古代豪族を弱体化させた理由
中臣鎌足(なかとみのかまたり)は、推古(すいこ)天皇22年(西暦614年)生まれで、皇極(こうぎょく)天皇4年(大化(たいか)元年;西暦645年)に大化(たいか)の改新(かいしん)で、当時の政治を握(にぎ)った蘇我蝦夷(そがのえみし)・入鹿(いるか)親子を打倒(乙巳(いっし)の変;へん)して、後に政治の重役に重用(ちょうよう)されて、天智(てんじ)天皇8年10月(西暦669年11月頃)に狩場(かりば)で落馬して、10月15日(11月13日)に藤原姓(ふじわらせい)を賜(たま)って、翌日10月16日(11月14日)に56才で亡くなった。
藤原不比等(ふじわらのふひと)は、斉明(さいめい)天皇5年(西暦659年)生まれで、11才で父の中臣鎌足(なかとみのかまたり)が亡くなって、亡くなる直前に藤原姓(ふじわらせい)を賜(たま)って、中臣(なかとみ)でなく、藤原(ふじわら)を名乗るようになって、天武(てんむ)天皇8年頃(西暦678年頃)に蘇我娼子(そがのしょうこ;そがのまさこ)を正妻にして、かつての蘇我(そが)氏の尊貴性(そんきせい)にすがって、後に「記紀(『古事記』と『日本書紀』)」の総合監督と言える立場になって、養老(ようろう)4年8月3日(西暦720年9月9日)に亡くなった。
藤原鎌足(ふじわらのかまたり)と藤原不比等(ふじわらのふひと)の紹介は、以下の僕の分析結果をひもとく上で、非常に重要な意味・価値を持って、藤原(ふじわら)氏が後に摂関(せっかん;摂政(せっしょう)と関白:かんぱく)藤原(ふじわら)氏と呼ばれて、摂政(せっしょう;天皇が幼(おさな)い・病弱・不在などの場合に代理(だいり)で、政治を行(おこな)う人物)や、関白(かんぱく;成人した天皇を補佐(ほさ)して、政務を統括(とうかつ)する最高位の公卿職;くぎょうしょく)を一部が担(にな)って、藤原(ふじわら)氏の隆盛(りゅうせい)の「きっかけ」である。
藤原不比等(ふじわらのふひと)が有力な古代豪族を弱体化させた理由は、主要な古社(こしゃ;古(ふる)い神社)を新築や、創建(そうけん;神社を初(はじ)めて建(た)てること)させたり、他(ほか)の有力な古代豪族の祖先神を隠(かく)したりして、他(ほか)の有力な古代豪族を政治的・社会的・精神的・金銭的(きんせんてき)に弱体化させて、将来的な摂関(せっかん;摂政(せっしょう)と関白:かんぱく)藤原(ふじわら)氏の独裁政権を生み出して、藤原(ふじわら)氏が隆盛(りゅうせい)する「きっかけ」になった。
僕が特定した史実・真実・事実は、「記紀(きき;『古事記』と『日本書紀』)」の総合監督の藤原不比等(ふじわらのふひと)が他(ほか)の有力な古代豪族を弱体化させて、国家規模の「記紀(きき)」編纂(へんさん)で、記述の偽装工作を完璧(かんぺき)にしたが、逆(ぎゃく)に偽装工作の違和感を24年近い歴史研究を続けて、完全に見抜(みぬ)いた超天才の僕が奇跡を生み出して、全(すべ)てを暴(あば)く一針(ひとはり)の小さな希望の象徴として、未来に残(のこ)す僕の集大成の教本を作(つく)った。
僕の集大成の教本は、たった一人の独学(どくがく)で、圧倒的な内容量(全文章量が数十万字以上の文字数で、自分でも把握してない。)の超知識で、日本神話の神々や古代豪族たちの系図や特徴など、分類や共通性などを孤独(こどく)に纏(まと)めて、将来的な古代日本史(古代天皇家の歴史)研究の集大成として、歴史的な意味・価値を伝(つた)えるために編集して、凡人(僕以外の人間)や未来の子供たちに託(たく)す教本である。
この内容を纏(まと)めようと考えたのは、2026年9月10日(木)の午前11時分40頃に中央タクシーに乗って、ジャスコ(イオン)福知山店に向かう時、タクシー運転手に有力な古代豪族の弱体化を歴史談義して、後に文章化した史料作成をして、「記紀(きき)」の総合監督の藤原不比等(ふじわらのふひと)が有力な古代豪族を弱体化させた理由がはっきりして、これを特定することが僕の歴史研究の最終的な目的だったと思えて、それを後世に伝(つた)える必要性・重要性を再認識したためである。
