏系図』
編著者・海部光彦 発行・元伊勢籠神社社務所
『知の探究シリーズ 日本超古代文明のすべて』
著者・多数 発行・株式会社日本文芸社
インターネットの不明サイトから少々拝借

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