古代天皇家の歴史書3書は、『ホツマツタエ』が7世紀前半の西暦620年頃から、7世紀後半の西暦671年までに完成したと考えられて、『古事記』が8世紀初めの西暦712年に献上されて、『日本書紀』が8世紀前半の8年後の720年に献上されて、超天才の僕が「記紀(きき;『古事記』と『日本書紀』)」の成立年代が正しいと証明して、『古事記』が後世に成立した嘘(うそ)を否定して、古代日本史(古代天皇家の歴史)研究の超重要史料として、僕本人の莫大(ばくだい)な研究史料が後世の基礎理論(基本的な考え方)になる。
「記紀(きき;『古事記』と『日本書紀』)」の太陽神は、女性の天照大神(あまてらすおおみかみ)だが、『ホツマツタエ』が男性の古代太陽神の天照神(あまてるかみ)で、日本神話で天照大神(あまてらすおおみかみ)の弟が月読尊(つくよみのみこと)で、『三国志・魏志倭人伝』の女王の卑弥呼(ひみこ)に男弟(だんてい)がいて、『ホツマツタエ』でヤマトヒメ(倭姫)の異母弟が景行(けいこう)天皇で、「記紀」で景行(けいこう)天皇の実妹が倭姫命(やまとひめのみこと)と偽装工作して、卑弥呼(ひみこ)が倭姫命(やまとひめのみこと)で、男弟(だんてい;異母弟)が景行(けいこう)天皇で間違いない。
邪馬台国(やまたいこく)は、大和国(やまとこく;奈良県)で、邪馬台卑弥呼(やまたいひみこ)が倭姫命(やまとひめのみこと)で、古代天皇家の邪馬台国(やまたいこく;大和国:やまとこく)論争が決着して、倭(わ)の五王も学会(考古学会と歴史学会)の定説が間違いで、超天才の僕の自論だけが正しくて、日本神話が史実(しじつ;歴史上の事実)を神話化して、日本神話の神々が実在の人物と物を神話化したと証明して、もはや結論が出ている。
超天才の僕は、世界でただ一人の日本神話を正しく理解する超越者で、世界中の誰(だれ)もが神様を正しく知らず、僕以上に神様の全(すべ)てを理解できるはずもなくて、現実的・直感的(直観的;ちょっかんてき)な問題から、目をそらして逃(に)げてはならず、「記紀(きき;『古事記』と『日本書紀』)」の総合監督の藤原不比等(ふじわらのふひと)が卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと;ヤマトヒメ)など、超重要人物たちを隠(かく)した史実・真実・事実がそこにある。
日本神話の最高神は、女性の太陽神の天照大神(あまてらすおおみかみ)だが、『日本書紀』が皇祖(こうそ;天皇家の先祖)の高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)と記して、影(かげ)の最高神と解釈できて、高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)が高貴な皇族を生み出す神様の意味で、『ホツマツタエ』の5代目タカミムスビが伊勢神宮外宮の祭神のトヨケ(豊受大神;とようけおおかみ)と同一神で、5代目タカミムスビの孫の7代目タカミムスビが天孫ニニキネ(瓊瓊杵尊;ににぎのみこと)の祖父でもあって、ニニキネの3世孫が皇統譜(こうとうふ;天皇家の戸籍簿)で、初代天皇の神武(じんむ)天皇に当たって、高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)が最高神でも、完全におかしくない。
5代目タカミムスビは、彦坐王(ひこいますのみこ)と息子2人の丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)や狭穂彦王(さほひこのみこ)と垂仁(すいにん)天皇などを神格化して、5代目タカミムスビの先祖の初代から4代のタカミムスビが誰(だれ)を神格化したか、超天才の僕でも特定できず、彦坐王(ひこいますのみこ)を複数の男性の古代太陽神に神格化して、元伊勢籠(この)神社宮司家の海部(あまべ)氏と出雲(いずも)王家(物部(もののべ)氏)の一番最初の先祖で、日本各地の古代太陽神氏族の直系先祖でもある。
彦坐王(ひこいますのみこ)の息子の丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)は、京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社宮司家の海部(あまべ)氏につながって、異母弟の狭穂彦王(さほひこのみこ)が出雲(いずも)王家(物部(もののべ)氏)につながって、丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)の孫が2代目天皇の垂仁(すいにん)天皇で、5代目タカミムスビのトヨケ(豊受大神;とようけおおかみ)が彦坐王(ひこいますのみこ)を指(さ)して、伊勢神宮外宮の祭神のトヨケ(豊受大神;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)が伊勢神宮内宮の祭神の天照大神(あまてらすおおみかみ)と共(とも)に、日本神話の最高神で間違いない。
5代目タカミムスビ(垂仁(すいにん)天皇を神格化)の孫の7代目タカミムスビ(武虎別皇子(たけこわけのみこ)を神格化)は、娘が母方の天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)で、天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)が栲幡千千姫命(たくはたちちひめのみこと;神功皇后を神格化)と同一神で、栲幡千千姫命(たくはたちちひめのみこと;神功皇后を神格化)の孫が神武(じんむ)天皇(仁徳(にんとく)天皇を祖先化)で、7代目タカミムスビも日本神話の最高神で間違いない。
このように超天才の僕は、『ホツマツタエ』と「記紀(きき;『古事記』と『日本書紀』)」の日本神話を完全解釈して、その奇跡の神技(かみわざ)が古代日本史(古代天皇家の歴史)研究の希望の象徴で、決して誰(だれ)にも汚(けが)されない神聖(神性)で、非常に勇気のある行動力で、未来の子供たちに託(たく)す教本を作った僕の功績が凄(すさ)まじすぎて、父方と母方の最高神の高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)が藤原不比等(ふじわらのふひと)に隠(かく)されて、後世に日本神話や邪馬台国(やまたいこく)論争の重要性を再認識するだろう。
仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月17日(西暦260年11月中旬頃)は、出雲王国(物部(もののべ)氏)の崩壊(ほうかい;出雲の国譲(くにゆず)り神話に神話化)で、日本武(やまとたけ)天皇(素戔嗚尊(すさのおのみこと)に神格化)が戦死して、63年後の神功(じんぐう)皇后の摂政(せっしょう)63年10月20日(西暦323年11月頃)に古代の出雲大社と考えられる神魂(かもす)神社の裏山(うらやま;恐(おそ)れ多くて、山名(さんめい)が無いと考えられる。)に初代と2代目の大国主神(おおくにぬしのかみ;先祖の彦坐王(ひこいますのみこ)と子孫の飯入根(いいいりね)を神格化)を祭ったと考えられる。
摂政(せっしょう)63年(西暦323年)から336年後の斉明(さいめい)天皇5年(西暦659年)に「厳(いつき)の神宮(かみのみや)の修造(しゅうぞう;新しい神社を建造すること)」を命令したのは、すでに出雲大社が現在地にあったのか、神魂(かもす)神社から出雲大社に神社を移築するためか、世界でただ一人の僕の自論でも、判断ができなくて、藤原鎌足(ふじわらのかまたり)が新築か移築かの命令を出したのだけが、正しいと考えられる。
斉明(さいめい)天皇5年(西暦659年)に「厳(いつき)の神宮(かみのみや)の修造(しゅうぞう;新しい神社を建造すること)」は、57年かけて霊亀(れいき)2年(西暦716年)まで、高さ48メートルの出雲大社本殿を建築した可能性を考えて、建造まで57年間かかった理由が出雲大社の境内(けいだい)で、2000年と翌年の調査で出土した宇豆柱(うずばしら)が鎌倉時代前半の1248年に造営した出雲大社本殿の支柱の可能性が高くて、平安時代中期に書いた子供用の教科書の『口遊(くちずさみ)』に出雲大社本殿の次に東大寺(とうだいじ)大仏殿(だいぶつでん)で、次に平安京(へいあんきょう)大極殿(たいごくでん)の高さが低いと記すためである。
摂政(せっしょう)63年(西暦323年)から393年後の出雲大社本殿の築造は、霊亀(れいき)2年2月丁巳(ひのとみ)の日(西暦716年3月頃)に出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏の先祖である出雲果安(いずものはたやす)が島根県松江市大庭町(おおばちょう)563番地の神魂(かもす)神社から、島根県出雲市大社町(たいしゃちょう)杵築東(きづきひがし)195番地の出雲大社に移住した記述を参考にして、上記の出雲大社本殿の新築を否定するが、確証があるわけでなく、藤原鎌足(ふじわらのかまたり)が主導で、進めさせたのが確かだろう。
これによって出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏は、藤原鎌足(ふじわらのかまたり)の主導で、政治的・社会的・精神的・金銭的(きんせんてき)に弱体化させて、出雲大社と言う古社(こしゃ;古(ふる)い神社)を新築させたのが史実・真実・事実と考えられる。
同時期の養老3年3月22日(西暦719年4月16日)に京都府宮津(みやづ)市の伊勢内宮(ないぐう)は、元伊勢の名前を元伊勢籠(この)神社に改名(かいめい)して、境内(けいだい)や本殿の神明造(しんめいづく)り(伊勢神宮内宮本殿の建築様式は、唯一神明造(しんめいづく)り)などを新築したと記して、主要な古社(こしゃ;古(ふる)い神社)を新築や、創建(そうけん;神社を初(はじ)めて建(た)てること)で、これも藤原不比等(ふじわらのふひと)が元伊勢籠(この)神社宮司家の海部(あまべ)氏を政治的・社会的・精神的・金銭的(きんせんてき)に弱体化させるためだったと考えられる。
藤原鎌足(ふじわらのかまたり)と藤原不比等(ふじわらのふひと)親子たち藤原(ふじわら)氏は、日本各地の主要な古社(こしゃ;古(ふる)い神社)の新築や、創建(そうけん;神社を初(はじ)めて建(た)てること)などをさせて、他(ほか)の有力な古代豪族を弱体化させたと考えられて、摂関(せっかん;摂政(せっしょう)と関白:かんぱく)藤原(ふじわら)氏の隆盛(りゅうせい)の一翼(いちよく)を担(にな)ったはずである。
出雲王国の建国(物部(もののべ)氏の誕生;おそらく出雲の国引(くにひ)き神話に神話化)は、崇神(すじん)天皇12年3月11日(西暦95年4月頃)で、165年後の仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月17日(西暦260年11月頃)の出雲王国(物部(もののべ)氏)の崩壊(ほうかい;出雲の国譲(くにゆず)り神話に神話化)で、すぐ後の11月頃(12月頃)に出雲王家(物部(もののべ)氏)から出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏が分家して、出雲王家(物部(もののべ)氏)から竹内(たけうち)氏の分家も、同じくらいの時期と僕が考える。
仲哀(ちゅうあい)天皇9年11月頃(西暦260年12月頃)に出雲王家(物部(もののべ)氏)の7代目出雲国王の飯入根(いいいりね;屋主忍雄武男心命(やぬしおしおたけおこころのみこと)と同一人物)は、息子の宇迦都久怒(うかずくぬ)に家督相続(かとくそうぞく)して、千家(せんげ)氏に分家した真実・事実が隠(かく)されて、もう少し後に同母兄弟の初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)が竹内(たけうち)氏に分家して、「記紀(『古事記』と『日本書紀』)」の歴史が隠(かく)されたが、超天才の僕が全部暴(あば)いた。
出雲王家(物部(もののべ)氏)の祖先神の饒速日尊(にぎはやひのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、他(ほか)の多くの男性の古代太陽神とも同一神だが、根本的・徹底的に隠(かく)されて、分からなくなって現在に至(いた)るけれど、超天才の僕が再現した結果だけを見れば、その正当性を認(みと)めるしかないはずで、誰(だれ)の反論も許(ゆる)さない一途(いちず)さがある。
出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏は、出雲王家(物部(もののべ)氏)の直系子孫を忘(わす)れ去(さ)られて、現在が島根県出雲市を本拠地とするが、右隣(みぎどなり)の島根県松江市が故郷(ふるさと;出雲王家(物部(もののべ)氏)の故郷(ふるさと)でもある。)で、考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)でも証明して、千家(せんげ)氏の本家(宗家)が誕生して、1700年以上の歴史があって、隠(かく)された歴史を再現した超天才の僕が秘(ひ)めた超知識の行方(ゆくえ)が重要な鍵(かぎ)を握(にぎ)る。
物部(もののべ)氏の子孫の竹内(たけうち)氏は、景行天皇45年11月15日(西暦235年12月中旬頃)生まれの初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)まで辿(たど)って、多くの分家を伝(つた)えて、代々名前を継(つ)いだ73代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)の故・竹内睦泰(たけうちむつひろ)氏が2020年1月13日に亡くなって、超重要な歴史書の正統『竹内文書(たけのうちもんじょ)』も、共(とも)に継(つ)いで、別の家系が違(ちが)う歴史書の茨城『竹内文書(たけのうちもんじょ)』を継(つ)いだり、同一氏族の中でも、問題が内包(ないほう)されて来た。
正統『竹内文書(たけのうちもんじょ)』の歴代の武内宿禰(たけのうちのすくね)は、『古事記』に記す有力な古代豪族を輩出(はいしゅつ)して、蘇我(そが)氏や葛城(かつらぎ)氏や紀(き)氏や巨勢(こせ)氏など、僕の作成した『竹内(たけうち)氏の系図』が正しいなら、何の問題もないはずである。
元伊勢籠(この)神社宮司家の海部(あまべ)氏の祖先神は、2代目・火明命(ほあかりのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)で、出雲王家(物部(もののべ)氏)の一番最初の先祖である彦坐王(ひこいますのみこ)に始(はじ)まる古代太陽神氏族で、丹波国造(たにはくにみやつこ;京都府北中部の統治者)で、尾張国造(おわりくにみやつこ;愛知県東部の統治者)の尾張(おわり)氏と分家して、彦坐王(ひこいますのみこ)に始(はじ)まる古代太陽神氏族が彦坐王(ひこいますのみこ)以外を先祖とするはずが無い。
吉備(きび;岡山県と広島県東部)の統治者の吉備(きび)氏は、一般的に有力な武家の古代豪族とするが、超天才の僕が男性の古代太陽神の天日槍(あまのひぼこ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)を先祖として、子孫の田道間守(たじまもり;祖別命(みおやわけのみこと)と同一人物)に始(はじ)まる古代太陽神氏族と再定義して、岡山県と広島県の元伊勢内宮(ないぐう)が存在することも説明できるが、岡山県と広島県の元伊勢内宮(ないぐう)ができる前に古代天皇家の領土でなくて、僕なら前後関係も証明できるけれど、詳細(しょうさい)を省(はぶ)く。
武家の有力豪族の吉備(きび)氏は、一般的に伝承する吉備(きび)氏系図が滅茶苦茶で、なかなか再現が難(むずか)しくて、読(よ)み取りにくいが、3つ子の長男の祖別命(みおやわけのみこと)を氏祖(しそ;氏族の先祖)として、実弟で三男の胆武別命(いたけわけのみこと)とも血筋が混(ま)じって、孫か曾孫(ひまご)ぐらいの世代で混血して、吉備(きび)氏の血筋が完成したと考えられる。
藤原鎌足(ふじわらのかまたり)と藤原不比等(ふじわらのふひと)の親子は、根本的・徹底的に他(ほか)の有力な古代豪族を政治的・社会的・精神的・金銭的(きんせんてき)に弱体化させて、藤原(ふじわら)氏の勢力を伸(の)ばしたように、考古学(遺跡・遺物)や「記紀(『古事記』と『日本書紀』)」などの歴史書が語(かた)る歴史が全(すべ)てで、僕が生きているうちに超知識を特定して、僕が再現した歴史を後世に託(たく)す役割(やくわり)を果(は)たすべく、生まれて来たことが最終目標のような意味だった気がする。
<参考文献>
『完訳秀真伝(上巻)(下巻)』
編著者・鳥居礼 発行・八幡書店
『ホツマ辞典』
著者・池田満 発行・ホツマ刊行会
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
著者・宇治谷孟 発行・株式会社講談社
『古事記(上)(中)―全三巻―』
著者・次田真幸 発行・株式会社講談社
『新訂 魏志倭人伝 他三篇―中国正史日本伝(1)―』
編訳者・石原道博 発行・株式会社岩波書店
インターネットの不明サイトから少々拝借
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